著者
金野 美奈子(1966-)
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.17-32, 0000

婚姻は,多くの人々にとって生活の中心の一つであり価値ある人間関係を築く場であるだけでなく,物質的な生活からアイデンティティのあり方までその人のさまざまな側面を規定しうる存在である.人々がどのように自らの婚姻を経験するかは,当該政治社会が婚姻という領域をどのように位置づけ,規定し,その関係を支え,また規制するか,つまり「婚姻制度」に大きく影響を受ける.政治社会が婚姻をどのように制度化すべきかをめぐっては,それぞれの時代に応じて,議論と変革が繰り返し行われてきた.近年においてもまた,日本の文脈では夫婦別姓,またより広い文脈においては同性婚や複婚(ポリガミー)など,オルタナティヴな婚姻制度をめぐる議論が活発になっており,また制度的変革も一定程度進展してきている.では実際,私たちには「伝統的」なものとは異なるオルタナティヴなパートナーシップのあり方を婚姻制度に包摂すべき理由があるのだろうか.リベラリズムはこの問いに肯定的に答えようとしてきた代表的な立場だが,従来の議論は多元社会の公共的議論として決定的な不十分さを抱えており,伝統的な家族を擁護する立場との間の相克を乗り越えられているとはいえない.ジョン・ロールズによってもっとも包括的に提案された政治的リベラリズムとその中心理念である公共的理性は,生き方に関する価値観の多様性を前提とする社会において,人々に共通に受け入れられうるものとしてオルタナティヴなパートナーシップを婚姻制度に包摂する議論を構築しうる可能性を示唆する.本稿はその枠組みに基づき,より開かれた婚姻制度を擁護する議論を素描する試みである.リベラルな政治社会の市民によって共通に受け入れ可能な公共的意味ないし価値の観点から婚姻制度をとらえることで,オルタナティヴなパートナーシップ関係もまた適切に議論の俎上に乗せることができる.Marriage is among the central foci of the daily lives of many people, serving as the source of valuable interpersonal connection. In many ways, ranging from material conditions to subjective identity, marriage defines our existence. The ways in which individualsexperience their own marriage is significantly affected by the ways in which our political society institutionalizes this practice (i.e., how it situates, defines, supports, or regulates it).Indeed, whether and how marriage should be institutionalized to meet the needs of a particularhistorical period has been the subject of recurring debate. Examples of such controversies include the introduction of the option of separate surnames for Japanese husbandsand wives or of same-sex or polygamous marriage in the broader context.Do we, as citizens of a liberal democratic political society, have reason to believe that non-traditional forms of marriage should be included in the institution of marriage? Liberalism has been a major force in the effort to answer this question in the affirmative,but it has failed to offer a sufficiently persuasive public argument thus far, leaving the conflict between its views and more conservative positions unresolved. Political liberalism,which has been developed in its most comprehensive form by political philosopher John Rawls, points to the possibility of constructing an argument that supports the institutionalinclusion of alternative forms of marriage in pluralist liberal democracies that can be endorsed by individuals with diverse and incompatible worldviews. Thus, this paper presents an argument based on public reason that aims to overcome the limitations of more comprehensive liberalism.
著者
赤堀 三郎(1971-)
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-12, 0000

日本ではここ10 年ほど,自己責任という言葉の濫用に代表されるように,他者への無関心および全体への滅私奉公を当然視するかのような言説の独り歩きが広く見られる.本論文はこの風潮を道徳的観点から非難したり,日本文化の特殊性と結びつけて論じたりするものではない.「社会システムの観察」という論点を手がかりとして,このケースのような現象一般を扱うための普遍的な枠組を探究することを目的とするものである.ソシオサイバネティクスでは,コミュニケーションにかかわるこの手の現象を,個々の人格や個々の言説そのものではなく,社会システム(コミュニケーション・システム)という「観察者」の水準において考える.「社会システムの観察」は,ソシオサイバネティクスの主要論点のひとつとされている.ソシオサイバネティクスの観点からは,自己責任などのクリーシェの蔓延というケースに関して,次のように分析できる.第一に,クリーシェが繰り返し用いられることで,ポジティブ・フィードバックに基づく社会システムの逸脱増幅プロセスが生じる.このようなメカニズムが世論の極端化(polarization)の根本にある.第二に,世論の極端化を21世紀突入後のメディアの変化,とりわけソーシャル・メディアの台頭との関連で考えることができる.第三に,世論の極端化の方向を変えようと望むならば,対抗的言説によって火消しを試みる前に,「社会システムの観察」においていかなるフィードバック・ループが作用しているか,あるいは,どのようにそのループを断ち切れるか,といった点にまず着目するべきである.以上のような社会学的視座に立つことで,「社会システムの観察」の状況―たとえば不安定で,ちょっとしたきっかけで二極化したり,極端から極端へと振れたりするような状況―を描き出し,何らかの対策を立てることが可能になる.In the past decade or so, the word Jiko-Sekinin comes to widely used in Japan. The literal meaning of the word is "self-responsibility", but it has much broader implications such as "Take your own risk", or more, "Don't cause trouble for the others, especially for the public".The prevalence of the word Jiko-Sekinin has been argued as problematic because it sounds to be too cold hearted. However this paper is not going to deal with this phenomenon with respect to moral principles or cultural peculiarity, but from the viewpoint of sociological systems theory. Moreover, this paper explores a more appropriate "general" framework for this kind of phenomena related to communication media through systems theoretical examination.Based on sociological systems theory, we see this kind of phenomenon not on the level of each person, but on the level of communication systems.We assume that, firstly, this phenomenon can be understood as a kind of deviation amplifying process related to new communication media which appeared around the beginning of the 21st century.Secondly, we suppose the core of the change is so-called social media. The rise of social media seems to cause radical transformation of feedback loop related to public opinion.The polarization of opinion can be understood on the level of social systems.Lastly, we conclude if we hope to change the direction of the polarization of public opinion, we had better take a systems theoretical viewpoint. Then we will be able to illustrate how the feedback loop works and look for how we can break the loop.
著者
流王 貴義
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-15, 2018-03-02

社会学が政治・公共を論じることは可能なのか.現代の社会学にとっては,このような問い自体が無用に思える.20世紀の後半以降,政治社会学は社会学の一分野として確固たる地位を占め,21世紀になってからは,公共社会学という標語が注目を集めている.その一方で,ハーバーマスやアレントが公共を重視する立場から社会学的な思考に投げかけた疑念に対して,適切に答える準備が私たちには整っているであろうか.
著者
金野 美奈子
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.17-32, 2015-03-02

婚姻は,多くの人々にとって生活の中心の一つであり価値ある人間関係を築く場であるだけでなく,物質的な生活からアイデンティティのあり方までその人のさまざまな側面を規定しうる存在である.人々がどのように自らの婚姻を経験するかは,当該政治社会が婚姻という領域をどのように位置づけ,規定し,その関係を支え,また規制するか,つまり「婚姻制度」に大きく影響を受ける.政治社会が婚姻をどのように制度化すべきかをめぐっては,それぞれの時代に応じて,議論と変革が繰り返し行われてきた.近年においてもまた,日本の文脈では夫婦別姓,またより広い文脈においては同性婚や複婚(ポリガミー)など,オルタナティヴな婚姻制度をめぐる議論が活発になっており,また制度的変革も一定程度進展してきている.
著者
今野 晃
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-17, 2017-03-02

本稿の目的は,19 世紀の歴史を振り返りつつ,社会学が自明の前提としているものを再考することにある.
著者
今野 晃(1970-)
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.17-30, 0000

本稿の目的は,コントとは異なる社会学の起源を探ることにある.社会学の世界では,sociologie という言葉は,オーギュスト・コントが作り,1838 年に初めて発表されたとされている.しかし,近年のギロームの研究によると,フランス革命に多大な影響を及ぼしたシエイエスが,1780 年代の遺稿の中で,sociologie という造語を使っていたことがわかっている.シエイエスは,彼の時代に顕在化していた社会諸関係の問題を検討するために,多くの造語を作っていた.実際,現在の日本語で用いる社会という語の原語,society やsociété という語は,18世紀に現在とほぼ近い意味で用いられ始めた.この言葉がこの時期に使われ始めた理由は,君主や神に頼ることなく,人々が自らの関係を構築しようと考えたためである.ルソーの『社会契約論』もこうした中で書かれた著作である.こうした状況の中で,シエイエスは,新しい社会関係のあり方を考察し,そのために考え出したのが,socialismeやsociodicée 等の造語である.sociologie という言葉も,こうした造語の一つとして作られた.この事実が意味するのは,社会学の起源は,コント個人に求められるものではなく,むしろ18 世紀を通じて社会的social なものを作り出してきた歴史的背景全体にこそ求められるべきものだろう.社会学の起源を探るためには,こうした背景に注目していくべきだろう.この検討によって,我々は,社会概念と,そして社会を研究する科学が必要とされた理由を理解することができるだろう.This essay considers why and how we had to create sociology.It is generally accepted that Auguste Comte invented the term "sociology", which appeared for the first time in 1838, in his The Course in Positive Philosophy. Nevertheless, according to Guilhaumou, the French essayist Emmanuel Joseph Sieyès had used the term "sociology" in unpublished manuscripts written in the 1780s. He invented this new term to examine the problem of social relationships in his era.Beginning in the 18th century, the concept of sociology spread and authors such as Rousseau attempted to use this concept to construct the relationships of citizens who did not depend on a monarch. In this context, Sieyès struggled to begin his investigations and created new words such as socialism and sociodicée using the prefix "socio", based on Latin. Sociology was another of those terms.Therefore, sociology did not originate solely from the genius of Comte, but in the context in which the concept - "social" - was invented in the 18th century. Therefore, we should focus on this when considering the origin of sociology.This examination will help us to understand why we need social concepts and a science that studies society.
著者
池松 玲子
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.19-35, 2017-03-02

高度経済成長期には,性別役割分業を元に主婦は戦後の女性の一般的なライフスタイルとして定着したが,1970 年代に第二波フェミニズムの影響が広がるにつれ,生き難さを感じる女性たちによって主婦という生き方が問題として捉えられるようになった.本稿では,高度経済成長期に実際に主婦として生き,育児終了期からは投稿誌『わいふ』を発行して,主婦に自由な言論空間を提供する活動を実践してきた田中喜美子および和田好子に着目し,両名のライフヒストリーの分析を通して,主婦という生き方に疑問をもち始めた女性たちについて考察した.
著者
池松 玲子
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.17-34, 2018-03-02

戦後日本社会では,第二波フェミニズムにおける主婦を問題として問うという流れの 中で,家族の中に埋没していた女性たちが近代的個人としての自己に目覚めていくプロセスがあった.主婦であることの意味をめぐっては多様なメディアでの積極的な議論があり,そうした議論は社会的に注目され女性たちに影響を与えてもきた.本稿は識者等ではなく主婦自身の主張で構成される投稿誌『わいふ』の主婦論争に着目し,主婦という生き方と近代的個人としての自己をめぐり何が語られたかを明らかにすると共に,こうした論争を可能にしたメディアとしての同誌について考察した.
著者
金野 美奈子
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.13-28, 2016-03-02

多様で,ときに対立する価値観や世界観をもつ人々が共に戴くことができ,自由な共生の媒介となりうる公正な制度のあり方を,私たちはどのようにして探求できるだろうか.ジョン・ロールズの政治的リベラリズムの中心概念である公共的理性は,この問いへの有力な回答である.公共的理性は,社会の基本的諸制度のあり方をめぐる議論が市民にとっての公共的価値の観点からなされることを求める.このような観点から支持すべきものとして人々が支持しうる制度が,真に公共性を備えた制度だと考えるのである.本稿は,ロールズによる公共的理性への呼びかけに応じる試みの一環として,基本的社会制度のなかで重要な位置を占める家族制度,なかでも婚姻制度に焦点を当て,オルタナティブな婚姻形態の制度的包摂にかんする公共的理性を提案する.
著者
赤堀 三郎
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-12, 2016-03-02

日本ではここ10 年ほど,自己責任という言葉の濫用に代表されるように,他者への無関心および全体への滅私奉公を当然視するかのような言説の独り歩きが広く見られる.本論文はこの風潮を道徳的観点から非難したり,日本文化の特殊性と結びつけて論じたりするものではない.「社会システムの観察」という論点を手がかりとして,このケースのような現象一般を扱うための普遍的な枠組を探究することを目的とするものである.\rソシオサイバネティクスでは,コミュニケーションにかかわるこの手の現象を,個々の人格や個々の言説そのものではなく,社会システム(コミュニケーション・システム)という「観察者」の水準において考える.「社会システムの観察」は,ソシオサイバネティクスの主要論点のひとつとされている.ソシオサイバネティクスの観点からは,自己責任などのクリーシェの蔓延というケースに関して,次のように分析できる.第一に,クリーシェが繰り返し用いられることで,ポジティブ・フィードバックに基づく社会システムの逸脱増幅プロセスが生じる.このようなメカニズムが世論の極端化(polarization)の根本にある.第二に,世論の極端化を21世紀突入後のメディアの変化,とりわけソーシャル・メディアの台頭との関連で考えることができる.第三に,世論の極端化の方向を変えようと望むならば,対抗的言説によって火消しを試みる前に,「社会システムの観察」においていかなるフィードバック・ループが作用しているか,あるいは,どのようにそのループを断ち切れるか,といった点にまず着目するべきである.以上のような社会学的視座に立つことで,「社会システムの観察」の状況―たとえば不安定で,ちょっとしたきっかけで二極化したり,極端から極端へと振れたりするような状況―を描き出し,何らかの対策を立てることが可能になる.
著者
赤堀 三郎
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.47-54, 2018-03-02

日本では近年,不寛容が広がりつつあると言われている.不寛容社会という言葉が使 われることもある.本論文は,社会が不寛容になっているか否かを検証したり,社会の不寛容さを道徳的・倫理的見地から嘆いたり非難したりするものではない.本論文で問うのは,不寛容社会が「どのように観察されているか」である.そしてこのことを通じて,近代化や文明化のもつパラドクシカルな性質を扱うための一般的な枠組を探究する.そのためにここでは,社会を一種の観察者として把握し,その観察の仕方を問う「セカンド・オーダーの観察」の視座に立つ.ここから,次のようなことが言える: