- 著者
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山下 清海
尹 秀一
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
- 巻号頁・発行日
- pp.157, 2008 (Released:2008-07-19)
問題の所在
韓国は「チャイナタウンがない国」と呼ばれてきた。それは,第二次世界大戦後,韓国政府が国内の華人に対して厳しい政策をとって来たために,形成されたチャイナタウンが消滅したこと,あるいは新たなチャイナタウンが形成されなかったことを示している。
しかし,1992年の韓国と中国の国交樹立を契機に,韓国における華人社会を取り巻く状況は大きく変化した。韓国と中国の間の貿易や人的な交流が深まるとともに,韓国政府や韓国人の華人に対する対応も変わってきた。それらの変化の象徴が,かつて形成されていたチャイナタウンの再開発や新たなチャイナタウンの建設構想である。
報告者の一人である山下は,2000年に仁川(インチョン)を調査し,かつてのチャイナタウンおよび華人社会の状況について報告した(山下 2001)。その後,仁川のチャイナタウンは「仁川中華街」として,急速に再開発復興された。本報告は,仁川中華街の再開発の過程と現状を明らかにするとともに,仁川中華街の再開発の意義について考察するものである。
なお,現地調査は,2007年3月および2007年11月に実施し,仁川中華街繁栄聯合会,韓中文化館,仁川広域市中区庁,仁川中山中・小学校(華僑学校),中国料理店をはじめとする華人経営店舗などから聞き取り,資料収集を行うとともに,仁川中華街の土地利用・景観調査を実施した。
仁川における華人社会の変遷
1882年,朝清商民水陸貿易章程により,仁川は,釜山,元山とともに中国側に開港された。そして,仁川には清国租界が設けられ,チャイナタウンが形成された。華人の出身地をみると,黄海を挟んで対岸に位置する山東が最も多かった。
第二次世界大戦後,李承晩政権(1948~60年)および朴正煕政権(1963~79年)の下で,民族経済の自立を掲げて実施された華人の経済活動に対する厳しい規制強化により(外国人土地所有規制,外貨交換規制,飲食業への重課税など),華人社会は大きな打撃を受けた。韓国での生活を諦めざるを得なくなった多数の華人は廃業して,アメリカ,カナダ,台湾,日本など世界各地に移住し,仁川のチャイナタウンは事実上消滅した。
仁川中華街の再開発
2001年から仁川広域市中区庁は,外国租界時代の歴史的建造物が多く残る地区を整備して,新たな観光ベルトを形成する事業を開始した。その中核をなすのが「仁川中華街」の建設であった。2002年,サッカーの日韓共催ワールドカップの際,多数の中国人の来訪も期待されていた。
2002年には,仁川広域市中区庁のさまざまな部門の職員が,仁川中華街再開発の参考とするために,横浜中華街を視察に出かけた。また同年には,仁川中華街のシンボルとなる最初の牌楼(中国式楼門)が,仁川の姉妹都市である山東省威海市の寄贈で建設された。その後,さらに二つの牌楼,三国志壁画通り,韓中文化館,中華街公営駐車場などが建設され,チャイナタウンらしい街路や景観がしだいに整ってきた。
仁川中華街の再開発に伴い,仁川中華街の外部で中国料理店やその他の店舗を営んでいた華人が,仁川中華街で開業するようになった。2001年には5軒しか残っていなかった中国料理店は,2007年11月の調査では,30軒あまりに増えた。また,約30軒の中国物産,食品などの店舗が,仁川中華街に立地している。規模の大きな中国料理店では,中国出身の料理人や従業員を雇用している。また,中国物産,食品店の経営者の多くは,最近山東省などから来韓した「新華僑」である。
仁川中華街の再開発事業は,仁川広域市,特に中区庁が主体となって進められた。財政的な支援も,仁川中華街の建設計画も,ほとんどが行政側によるものである。地元の華人社会は,これまでの仁川中華街の再開発では,付随的な役割しか果たしていない。この背景には,これまでの韓国政府の非常に厳しい対華人政策により,華人社会の経済的,社会的な力が徹底的に弱体化されてきたことを反映している。
〔文献〕
山下清海 2001.韓国華人社会の変遷と現状.国際地域学研究(東洋大学) 4:261-273.山下清海『東南アジア華人社会と中国僑郷―華人・チャイナタウンの人文地理学的考察―』117-135.古今書院に再録.
尹 秀一 2005.韓国―中国語ブームと韓流のなかで―.山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』186-198.明石書店.