著者
赤堀 三郎(1971-)
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-12, 0000

日本ではここ10 年ほど,自己責任という言葉の濫用に代表されるように,他者への無関心および全体への滅私奉公を当然視するかのような言説の独り歩きが広く見られる.本論文はこの風潮を道徳的観点から非難したり,日本文化の特殊性と結びつけて論じたりするものではない.「社会システムの観察」という論点を手がかりとして,このケースのような現象一般を扱うための普遍的な枠組を探究することを目的とするものである.ソシオサイバネティクスでは,コミュニケーションにかかわるこの手の現象を,個々の人格や個々の言説そのものではなく,社会システム(コミュニケーション・システム)という「観察者」の水準において考える.「社会システムの観察」は,ソシオサイバネティクスの主要論点のひとつとされている.ソシオサイバネティクスの観点からは,自己責任などのクリーシェの蔓延というケースに関して,次のように分析できる.第一に,クリーシェが繰り返し用いられることで,ポジティブ・フィードバックに基づく社会システムの逸脱増幅プロセスが生じる.このようなメカニズムが世論の極端化(polarization)の根本にある.第二に,世論の極端化を21世紀突入後のメディアの変化,とりわけソーシャル・メディアの台頭との関連で考えることができる.第三に,世論の極端化の方向を変えようと望むならば,対抗的言説によって火消しを試みる前に,「社会システムの観察」においていかなるフィードバック・ループが作用しているか,あるいは,どのようにそのループを断ち切れるか,といった点にまず着目するべきである.以上のような社会学的視座に立つことで,「社会システムの観察」の状況―たとえば不安定で,ちょっとしたきっかけで二極化したり,極端から極端へと振れたりするような状況―を描き出し,何らかの対策を立てることが可能になる.In the past decade or so, the word Jiko-Sekinin comes to widely used in Japan. The literal meaning of the word is "self-responsibility", but it has much broader implications such as "Take your own risk", or more, "Don't cause trouble for the others, especially for the public".The prevalence of the word Jiko-Sekinin has been argued as problematic because it sounds to be too cold hearted. However this paper is not going to deal with this phenomenon with respect to moral principles or cultural peculiarity, but from the viewpoint of sociological systems theory. Moreover, this paper explores a more appropriate "general" framework for this kind of phenomena related to communication media through systems theoretical examination.Based on sociological systems theory, we see this kind of phenomenon not on the level of each person, but on the level of communication systems.We assume that, firstly, this phenomenon can be understood as a kind of deviation amplifying process related to new communication media which appeared around the beginning of the 21st century.Secondly, we suppose the core of the change is so-called social media. The rise of social media seems to cause radical transformation of feedback loop related to public opinion.The polarization of opinion can be understood on the level of social systems.Lastly, we conclude if we hope to change the direction of the polarization of public opinion, we had better take a systems theoretical viewpoint. Then we will be able to illustrate how the feedback loop works and look for how we can break the loop.
著者
赤堀 三郎
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 = Tokyo Women's Christian University annals of sociology (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
no.6, pp.47-54, 2018

日本では近年,不寛容が広がりつつあると言われている.不寛容社会という言葉が使 われることもある.本論文は,社会が不寛容になっているか否かを検証したり,社会の不寛容さを道徳的・倫理的見地から嘆いたり非難したりするものではない.本論文で問うのは,不寛容社会が「どのように観察されているか」である.そしてこのことを通じて,近代化や文明化のもつパラドクシカルな性質を扱うための一般的な枠組を探究する.そのためにここでは,社会を一種の観察者として把握し,その観察の仕方を問う「セカンド・オーダーの観察」の視座に立つ.ここから,次のようなことが言える:まず,社会の不寛容さは寛容/不寛容の区別を用いることで観察されており,その背 景には「文明化した社会は寛容であるべきだ」という考えが隠されていることがわかる.次に,社会学理論の知見をあてはめれば,不寛容さの蔓延は文明化に逆行するものではなく,むしろ文明化の当然の帰結であると言える.不寛容社会は文明化や「よりよい社会」の追求が往々にして正反対の結果をもたらすというパラドックスの一例として捉えることができ,この意味で注目に値する.そして,ニクラス・ルーマン『社会の社会』で論じられている「社会の自己記述」という循環的な図式を用いることで,この種のパラドクシカルな現象の発生メカニズムに接近することができる.社会の望ましさの追求と密接に結びついた不寛容社会のような自己記述は,往々にして当初の目的に反する望ましくない帰結をもたらす.この種の問題に対処するとすれば,たとえば不寛容を現象の水準ではなく言説という水準で把握し,言説が逆機能をもたらす仕組みを解明して,そこに見られる悪循環の円環を断ち切ることがその処方箋となるだろう.
著者
山本 耕平 赤堀 三郎
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 = Tokyo Woman's Christian University annals of sociology (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-14, 2023-03-02

本研究は,プライバシー不安のジェンダー差がいかなる要因によって生じるのかを量的データの分析から検討することを通じて,情報技術が高度化する現代社会におけるプライバシー不安の性質を理解するための手がかりを得ようとするものである.科学技術のリスク認知に見られるジェンダー差の説明として先行研究において論じられてきたメカニズムを 4 つの仮説として整理し,2020 年に実施されたインターネット調査のデータ(n=5,961)を用いた線形回帰モデルの推定によって検証した.推定の結果,プライバシー不安は女性のほうが有意に高いこと,その差は知識量のジェンダー差や公的機関にたいする信頼のジェンダー差によっては説明できないこと,子どもの有無によってジェンダー差の度合いに違いがないことが確認され,女性が相対的にケア役割を内面化しやすいというジェンダー化された社会化の過程によってプライバシー不安のジェンダー差が生じる,という仮説が棄却されずに残った.ジェンダー化された社会化の過程にはケア役割の取得のほかにもさまざまな過程がありえ,それらの各々の過程が及ぼす影響を弁別することが課題として残るものの,科学技術にたいして疎遠な存在として社会化された集団が当該の科学技術にたいする不安を抱きやすいとすれば,現代のプライバシー不安は知識の提供などの短期的な対応によっては解消しづらいものである,という含意を得た. This study attempts to understand the nature of privacy concerns in contemporary society, where information technology is becoming increasingly advanced, by examining the factors contributing to gender differences. Four hypotheses were developed, drawing on the literature on gender differences in science and technology risk perception. They were tested by estimating linear regression models using data from the Internet survey conducted in 2020 (n=5,961). The estimation results confirmed that privacy concerns are significantly higher among women. Gender differences in knowledge or trust in public institutions cannot explain this discrepancy. Moreover, no difference in the degree of gender difference due to the presence or absence of children was detected. These results suggest that the gendered differences in privacy concerns are caused by the gendered socialization process, in which women are relatively more likely to internalize care roles. Considering other aspects of the socialization process as possible determinants of these gender differences is required. However, the findings imply that people who are socialized to be alienated from science and technology are likely to be anxious. Contemporary privacy concerns are difficult to resolve through short-term measures such as education.
著者
赤堀 三郎 出口 剛司 飯島 祐介 堀内 進之介 河合 恭平 磯 直樹
出版者
東京女子大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

本研究は、今日勃興しつつある信用スコアサービス、およびその基礎にある与信管理技術に関し、受容意向という側面に着目し、社会学の立場からこの種の対象を総合的に扱うための枠組を構築しようとするものである。すなわち、第一に、信用スコアに関するデータを収集・整理し、国内外の社会学研究者や他分野の研究者のさらなる探究に資するデータベースを作成し、公開する。第二に、信用スコアの受容意向に関する実態調査を行い、結果を公表する。第三に、上記データベースと調査結果の分析および考察を通じ、「信用スコアの社会学」を確立し、与信管理技術を代表例とする新技術の社会的影響という広範なテーマを扱える社会学理論の創造をはかる。
著者
赤堀 三郎
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-12, 2016-03-02

日本ではここ10 年ほど,自己責任という言葉の濫用に代表されるように,他者への無関心および全体への滅私奉公を当然視するかのような言説の独り歩きが広く見られる.本論文はこの風潮を道徳的観点から非難したり,日本文化の特殊性と結びつけて論じたりするものではない.「社会システムの観察」という論点を手がかりとして,このケースのような現象一般を扱うための普遍的な枠組を探究することを目的とするものである.\rソシオサイバネティクスでは,コミュニケーションにかかわるこの手の現象を,個々の人格や個々の言説そのものではなく,社会システム(コミュニケーション・システム)という「観察者」の水準において考える.「社会システムの観察」は,ソシオサイバネティクスの主要論点のひとつとされている.ソシオサイバネティクスの観点からは,自己責任などのクリーシェの蔓延というケースに関して,次のように分析できる.第一に,クリーシェが繰り返し用いられることで,ポジティブ・フィードバックに基づく社会システムの逸脱増幅プロセスが生じる.このようなメカニズムが世論の極端化(polarization)の根本にある.第二に,世論の極端化を21世紀突入後のメディアの変化,とりわけソーシャル・メディアの台頭との関連で考えることができる.第三に,世論の極端化の方向を変えようと望むならば,対抗的言説によって火消しを試みる前に,「社会システムの観察」においていかなるフィードバック・ループが作用しているか,あるいは,どのようにそのループを断ち切れるか,といった点にまず着目するべきである.以上のような社会学的視座に立つことで,「社会システムの観察」の状況―たとえば不安定で,ちょっとしたきっかけで二極化したり,極端から極端へと振れたりするような状況―を描き出し,何らかの対策を立てることが可能になる.
著者
出口 剛司 赤堀 三郎 飯島 祐介 伊藤 賢一 渡會 知子
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究課題は、社会学の公共性を実現する条件を理論及び学説史の研究によって明らかにすることにある。上記課題を実現するために五つの論点の考察した。1.ヴェーバー「価値自由」テーゼの批判的継承、2.批判的社会理論とN.ルーマンの社会システム論の再検討、3.ドイツにおける国法学、公共性研究とフランスの中間集団論との比較、4.ドイツにおける社会理論と法学の関係についての考察、5.ネット時代の個人化と社会的連帯の変容の解明である。その結果、理論が自己の正当化実践を行うことを通して、また社会的現実を別様に記述することにより、政策課題を設定=再設定することで通して、社会学の公共性が実現しうるという結論を得た。
著者
赤堀 三郎
出版者
社会・経済システム学会
雑誌
社会・経済システム (ISSN:09135472)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.28-35, 2001-11-01 (Released:2017-07-28)

Dutch sociologist Felix Geyer, who has been interested in the applicability of Systems Theory since the 1970s to the present, created the alienation model as a result of an information-processing disturbance between individuals and their environment. However, Geyer's alienation theory is impractical because its conclusions are trivial. Namely, there are two types of people, those who can cope with environmental complexity and who are rarely alienated, and those who are easily alienated. In this article, we will demonstrate how such shortcomings are derived from the following two facts: The first is that Geyer attributed the causes of alienation to the information processing ability of the individuals. The second is that despite using the second-order cybernetics concept, Geyer did not take into consideration the fact that the difference between system (self) and environment (other) is constructed by the system itself. To overcome these difficulties, the closure type model and the second-order approach should be used to study alienation rather than the input-output model and the first-order approach. We will then be able to understand the causes of alienation while at least not using the determinist's point of view.
著者
赤堀 三郎
出版者
東京女子大学現代教養学部国際社会学科社会学専攻紀要編集委員会
雑誌
東京女子大学社会学年報 (ISSN:21876401)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.47-54, 2018-03-02

日本では近年,不寛容が広がりつつあると言われている.不寛容社会という言葉が使 われることもある.本論文は,社会が不寛容になっているか否かを検証したり,社会の不寛容さを道徳的・倫理的見地から嘆いたり非難したりするものではない.本論文で問うのは,不寛容社会が「どのように観察されているか」である.そしてこのことを通じて,近代化や文明化のもつパラドクシカルな性質を扱うための一般的な枠組を探究する.そのためにここでは,社会を一種の観察者として把握し,その観察の仕方を問う「セカンド・オーダーの観察」の視座に立つ.ここから,次のようなことが言える:
著者
赤堀 三郎
出版者
社会・経済システム学会
雑誌
社会・経済システム (ISSN:09135472)
巻号頁・発行日
no.24, pp.97-102, 2003-10-25

In the early 1980s, Niklas Luhmann introduced autopoiesis theory to sociology and redefined social systems concept as systems of communication. In this paper, by referring to Gordon Pask's "Conversation Theory", which Luhmann also referred to, we examine why Luhmann attached importance to the communication concept. The reason lies in that we can understand stability of social systems not as an equilibrium or regulation but as a continuous process of communication by using autopoietic model of social systems.
著者
赤堀 三郎
出版者
社会・経済システム学会
雑誌
社会・経済システム (ISSN:09135472)
巻号頁・発行日
no.31, pp.109-114, 2010-10-30

The concept of self-description plays an important role in Niklas Luhmann's sociological systems theory. In the systems theoretical sense, self-description does not mean description of self but description of society by society itself. The implication of self-description (of society) lies in that we cannot describe society from outside of society. From the systems theoretical viewpoint, we can see society as a system that contains various self-descriptions and therefore we should not ask what society is but how society is described. Systems theoretical description is the meta-level description (i.e. second-order observation). It can especially be characterized as the description of differences. Meta-level observers try to indicate what kind of distinctions or borderlines are drawn in a certain observation or description. Such a viewpoint enables us to see the hidden side (blind spot) of description of society and that is indeed the advantage and the true charm of the systems theoretical description.