著者
島野 翔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.219, 2008 (Released:2008-07-19)

1.はしがき 地理学では古くから、歴史的・文化的に価値のある景観に関する研究が行われてきた。しかし近年、景観に関する諸問題が生じているのは、むしろ歴史的・文化的な景観を持たない一般の地域においてである。この一般の地域、特に都市の市街地の景観形成に関する助言こそが、景観を研究対象とする学問分野に求められている。建築計画学の分野では、部分的な街路形態の特徴に注目し、それを一般の地域における景観形成の拠り所とする研究が増加している。街路には、かつての地形的、土木技術的な制約による屈曲や勾配、狭まりが視覚的に認識できる状態で残されており、建築物の更新頻度が高いわが国では、こうした街路が地域の歴史を語る際の手がかりとなる。景観を「目に映ずる同様の特徴を有する地表の一部」(山口、2007)と定義し、目視で各地の景観を分析してきた地理学においても、街路形態に視覚で認識可能な資源を見出すことは、地理学の手法を景観形成に役立てるうえで意義があると考えられる。そこで、本論では「Y字路角地」という、一般の地域に普遍的に見られる街路形態の景観構成を調査・集計し、計量分析を用いて類型化を行い、一般の地域における景観形成の資源としていかに活用することが可能であるか、そのモデルを掲示することを目的とする。 2.Y字路角地とは 都市内の交差点は、交通流動や土地利用の合理性が志向されるため、できるだけ直角に近い角度で交わり、角地が矩形となった十字路、T字路を形成している場合が多い。しかし、諸事情により鋭角で交差するものもあり、(1)土地利用や建築物に形態的な制約がかかり、特徴的な景観が現れる、(2)角地に対面する道路から眺めたとき、角地の中央が強調され印象的なアイ・ストップとなるといった特徴を有している。本論では鋭角の角地のうち、交差角度が45°以下の交差点の角地を「Y字路角地」と定義し、景観観察を行った。 3.東京23区におけるY字路角地の分布 東京23区内のY字路角地(合計5875箇所)の位置を電子地図上にプロットし、カーネル密度推計法を用いて等値線を描いた。その結果、Y字路角地は1933年~1945年に行われた耕地整理以前とそれ以後の道路が混在し、かつ両者の方向が異なっている地域に多く分布していることが分かった。本論ではそのうち、JR池袋駅から1kmほど北西に位置する地域でY字路角地の景観観察を行った。 4.景観観察の手法とその結果 建築計画学で使われている「表層」の概念を援用し、調査地域のY字路角地163箇所に対し、対面道路から見える範囲を観察した。観察項目は(1)交差角度、(2)隅切り、(3)接道部と建築物の距離、(4)接道部の見通し、(5)土地利用、(6)建築物の階層、(7)配置物である。その結果、(2)、(3)、(4)は交差角度の影響を強く受けていることが判明した。 5.Y字路角地の景観構成の類型化 景観観察で得られたY字路角地163箇所における、34種類の変数を用いて数量化III類分析とクラスター分析を施し、Y字路角地の景観構成を類型化した結果、「(1)残余地のある低層建築型」、「(2)幹線道路型」、「(3)植栽・駐車スペース型」、「(4)残余地のない低中層建築型」、「(5)非建蔽地・公有地型」の5つの類型を得ることができた。 これらの類型は、(2)以外は分散して立地している。すなわちY字路角地の景観は、経済原理よりもその土地固有の諸事情によって決定されている可能性が高いことが判明した。その他、景観形成の資源として、それぞれの類型のY字路角地がいかなる価値を持ちうるかを考察した。
著者
小口 高
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.262, 2008 (Released:2008-07-19)

I.日本のGISの発展と自然地理学 日本のGISの発展が,欧米に比べて遅れていたことがしばしば指摘されている.特に1990年代初頭におけるGISの普及度は欧米に大きく引き離されていたが,現在までにこの差はかなり縮小した.しかし,まだ欧米との差が大きい分野もあり,自然地理学はその一つとみなされる.日本で自然地理学へのGISの応用が遅れている理由として,1)特に初期において日本のGISを牽引した地理学者の多くが人文地理学を専門としていたこと,および2)日本ではGISの導入に積極的な工学の研究者が多いが,応用対象として都市や交通といった人文社会的な要素を選ぶ傾向があること,が挙げられる. 一方,欧米においては,自然科学と人文科学に関するGISが,よりバランス良く発展してきた.たとえば1986年に世界最初のGISの教科書を著したピーター・バーローは自然地理学者であり,1980年代以降に米国のGISを牽引しているマイケル・グッドチャイルドやデービッド・マークも,初期には地形,地質,生態などの自然を主な研究対象としていた.今後,日本においても自然地理学を含む自然科学におけるGISが,より発展することが望まれる. II.地理空間情報活用推進基本法と自然地理学 2007年8月29日に施行された「地理空間情報活用推進基本法」(以下,基本法)は,日本のGISを産・官・学の多様な側面において発展させる推進力になると考えられる.この法律が,上記した日本の自然地理学におけるGISの発展の相対的な遅れを解消するために有効かを,基本法の内容を踏まえて簡単に検討した. 上記の基本法は,主に国民生活と経済社会の向上を目指しているため,全体としては自然よりも人文社会に関する要素が重視されている.したがって,基本法は従来からの日本のGISの特徴を反映しているとみなされ,この法律が自然地理学におけるGISの応用を飛躍的に発展させるとは言い難い.しかし,自然地理学に関連したいくつかの課題については,確実に発展を期待できる.たとえば,基本法は13項目の「基盤地図情報」を制定しているが,その中には海岸線と標高点が含まれている.これらの情報が高頻度で更新され,GISデータの形で提供されることにより,地形変化の定量的な研究が容易になる.たとえば,これまで海岸侵食の実態をGISによって分析する際には,複数の時期の空中写真や地図を必要に応じて幾何補正し,海岸線をトレースしてベクター・データを作製する必要があった.今後はそのような手間が減り,幾何補正の際の誤差といった問題も軽減される.内陸の地形変化を調べる際にも,標高データが頻繁に更新されれば,写真測量などによって自前で複数の時期のDEMを作製する手間が減少する. III.GISアクションプログラム2010と自然地理学 2007年3月22日に測位・地理情報システム等推進会議が「GISアクションプログラム2010」を決定した.このプログラムの副題は「世界最先端の地理空間情報高度活用社会の実現を目指して」となっており,基本法と連動する動きを,より具体的に述べたものとみなされる.本プログラムでも,基本的には人文社会関係の情報の充実が重視されているが,「防災・環境などに関する主題図」「沿岸詳細基盤情報」「地質情報」「地すべり地形分布図」「生物多様性情報」といった自然地理学に関する情報も取り上げられている.これらの多くは省庁が以前から整備しているものであり,「生物多様性情報」に含まれるベクター植生データなど,研究者に頻繁に利用されているものが含まれる.その継続的な整備とデータの配布の促進が本プログラムに記されていることは,今後の自然地理学の発展に重要といえる.
著者
品田 光春
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.251, 2008 (Released:2008-07-19)

1.問題の所在 本報告では、明治前期における鉱業政策の前提となる政府による各種鉱業資源に関する空間認識について、国内の石油資源を事例に検討する。近世以前からの長い伝統を有する金属鉱業や、近世末期から燃料として注目されていた石炭鉱業に比して、石油業は灯油輸入の増加を背景に、近代になってはじめて産業としての重要性が認識された。そのため、中央政府にとっては未知の鉱業であったといっても過言ではない。この未知の鉱業資源である石油産地としての油田に関する地質・地理的な国土情報を、いかに公権力たる政府が認識したかを、複数の公的な油田調査・視察報告書の記載内容から読み解いていく。 2.資料と分析方法 今回の報告は明治30年代の地質調査所による継続的な油田調査事業以前の、明治前期における主要な国内油田調査として、大鳥圭介、ライマン、地質調査所(中島謙造)の3者の報告書の内容を相互に比較し検討する。主として用いた資料は、大鳥圭介については『信越羽巡歴報告』(1875年)を、ライマンについては『日本油田地質測量書』(1877年)、『日本油田調査第二年報』(1878年)、『北海道地質総論』(1878年)を、地質調査所(中島謙造)については『本邦石油産地調査報文』(1896年)である。 3.大鳥圭介の油田視察 旧幕臣の大鳥圭介は、欧米視察で得た知見から石炭・鉄と並んで石油業の重要性を認識しており、新潟・長野の「くそうず」の将来の開発を期待し、内務省勧業寮出仕中に、新潟・長野・山形の石油・石炭産地を視察し、地質学の視点を踏まえた科学的視点から、当時の石油産地の地質・地形・生産状況について大久保利通に報告した。大鳥は「鑿井の業も越後を先にして次に信濃に及を順とす」として、新潟県を主力産地として優先的に開発すべきと認識していた。これら大鳥の知見が後の官営石油事業やライマンの地質調査事業の方向性を空間的に規定した可能性が高い。 4.ライマンの油田調査 大鳥とも密接な関係にあったライマンは「お雇い外国人」として開拓使での北海道地質調査を経て、1876年から内務省勧業寮(1877年廃止、以後工部省工作局)へ所属し、新潟県を中心に日本初の本格的な広域地質調査を実施した。ライマンにより日本のおおまかな油田地帯の地理的分布(北海道・東北日本海側・新潟・長野・静岡)と含油層(第三期)が提示され、民間鉱業者にとっても借区設定など後の油田開発の大きな指針となった。また地質図作成や地質調査の人材育成にも大きく貢献した。特に地質図の作成は国土空間情報の可視化という点で、大きな意義がある。結局ライマンの油田調査は諸般の事情で未完に終わるが、得られた知見は大久保利通・伊藤博文・大隈重信などの政治家に伝達され、政府の国内石油資源に関する空間認識に影響を与えたと思われる。なお、ライマンは結果的に国内油田開発をあまり有望視しなかったが、政府としては1882年に設立された地質調査所において油田調査を行っていることからわかるように、国内油田開発の可能性を積極的に模索していたと思われる。 5.地質調査所(中島謙造)の油田調査 1893年に地質調査所の地質課長に就任した中島謙造は、日本人による初の本格的な石油地質調査を行い、地質図整備事業に関連して得られた全国(新潟を中心に、北海道・東北・静岡・長野・和歌山・山陰)の産油地の情報を集大成した。これはライマンの調査を補完し、民間石油鉱業者の開発の指針としての情報提供を意図したものである。 6.まとめ 大鳥やライマンらが指摘したように、実際に明治期の石油業の鉱業空間は新潟県を中心に形成されていき、短期間に原油生産も大幅に増加していった。大鳥・ライマン・地質調査所らの地質調査事業は、地理・地質情報の提示という点で、初期の国内石油業界の発展に貢献した。そして、政府の国土空間に対する認識の中でも、国内石油資源への関心はしだいに高まっていくのである。
著者
水野 一晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.134, 2008 (Released:2008-07-19)

インドのアルナチャル・プラデシュ州(アッサム・ヒマラヤ)は、ブータンと中国・チベットとの国境に近く、22-24のチベット系民族(細分化すれば51民族)の住む地域である。長らくインドと中国の国境紛争が続き(現在でも中国の地図では中国領)、最近まで外国人の入国が禁止されていたため、未知の部分が多く、神秘的な領域である。現在外国人が入域をするためには、国と州の入域許可書が必要で10日間以内の滞在が認められる。今回は2007年7月の予備調査、とくにディラン・ゾーン地域の自然と人間活動について報告を行う。 1. 地形と土地利用:住居や農地の多くは、地滑り斜面と崖錐斜面に立地している。それらの地形はその形状と堆積物から住居と農地の立地に有利であると考えられる。 2. 森林利用:農地の肥料は樹木の落葉のみが利用されるため、落葉は住民にとって重要な財産になっている。森林は森林保護地域と非保護地域に区分され、それぞれ住民による利用の仕方が異なる。また、土地の所有者、同一クランの者とそれ以外の者では落葉の利用権が異なる。 3. 農業:農耕は標高2400m以下(稲作は標高1700m以下)、牧畜(ヤク)は標高2000m以上で行われている。放牧地は樹木を人為的に毒で枯死させてつくられ、そこではバターやチーズが現金収入になっている。 4. 住民の定着と農耕の起源:同じアルナチャル・プラデシュ州のジロ地域では、各所の露頭でみられる埋没腐植層の14Cの年代から、2000年前頃には人が定着し、500年前頃には焼畑が盛んであったことが推測される。ディラン・ゾーン地域の水田下から発見された埋没木の年代は、14C濃度から1957年-1961年のものと推測されるが、今後さらに埋没木や埋没腐植層を探し、タワン-ディラン・ゾーン地域で農地が拡大した時代を明らかにしていきたい。
著者
佐藤 照子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.236, 2008 (Released:2008-07-19)

1.はじめに 2005年8月、ハリケーン・カトリーナ災害は米国災害史上最大の被害を記録した。特に注目されたのは、ミシシィッピー川のデルタ上に発達した人口48万人の大都市ニューオリンズ中心市街地(NOと記す)の1ヶ月にわたる水没である。ハリケーン・カトリーナの規模はカテゴリー5まで達したが、ルイジアナ州南部上陸時は、防災計画で想定されたカテゴリー3までその勢力を下げていた。この想定規模内のハザードが、氾濫発生場の土地環境などの自然的要因、開発などの社会・経済的要因、治水対策・水防活動などの社会的要因、地球温暖化に伴うとされる海面上昇等の影響を受け、想定外の大規模氾濫(ハザード)へと変化していった。災害は多様な側面を持つが、ここではハザード大規模化の要因に焦点を当て報告する。 2.ハザード大規模化の要因 高潮発生から大規模氾濫発生まで、ハザード大規模化の様相とそれと関わる要因を整理すると次のようになる。 1)カトリーナの強風はメキシコ湾等で高潮を発生させた。この規模は大規模ではあるが防災計画の想定内であった。2)高潮はルイジアナ州南部湿地帯を遡上するが、ここで高潮は減衰し、NOはその直撃を免れている。しかし、湿地帯は毎年65-90 km2/yearの速度で消失し、将来、高潮が直接NOに及ぶ可能性が高くなっている。湿地帯消失の要因として、石油開発や運河開発、治水施設整備にともなう土砂供給量の減少、波浪の影響そして地球温暖化に伴う海面上昇が上げられている(Campanella, 2004)。3)デルタ地帯に位置し、後背湿地を開発し市街地が形成されたNOでは、開発に伴う地下水排水や地盤の圧密、洪水氾濫減少による土砂供給量減少等の影響で地盤沈下が進行し、現在市街地の70%がゼロメートル地帯である。すなわち、堤防と日常的な強制排水によってかろうじて陸化しているこの都市は、外水氾濫による水没の危険性を常に抱えている地域でもある。4)この都市中心部の3水路に高潮が直接進入した。ここには、低湿地にとって重要な高潮遡上を防ぐ水門がなかった。これは、堤防建設と都市排水管理主体が異なり、管理境界の構造物建設合意ができなかったためである。5)高潮により水路内の潮位が上昇し、堤防が破堤した。破堤の原因は、(1)水位が堤防高を越え、越流により堤体が洗掘され洪水防御壁が倒壊したものと、(2)水位は堤防高より低く、堤体基盤を通した漏水によるものとがあった。このように、低湿な土地条件が堤体からの漏水による破堤の可能性を高め、さらに地盤沈下とともに堤防が沈下するなど、想定規模内の外力でさえ制御が難しい状況があった。6)また、堤防の建設と管理の主体が異なり、後者は地域別に多数あるため、堤防の日常的なあるいは緊急時の管理責任の所在が不明確であり、堤防からの漏水等への対応も不十分であった(USHR, 2006)。7)さらに、水門がないため、破堤後には多量の水を蓄えたポンチャートレイン湖の水が市街地へ流入するのを防げなかった。8)排水ポンプも中規模程度の浸水に備えたもので、古いものも多く、NO水没という状況に対して、十分な排水機能を確保できなかった。9)また、大規模氾濫に備えた氾濫場所を限る二線堤のような構造物はなく、流入した多量の水は、堤防で囲まれたNO中心市街地の80%を水没させることになった。10)さらに、破堤ヵ所の締切工事は、破堤確認の遅れや情報通信システムの故障から開始が遅れ、堤防の構造から車両が乗入れできず、完成までに時間を要した。 3.低頻度大規模災害と行政・住民の対応 NO大水害は低頻度大規模水害と呼ばれるタイプの水害である。すなわち、治水構造物の破壊(破堤)による大規模な洪水氾濫が、その発生頻度は非常に低いが、被害ポテンシャルの大きい都市部で発生し、大被害に結びついたものである。行政や住民はしばしば来襲するハリケーンに対しては様々な備えをしていたが、このような低頻度大規模水害は想定外のことで対応計画は無く、無防備のまま被災したことがハザード大規模化の過程からも分かる。 4.まとめ 気候モデルによるシミュレーション結果は将来のハリケーンの大規模化を予測しており、これは大規模な高潮発生につながる。この一次外力の増大から、水災害に対して脆弱な土地環境に立地する大都市を守るためには、なんとしても破堤を回避することが重要となる。このためには、ハザードを制御する堤防の強化、防潮堤・排水機場・二線堤等の整備等々の様々な対策や堤防維持管理体制の整備等を統合的に組み合わせ、ハザード大規模化への連鎖を断つことが求められる。それらに加え、土地環境をさらに脆弱にさせない対策、湿地帯の環境保全、土砂供給量の保全などの長期的視点にたった環境管理や、氾濫しても家屋への浸水が軽減できるような土地利用管理等の施策も同時に推進していくことが求められる。
著者
西井 稜子 松岡 憲知
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.114, 2008 (Released:2008-07-19)

はじめに 重力性変形地形として認識されている山向き小崖や山上凹地は,大規模崩壊・地すべりの前兆現象の一つとして指摘されており,災害対策の点からも注目されている.しかし,前兆現象として認識されているこれらの地形が崩壊へ移行する過程は,観測事例が少なく,詳細はわかっていない.本研究では,崩壊発生直後に形成されたテンションクラック群を含む岩盤斜面を対象に,変形過程を明らかにすることを目的とする.調査地 調査地は,赤石山脈・間ノ岳の東斜面に位置するアレ沢崩壊地頂部である.一帯の地質は,四万十累帯白根層群の砂岩頁岩互層からなる.主稜線周辺には,岩盤の重力性変形を示す山上凹地や山向き小崖が数多く分布している.一部の山向き小崖を切って存在するアレ沢崩壊地では,2004年5月に岩盤崩壊(推定約15万m2)が発生した.この崩壊によって,崩壊した斜面の直上部とその周囲には多数の小規模なテンションクラックが形成された.観測を行っているのは,崩壊地頂部にあたる標高約3000 mの岩盤斜面上である.調査方法 岩盤斜面に27の測点を設置し,2006年10月~2007年10月までの計5回,トータルステーションによる測量を行った.幅約10 cmのクラックには変位計を設置し,降水量,地表面温度の通年観測も同時に行った.結果および考察 変位計の観測結果から,幅約10cmのクラックは,融雪期にのみ3mm程の急激な変位が認められ,季節変動を示した.一方,岩盤斜面全体の変形は,大きく2タイプに分かれる.岩盤斜面上に存在する比高3~5m,長さ60m程の谷向き小崖を境に,下部斜面では,崩壊地へ向かって加速的に変位が進行しており,年間変位量は約50 cmを示した.小崖より上部斜面では,年間変位量は約10cmを示した.したがって,谷向き小崖を境にスライドが生じ,割れ目が拡大していることが推定された.また,ひずみが大きいことから,近い将来崩壊する可能性のある不安定領域が拡大していると推測される.
著者
小野寺 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.74, 2008 (Released:2008-07-19)

1.生態移民による新しい農村空間 生態移民とは、生態系を保全するために行われる移住行為やその行為に参加した人々(移民)のことを指す。寧夏回族自治区においては、“吊庄”と呼ばれる移民がよく知られており、人口圧が高く自然環境が悪化しつつある南部山間地帯から、黄河揚水灌漑事業が進展する北部平原地帯への移民を指している。南部の転出地の貧困や環境の問題についてはこれまでよく研究されてきたが、本研究では北部の転入地に焦点を当てて新しい農村空間の形成について考察したい。 2.自治区内の地域性と移民の歴史 南部が自然環境に恵まれず、大量の余剰労働力を抱えているのに対して、北部は土壌が肥沃で地勢が平坦で日照が十分であり、水利が整備されれば土地資源が豊富であると言えよう。図は南部と北部の経済水準の違いを端的に表している。こうした地域性の中で、1983年以来40万人を越える南部の貧困農民が北部へ移住した。 図 寧夏各市県の農民一人当たり純収入(2004年) (寧夏統計年鑑2006より作成). それ以前も、寧夏は中国の辺境かつ少数民族集住地区であり戦略的に重要な位置にあると認識されて、国営農場による開墾が行われていた。生態移民においても、まず政府が投資・建設をして水利施設や居住条件を整備した。そして、転出県が移民村の建設と管理を行い、それが軌道に乗ってからはじめて行政全般を転入地の地元政府に移行するという手順を踏んだ。 3.移民村の事例 永寧県閩寧鎮は銀川市の南に位置し、東は黄河の西部幹線用水路に面する。南部の西吉県や海原県からの移民4,300戸、2.2万人が相前後して定住し、うち回族は70%を占める。元は西吉県玉泉営経済開発区として始まり、1997年に先進地域である福建省の支援を得て閩寧村が成立し、2000年に閩寧村は永寧県に引き渡され、翌年に閩寧鎮となった。小麦やトウモロコシの他、菌類、果物、薬材などの生産が近年増加しつつある。隣接する国営農場の土地が請負契約に開放されたことも含めて、土地使用権の流動化が見られ、農業の大規模経営が始められている。 銀川市興泾鎮は銀川市南郊に位置し、1983年に泾源県政府が興した芦草洼移民開発区として建設が始まった。無人の荒地が今では総人口2.5万人となり、回族は99%を占める。2000年には泾源県から銀川市郊外区へ引き渡され、翌年に興泾鎮が成立した。鎮中心市街地の開発が、イスラム圏のサウジアラビアやクウェートなどからも資金が流入して進められている。羊や牛などの交易が活発であり、小麦やトウモロコシの他、施設園芸などの積極的な取り組みが見られる。 4.農村空間の形成と変容のメカニズム 本研究では、上記2つの移民村における特に土地の所有・使用関係を中心とした農家経済の分析から、農村空間の形成と変容のメカニズムを検討する。 政府の灌漑開墾事業から始まるため、土地の所有権は国にある。その上で土地の使用権がどのように移民たちに請け負われ新しい農村空間が形成されていったかを明らかにする。他方、南部の転出地の土地の所有権・使用権も移民たちの手に残されている。 また、人の流動性が高く、同時に土地の権利の流動性も高い。土地が集団所有され実際の権利関係がしばしば曖昧な中国の一般的な農村に比較して、農業経営の大規模化や多角化、さらには非農業への産業構造の転換もダイナミックに進行する可能性がある。
著者
天野 宏司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.252, 2008 (Released:2008-07-19)

近代日本の郵便制度は1871(明治4)年に東京~大阪間での逓送を開始したことに始まり,翌年に全国展開が図られた。さらに1873年には,郵便取扱の独占と全国均一料金に規定される現在の郵便事業の原型が完成した。これに伴い,郵便物を実際に逓送するルート・手段,頻度などを把握・周知するための「郵便線路図」が1872年に作成された。郵便線路は,郵便局の新設や廃止,地域交通体系の変化などにより頻繁に改変されるため,「郵便線路図」もしばしば改変された。いわば,「郵便線路図」は逓信省という,公権力による空間把握の結果を示す。明治政府による,国土空間の把握を振り返ると,迅速測図に始まる地図作製が1880(明治13)年からであり,鉄道ネットワークが形成されるのは1890年代である。「郵便線路図」の作成は,これらに大きく先行するとともに,把握および更新頻度の高い空間情報でもあった。「郵便線路図」には同一年紀のものが複冊存在する。各地の逓信区からあげられた郵便線路の改変情報をもとに,「郵便線路図」原簿が作成されていたためと考えられる。
著者
河野 忠
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.179, 2008 (Released:2008-07-19)

四国八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は古来重要な道として栄えてきた。この遍路道は時代的な背景によってかなりの変遷がみられ,相当大きなルート変更もあったことであろう。四国八十八ヶ所霊場は弘法大師が設定したことになっているが,遍路道はお遍路が開拓,整備していったものであると思われる。遍路道と湧水の空間的な存在意義は,社会学や民俗学的な観点から研究が行われている。しかし,現在のルートが何故設定されたのかという検討は行われていない。その一つの試論として,実用的および自然地理学的な観点から遍路道の存在意義を考え,八十八ヶ所霊場途中にある水場から検討する。 お遍路は札所を巡っていく際に,道中の水場で休憩し水を補給して旅を続けなければならない。従って,水場の無い遍路道は次第に廃れていき,水場のある遍路道が開拓されていったと考えることができる。この遍路道途中にある水場の中には弘法大師が杖を突いたら水が出たという「弘法水」の伝説が数多く語り継がれており,四国内だけで100ヶ所以上,全国で1400ヶ所前後存在していることが明らかとなっている(河野,2002)。四国では札所の寺院に弘法水が存在している場合が多いが,遍路道途中にも相当数の弘法水が存在している。従って,お遍路は途中に水場のあることを重要な条件として遍路道を策定し,そこに弘法大師の偉大な足跡を後世に残すために路傍にあった湧水に,弘法水の伝説を摺り合わせていったと考えられる。 一方,弘法水の水質は,一般的な湧水と比較してミネラル分が異常に多く含まれていることがわかっている(河野,2002)。遍路道のある四国はほぼ全域が堆積岩地帯であり,そこから湧出する水はミネラル分に乏しい。お遍路のように長距離を歩く人にとってミネラル分の補給は重要であり,そこで,経験的にミネラル分の多い水場が選ばれたのではないかと考えられる。実際,遍路道上の湧水とそれ以外の湧水のミネラル分を比較すると,倍近い濃度差が検出された。従って,四国遍路道における水場はお遍路にとって体調維持のために重要なミネラルに富んだ湧水のある道が淘汰され残されたものと考えることができる。
著者
山下 清海 尹 秀一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.157, 2008 (Released:2008-07-19)

問題の所在 韓国は「チャイナタウンがない国」と呼ばれてきた。それは,第二次世界大戦後,韓国政府が国内の華人に対して厳しい政策をとって来たために,形成されたチャイナタウンが消滅したこと,あるいは新たなチャイナタウンが形成されなかったことを示している。 しかし,1992年の韓国と中国の国交樹立を契機に,韓国における華人社会を取り巻く状況は大きく変化した。韓国と中国の間の貿易や人的な交流が深まるとともに,韓国政府や韓国人の華人に対する対応も変わってきた。それらの変化の象徴が,かつて形成されていたチャイナタウンの再開発や新たなチャイナタウンの建設構想である。 報告者の一人である山下は,2000年に仁川(インチョン)を調査し,かつてのチャイナタウンおよび華人社会の状況について報告した(山下 2001)。その後,仁川のチャイナタウンは「仁川中華街」として,急速に再開発復興された。本報告は,仁川中華街の再開発の過程と現状を明らかにするとともに,仁川中華街の再開発の意義について考察するものである。 なお,現地調査は,2007年3月および2007年11月に実施し,仁川中華街繁栄聯合会,韓中文化館,仁川広域市中区庁,仁川中山中・小学校(華僑学校),中国料理店をはじめとする華人経営店舗などから聞き取り,資料収集を行うとともに,仁川中華街の土地利用・景観調査を実施した。 仁川における華人社会の変遷 1882年,朝清商民水陸貿易章程により,仁川は,釜山,元山とともに中国側に開港された。そして,仁川には清国租界が設けられ,チャイナタウンが形成された。華人の出身地をみると,黄海を挟んで対岸に位置する山東が最も多かった。 第二次世界大戦後,李承晩政権(1948~60年)および朴正煕政権(1963~79年)の下で,民族経済の自立を掲げて実施された華人の経済活動に対する厳しい規制強化により(外国人土地所有規制,外貨交換規制,飲食業への重課税など),華人社会は大きな打撃を受けた。韓国での生活を諦めざるを得なくなった多数の華人は廃業して,アメリカ,カナダ,台湾,日本など世界各地に移住し,仁川のチャイナタウンは事実上消滅した。 仁川中華街の再開発 2001年から仁川広域市中区庁は,外国租界時代の歴史的建造物が多く残る地区を整備して,新たな観光ベルトを形成する事業を開始した。その中核をなすのが「仁川中華街」の建設であった。2002年,サッカーの日韓共催ワールドカップの際,多数の中国人の来訪も期待されていた。 2002年には,仁川広域市中区庁のさまざまな部門の職員が,仁川中華街再開発の参考とするために,横浜中華街を視察に出かけた。また同年には,仁川中華街のシンボルとなる最初の牌楼(中国式楼門)が,仁川の姉妹都市である山東省威海市の寄贈で建設された。その後,さらに二つの牌楼,三国志壁画通り,韓中文化館,中華街公営駐車場などが建設され,チャイナタウンらしい街路や景観がしだいに整ってきた。 仁川中華街の再開発に伴い,仁川中華街の外部で中国料理店やその他の店舗を営んでいた華人が,仁川中華街で開業するようになった。2001年には5軒しか残っていなかった中国料理店は,2007年11月の調査では,30軒あまりに増えた。また,約30軒の中国物産,食品などの店舗が,仁川中華街に立地している。規模の大きな中国料理店では,中国出身の料理人や従業員を雇用している。また,中国物産,食品店の経営者の多くは,最近山東省などから来韓した「新華僑」である。 仁川中華街の再開発事業は,仁川広域市,特に中区庁が主体となって進められた。財政的な支援も,仁川中華街の建設計画も,ほとんどが行政側によるものである。地元の華人社会は,これまでの仁川中華街の再開発では,付随的な役割しか果たしていない。この背景には,これまでの韓国政府の非常に厳しい対華人政策により,華人社会の経済的,社会的な力が徹底的に弱体化されてきたことを反映している。 〔文献〕 山下清海 2001.韓国華人社会の変遷と現状.国際地域学研究(東洋大学) 4:261-273.山下清海『東南アジア華人社会と中国僑郷―華人・チャイナタウンの人文地理学的考察―』117-135.古今書院に再録. 尹 秀一 2005.韓国―中国語ブームと韓流のなかで―.山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』186-198.明石書店.