著者
西野 常夫
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.47-61, 1998-03-31 (Released:2017-06-17)

On trouve divers animaux dans le recueil de poèmes Aiiro no hiki (1936) d’ÔTE Takuji. Les animaux jouent un rôle considérable dans le monde fantasmagorique de ce poète. Dans cet article nous essayons d’analyser la façon dont sont utilisés les animaux dans ce recueil de poèmes en comparaison avec celui des Fleurs du Mal de Baudelaire, qui utilise beaucoup d’animaux surtout comme allégories des éléments naturels chez l’homme. Dans Aiiro no hiki aussi on trove un emploi allégorique des animaux, fidèle à la tradition littéraire occidentale. Ainsi l’oiseau, animal le plus souvent utilisé, figure commme allégorie de la liberté ou de la divinité. Le serpent fait allusion au péché originel et le cheval peut être associé à celui de l’Apocalypse. Mais, caractéristiques de ce poète japonais sont la comparaîson de la femme à l’oiseau, qui se rencontre dans le curieux mot combiné femme-oiseau (onna-dori), et les caricatures du poète lui-même dans les poèmes du crapaud, de la grenouille ou du crabe. Ces comparaîsons l’une et l’autre expliquent l’intention du poète d’observer et de décrire des choses en détail. Cette intention va, parfois paradoxalement, jusqu’à interdire au poète de définir ce qu'il voit et, dans ce cas-là, le poète est obligé de se contenter de la répétition de l’expression vague et obscure: une chose de... (...no mono), qui dénote la présence de quelque chose d’inexprimable.
著者
松藤 英恵
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学
巻号頁・発行日
vol.43, pp.7-18, 2001

<p> <i>Tenchi Hajimari no Koto</i> ("Histoire de la Création") est l'un des rares textes produits par le catholicisme japonnais du 16ème et 17ème siècles dit "kirishitan". Supposé reproduire les récits bibliques de la Création à l'Apocalypse, ce document découvert en 1865 n'est estimé que pour sa valeur ethnologique en raison des transgressions de la doctrine et des récits de la Bible qu'il contient.</p><p> Une analyse détaillée du texte kirishitan révèle cependent que l'histoire de Lucifer narrée dans la première section coïncide avec le passage de "la corruption de l'étoile du matin" (Lucifer) dans le Livre d'Isaïe et les descriptions de Lucifer développées par Dante dans la <i>Divine Comédie</i>.</p><p> La première section du <i>Tenchi</i> se distingue par la large place qu'il consacre à des descriptions imagées. Celles détaillées et vivantes de Lucifer comprennent des passages sur les costumes du diable semblables à ceux utilisés à Zurich dans les spectacles religieux médiévaux. De même présentent-elles des traits communs avec l'image de Lucifer telle qu'elle apparait dans le <i>Tableau Saint de Saint-Michel</i> lequel,à l'instar du <i>Tenchi</i>. est conservé dans le village de Sotome près de Nagasaki. Dans le tableau kirishitan, Saint-Michel et Lucifer détiennent également les mêmes traits que ceux que l'on toruve dans l' iconographie occidentale. Les tableaux de Raphaël et de Hans Memling sont ainsi parmi d'autres des exemples significatifs de cette parenté de représentation.</p><p> Le <i>Tenchi</i> est également riche en dialogues théâtraux et en scènes d'action. Sa structure doit être tapprochée de celle des Mystères qui ont été représentés par les jésuites au Japon au cours du 16ème et 17ème siècles. La lettre rédigée à Bungo par le jésuite Irmâo Joâo Fernandez offre un exemple révélateur de cette connivence. Datée du 8 octoble 1561, elle contient des descriptions sur le Mystère représenté alors à Noël qui présentent des similarités évidentes avec celles de Lucifer dans le <i>Tenchi</i>.</p><p> S'il apparait ainsi comme un document ethnologique portant témoignage d'une transgression doctorinale et narrative, le <i>Tenchi</i> doit également être considéré et apprécié pour l'éclairage qu'il donne de l'action des jesuites dans le Japon du 16ème et 17ème siècles.</p>
著者
福田 光治
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学
巻号頁・発行日
vol.11, pp.176-165, 1968

<p> 明治二十七年四月「拾弐文豪」伝の第六巻として北村透谷の『エマルソン』評沄が民友社から出版された。この評伝はエマソンに関する著作としては日本最初のもので、明治二十三年刊の佐藤重則訳の『文明論』とともに、日本におけるエマソン移入史上大きな意義をもっている。明治の中期にエマソン思想の接触が青年透谷によってなされ、しかもそれ以前のエマソン受容の態度を一歩抻し進めた点でエマソン思想移入の先駆者的意義をもっている。</p><p> 明治維新によって海外文化摂取の門戸が開放され、当時アメリ力文化の指導者と考えられていたエマソンが、わが国と交渉をもつようになる。はやくは、明治五年、岩倉具視の率いる日本使節団歃迎の宴がボストンで開かれた。その時詩人のオリバー•ウェンデル・ホームズとともにエマソンが招待され、「日本と武士道」について講演をした。かれの東洋に対する関心が強かったとはいえ、日本に対する知識はほとんどなかったともいえる。明洽二十一年『学士会員雑誌』に「報償論」を掲載した『西洋品行論』の著者は、エマソンの熱烈な愛読者で、エマソンの章句を喑誦しては、子弟たちに座右の銘とすることをすすめたり、ことに「報償論」のごときは数十回繰り返してもあくことをしらなかったという。明治の西欧化の初期に青年たちに与えた中村正直の感化は大きかったものと思われる。エマソン翻刻版の編者外山正一、エマソンの講演をアマーストで聞き帰国後エマソンを講じた神田乃武、内村鑑三、植村正久、徳富蘇峰らをのぞいては、はたしてどの程度エマソンに親近感を抱いていたかは疑わしい。とにかく、鎖国状態を脱して新らしい海外文化にふれようとする気運に燃えて、わが国に迎えられたエマソンの姿は、まず文明論者としてのエマソンで、新らしい自己を形成し発展させるためのエマソンでなかったといってよい。当時におけるエマソン作品の選択傾向にもみられるように、外国文化摂取の開花期に当然現れるべくして現れた特徴をはっきり示している。</p><p> これらの先覚者のあとをうけて、北村透谷はどのようにエマソンに接したのであろうか。かれが『エマルソン』を執筆した時期は、明治二十六年八月三十日付の日記からほほ推定できるが、それは評伝執筆のため祖織的準備に入ったことを意味するもので、明治二十五年二月『女学雑誌』の発表前にさかのぼる。</p><p> 透谷は「余は切にエマルソン紹介者を待つ者なり。余は伝へしと言はず、論ぜりと言はん。」と記して『エマルソン』評伝を結んでいるが、かれの評伝は主観的傾向の強い作品だと考えられている。伝記的事実や作品内容の解説はともかく、かれのエマソン批評は、ごく限られたものではあるけれども、エマソンの作品に即して論じられたものであって、それほど主観性の濃いものではない。評伝の否定的な面のみをあげることになるが、透谷が評伝執筆にあたって、もっとも恩恵をうけたものとしてジョン•モーレイと、マシュウ・アーノルドとをあげることができよう。</p><p> 明治二十六年五月『文学界』第五号に発表された「内部生命論」で、透谷は不変不動の造化とこれに対する人間の「心」の関係を、エマソンの『自然論』と同じ論旨ですすめている。「頑執妄排の弊」においても「宇宙に精神ある如く、人間にも亦精神あるなり。而して人間個々の希望は宇宙の精神に合するにあり、人間世界最後の希望は、全く宇宙の精神に合体するにあり。」とのべて、エマソンの『自然論』の反映をはっきりと見せている。</p><p> 透谷は「内部生命論」で仏教とキリスト教をそれぞれ不生命の思想、生命の思想と見ているが、ことに仏教が本来の目的からはずれ迷盲の世界より解放すべき使命を放棄しているために、従来の仏教観にとらわれざるを得なかった。エマソンが形式化されたキリスト教には反対したが、キリスト教そのものは肯定している。同じように透谷は「内部生命論」では仏教を否定的に見ているものの、その「本来の目的」であるべき姿を肯定していることは「他界に対する観念」の中の言葉で明らかである。『平和』第六号に発表された「各人心宮内の秘宮」においては、普通の論理では把握不可能なかたくとざされた「心宮内の秘宮」に、われわれ人間の精神の活動の根底をおいている。この「秘宮」「内部生命」「人間の生命の裡の生命」にもとづいてはじめて永遠性、絶対の把握が可能になる。この仮相の世界を離れて「大平等の理」変化の中の統一を確立することこそ、透谷のめざすところであった。したがって「生命の根本」を軽視した徳川時代の巧利派の文学を非難するのも当然なことであった。肯定的な唯心論を展開した「心の経験」から自然と我の冥契を説く「一夕観」になると、冷静な自然観照の中にも内的葛藤に悩む透谷の片影が映っている。エマソンは,自己の本性にのっとれば、矛盾など問題ではないと言っているが、透谷の場合は、かれとはまた別の意味で自己思想の矛盾を表出しなければならなかった。その相違も性格はもとより、エマソンのおかれた風土的環境や、あの楽天的な開拓精神の横溢した時代的背景を考えてみれば当然なことである。けれども「伝へしと言はず論ぜりと言はん。」として書きあげたはずの「彼の楽天主義」(「エマルソン」)には、エマソン否定の言葉はみられないのである。善悪の問題についても、悪は本質的には絶対悪ではなく、善の「否定的なもの」と考えたエマソンにとっては、それが人間個人の教育に資し、人間経験の拡大に貢献するものとした。内部生命の昂揚という大きな視点にたてば、悪の存在は否定され、徹底した個人主義、楽天主義へと導かれる。ところが透谷は、善悪の二元対立を認めている。悪をエマソンのように単なる表裏関係ないし対応関係にあるものとすれば、善と悪の「紛争」は永遠に続くものと考えた。ここにエマソンと違って原罪意識から抜けきれなかった透谷の内面的葛藤が示されている。(立教大学)</p>
著者
山根 和代
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学
巻号頁・発行日
vol.21, pp.148-125, 1978

<p> 日系アメリカ文学は一般的に無視されている。これは他のアジア系アメリカ文学、例えば中国系アメリカ文学についても同様な事が言える。たとえ無視されなくてもそれは文学としてではなく、ドキュメンタリーとして考えられがちだ。それは日系アメリカ人のイメージと密接に関連している。</p><p> 日系アメリカ人は戦前は「ジャップ」として排斥され強制収容所に入れられた。しかし、戦後は市民権を渡得し「少数民族の模範」とされている。最初に移民者がアメリカの土を踏んで以来約百年が過ぎたものの、日系人の歴史や西部開拓への貢献は長い間十分評価されていない。日系人そのものの評価が不十分な中で、日系アメリカ文学も一般的に文学的価値に乏しいという評価しかなされていない。しかしそういう状況に対してアジア系アメリカ文学の選集である「アイー!」が出版された。それは叫びというよりも、むしろアジア系アメリカ人もアングロアメリカ人と同様にアメリカ人であるという人種的平等の主張であり、又アジア系アメリカ文学の存在の主張でもある。</p><p> 日系アメリカ文学を定義するとすれば、それは日本文学でもなく、又アングロアメリカ文学でもなく、文字通り日系アメリカ文学であると言えよう。その日系アメリカ文学は、日本人でもなく、又アングロアメリカ人でもない日系アメリカ人によって創造されたが、その文学を理解するには、日系アメリカ人そのものを彼らの生きてきた時代背景を通して理解する事が重要である。</p><p> 日系アメリカ人の歴史は排日との闘いの歴史であり、社会的には人種差別問題が彼らの生活に大きくかかわっている。</p><p> 戦前においては経済不況の責任を日系人に転嫁し排日運動が起こった。一九二四年には排日法が通過し、排日運動が盛んになった。第二次大戦に入ると強制収容所に抑留されたが、その際アメリカに忠誠だった二世も含まれていた。しかし多くの二世はアメリカへの忠誠を証明するために自主的にヨーロッパで戦った。戦後収容所から出され、一九五二年についに市民権を獲得した。以後黒人等の少数民族と比べ、「よく働き教育水準が高く、おとなしい」等の理由で「少数民族の模範」とされている。一九七四年にはアジア系アメリカ文学選集が出版され、一九七七年にはアジア系アメリカ人作家の会議が初めてワシントン大学で開かれた。</p><p> 次に主な作家と作品にふれてみよう。一九一〇年から一九二〇年の間はアメリカにおける日本文学の黄金時代と言われている。その代表的作家として翁六溪があげられる。一世の作品の特徴は実生活を題材としていることだ。主題は実に様々であり、例えばアメリカへの夢、排日、幻滅、西部開拓の誇り、望郷等である。中でも望郷のテーマは代表的と言えよう。今日、あまり日本語の分からない二世や三世の世代に移っている中で、まだ地下室に一世の作品が眠っていると言われている。</p><p> 二世の作品の主題で重要なのは、「日本人かそれともアメリカ人かというアイデンティティの探究」である。その背景には、アメリカで生まれ育ったにもかかわらず、戦時中収容所に入れられた状況がある。代表的作品としては、ジョン・オカダの「ノーノーボーイ」という小説がある。それは二世の内面的葛藤を見事に表現している。この作品は英語で書かれているが、この作品のように二世の内面を日本語で描いている作品として阿部芳雄氏の「二重国籍者」がある。短編小説ではトシオ・モリの「ヨコハマ・カリフォルニア」がよく知られている。彼の作品は、一九三〇年から一九四〇年の頃の一世や二世の生活や感情を見事に描いている。一九七五年には二世の作家によるシンポジウムがサンフランシスコで開かれた。やっと日系アメリカ人自身により日系アメリ力文学の存在が問われ始めたと言えよう。</p><p> 三世による作品のテーマで重要なのは、「日系アメリカ人としてのアイデンティティの探究」である。代表的作品として、ローソン・フサオ・イナダの「戦前」という詩集がある。彼は、"Black is beautiful"に代表される黒人解放運動に影響されて、"Yellow is beautiful"という考えを詩の中に表現している。又彼の英語は黒人英語の影響が見られるが、内容的には日系アメリカ人の声を表現している。その他の詩人として、ジャニス・ミリキタニがあげられる。彼女の詩は収容所における体験を基に創造されたものが多い。おもしろいのは作品の中に日本語が意識的に使われていることだ。そうすることにより、日系アメリカ人としてのアイデンティティを表現しようとしているようだ。</p><p> 劇にはモモコ・イコの「金の時計」がある。これは貧しいながらも幸せに生きる日系人の家族を描いているが、テレビでも放映された。又、一九七七年に第一回アジア系アメリカ人作家会議が開かれた時、"Nisei Bar Grill"という劇が上演された。</p><p> 最近の三世の作品は"Amerasia Journal"に発表されている。</p><p> ところで日系アメリカ文学の特徴の一つとして、それがアングロアメリカ文学と対比されて創造されたという点があげられる。それは日系アメリカ人が自分のアイデンティティを、アングロアメリカ人と比べる中で考えてきたからである。テーマに関して言えば、テーマそのものが日系アメリカ人の歩みをアングロアメリ力社会と対比させる中で物語っている。一世の望郷のテ—マの背景には、アングロアメリカ社会における排日がある。二世の「自分は日本人か、それともアメリカ人か、というアイデンティティの探究」のテーマは、アングロアメリカ社会においてアメリカ人でもなく日本人でもないという二世の中途半端な立場を表わしている。三世になってやっと自分を日系アメリカ人として位置付けようとしているが、文学においても同様だ。日系アメリカ文学はアングロアメリカ文学と対比される中で創造されていると言っても過言ではなかろう。従って日系アメリカ文学を評価する際、アングロアメリカ文学における価値基準で評価するのは疑問だ。</p><p> 形式面においては、使われている言葉に特徴がある。一世は当然日本語で書いたが、二世は英語で書いている。その英語もアングロアメリカ人の使う英語ではなく、日系アメリカ人が使う英語で書かれている。三世になるとたとえ間違っていても日本語を意識的に使っておもしろい。</p><p> 日系アメリカ文学は、少数民族の一つである日系アメリカ人の視点から見たアメリカを表現している。それは日本人であれアメリカ人であれ自分のアイデンティティを考える場合何かを考えさせてくれる。現在は日系アメリカ文学のルネッサンスと言えるかもしれない。</p>
著者
王 蘭
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.79-92, 2009

<p> What is the significance of demons and ghosts in the modern age? This paper will examine the interest Zhou Zuoren and Yanagita Kunio had in the use of supernatural beings in literature and folklore. It will discuss the views these thinkers held and the quite different conclusions they came to.</p><p> Zhou Zuoren (1885-1962) believed demons and ghosts were products of human fear and felt that studying them would lead to a deeper understanding of the Chinese people and their culture. His conclusion, however, was that people's fear was ultimately unhealthy. A prolific translator of Greek literature, Zhou Zouren advocated the introduction of Greek mythology with its more human, less fearful, and more beautiful gods.</p><p> Yanagita Kunio (1875-1962) was a Japanese contemporary of Zhou Zuoren. Often called the "father of Japanese native ethnology," Kunio believed that through studying the strange, mysterious and fantastic elements of folklore one could better understand the mindset and character of the common people. Unlike Zhou Zuoren, however, he did not try to reform Japanese culture by introducing foreign elements. His desire was quite the opposite ――to uncover the ancient beliefs of the Japanese people.</p><p> This paper discusses these two intellectuals, their views on demons and ghosts, and discusses the reasons behind their opposing conclusions.</p>
著者
澁谷 智子
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.69-81, 2002

<p> The concept of "Deaf Culture" recognizes the deaf as a linguistic minority who use sign language. In fact,some deaf describe themselves as "Deaf " with a capital "D," just as African Americans use the word "Black" to express their pride in being black. This concept questions the values of the hearing majority that are being taken for granted. Just as notions of "heterosexuality" have been created from the perspectives of "Gay Culture" the values of hearing society can be also relativized as "Hearing Culture."</p><p> In discussing the relationship between "Deaf Culture" and "Hearing Culture," this paper focuses in particular on the experience of people whose parents are deaf. These people are called "Coda" which stands for "Children Of Deaf Adults." Coda can hear physically but culturally are associated with the deaf. For example, some Coda acquire sign language as their first language. These Coda, who mediate between their parents and the hearing majority, have much in common with second generation of immigrants. Not only do they interpret languages but they also translate cultures and mitigate cultural conflict. However, mockery by and pity from hearing people make Coda feel embarrassed or inferior about their background. This sense of shame and low self-esteem can lead to a sense of guilt.</p><p> Through the analysis of autobiographies and essays of Coda, this paper tries to describe the cultural friction between the hearing and the deaf. By doing so, it also suggests that cultural borders are not always associated with nationality or geographic distribution.</p>
著者
岡本 昌夫
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.23-33, 1961

<p> It is commonly known that the New Style Poetry of the Meiji Era, called ' Shintaishi ' in Japanese, started under the influence of Western Poetry. In point of style and metre, the translation poems of the Early Meiji Era seem to have given examples for the New Style Poetry. Ōwada's <i>Ōbeimeikashishū</i> (Selected Poems from Famous Western Authors) published in 1894, is especially considered to be among those examples by the later Meiji poets, though there are some other previous works, such as <i>Shintaishishō</i> (Selections from New Style Poetry) translated by Inoue, Takayama and Yatabe.</p><p> In <i>Ōbeimeikashishū</i> Ōwada translated more than one hundred Western poems into Japanese in seven-and-five syllable metre verse, just as Inoue and two others had done in their <i>Shintaishishō</i>. But his selection of seven-and-five syllable metre in his translation was the result of deliberate consideration and experiments of the translator, not because of his imitative instinct. Ōwada composed various styles of poems previous to his <i>Ōbei- meikashishū</i> and found seven-and-five syllable metre fittest for the New Style Poetry.</p><p> Thus after many experiments by such translators, as Ōwada, the form of the New Style Poems of the Meiji Era was established, which was brought to its perfection by such poets as Shimazaki Tōson and Tsuchii. Bansui</p>
著者
宮田 沙織
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.24-38, 2018-03-31 (Released:2021-04-01)

The aim of this paper is to clarify that Sato Haruo's short story “The House of a Spanish Dog" (1917) is inspired by Li Bai's poem “Seeking in Vain the Taoist Priest on Daitian Mountain". This piece of fantasy with a dreamlike tone is an early masterpiece of Sato, in which a man wanders into the mountains with his dog and finds a mysterious house. It is widely regarded as inspired by Edgar Allan Poe's “Landor's Cottage", itself a parody of Washington Irving's “Rip Van Winkle". However, when considering that the protagonist visits a house while its owner is absent, and imagines that the owner of the house is a hermit or a wizard, it is necessary to examine the influence of the traditional motif of “absent hermits" in Chinese poetry. This motif was especially popular in the Tang period, for it was believed to describe effectively their unworldly lifestyle. “The House of a Spanish Dog" actually shares many common motifs with traditional poetry; the imagery of spring water, for example, is one of the particular motifs that show Sato's close relationship to the ancient poets. Therefore, focusing on the adaption of the topos of “Peach Blossom Spring" from the quatrain of Li Bai, this paper tries to demonstrate how the “fantastic" atmosphere of “The House of a Spanish Dog" is generated not only from Poe's short story but also from Li Bai's poetry.
著者
ツォーベル ギュンター
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.128-112, 1971

<p> 演劇の世界では、類似する精神史的、文化史的条件によって諸国民の間に、近い親縁の現象が實現したように思われる。遠く隔たった大陸で、時代も違っており、その間に何等直接の接触がなかった害であるけれども、いくつかの国民は判然と一致した演劇上の形態と人物を発展させて来た。</p><p> この意味において、本論文では数世紀にわたる歴史をもち、神楽(かぐら)劇の形をとって今なお生きつづけている民俗喜劇の人物と、ヨーロッパの古い謝肉祭(カーニバル)風習の人物およびもっと歴史の新しいコメディア・デラルテ(一六世紀に栄えたイタリア劇の即興茶番)の人物とが比較される。この比較の記述の中心点にあるのは、日本の四つの面とその人物、すなわち、「獅子」「ひょっとこ」、「おかめ」、「天狗」、これらの神話的由来、祭祀の行事及び演劇上の型の規定である。</p><p> 日本の演劇史もまた祭りがすべての戯曲の源泉であるという命題を実証している。春季祭礼、五穀豊穣祈念祭の祭式と結びついて、第一に獅子の姿が登場する、この獅子は獅子踊や神道(しんとう)の行列の形で、冬の悪魔を祓(はら)うものとしての機能をもつが、この機能はヨーロッパ中世の謝肉祭行進のシェンバールトロイファー(ひげのある面をつけ謝肉祭に行進する人物)に似ている。——神楽のある種類ではその舞台に、征服された野獣のグロテスクで滑稽な姿としてこの獅子は狩獬呪術の祭式に登場した。この祭式こそ獅子踊または鹿踊の基礎になっている。すべての時代のすべての国民にとって、春の祭式進行の在り方に、滑稽なものや喜劇の源泉が存するのである。</p><p> 日本版ハルレキン(イタリア喜劇の道化)を演ずるものが神楽の「ひょっとこ」である。ヨーロッパの道化は、ヴォーダン神(古代ゲルマンの最高神)を中心とするゲルマンの神話や祭式から発生したのであった。ライン河流域における男衆同盟の男根の儀式において、魔王の軍勢の指揮者はヘルレキンと呼ばれていた。これが後にはキリスト教神秘劇の悪魔となり、コメディア・デラルテのアルレッキノとなった。面と服装の要素のいくつかは、神楽の伝統と、コメディア・デラルテの伝統との外観上の類似を示している。「ひょっとこ」が最も古い時代の儀式神楽のなかでのサイノオ(細男)の役から由来していることは、演劇論的に証明された。セイノウ(青農)人形は、八幡祭祀において神に供えられたが、日本演劇における「もどき」のその最初の形態を引き立たせた。しかしながら、「ひよっとこ」が元来「青農」として、また「細男」として一体どの神様を代表していたか、というこの問題が今や一つの中心問題となるのである。</p><p> 「ひよっとこ」の面と名前から、かまどの火の神、すなわち、日本書紀にその名が挙げられた「かまの神」との直接の関係が窺い知られる。しかし芝居の中では、我々はなかんずく「おかめ」の相手役としての「ひよっとこ」に出会う。「おかめ」なる人物は、太陽の女神(天照大神)を中心とする神話にその起源が求めらるべきである。すなわち踊るアマノウズメに求められるべきである。「おかめ」の面とエロティックな踊りは、祭式的にはウズメノミコトの、幸福をもたらし、豊穣を呼び出す裸踊りを表現している。多くの国民の場合に、裸を露出することは謝肉祭風習として、また愛の呪術として行事のなかに組み入れられている。</p><p> ウズメノミコトの本来の神話上の、また祭式上の相手役はサルダヒコである。あの天上の道案内人である。このサルダヒコの前で、ウズメノミコトは、日本書紀によれば、二度目に裸を露呈した。サルダヒコは人によく知られた姿(人物)としては「天狗」を演ずる。「天狗」の面は男根の象徴となった。民衆の中には、好色の山の妖怪「天狗」の表象が今なお生きており、神楽や祭りにおいては、今日でもなお我々は、天狗の、男根の魔物と神をしい行列の姿とのグロテスクな、そして滑稽な混合に出会う。</p><p> 「ひよっとこ」は、サルダヒコの神の「もどき」姿を表現しているのかも知れない。何故なら彼は代役として舞台上で「おかめ」(ウズメノミコ卜)の滑稽でエロティックな相手役となったからである。「ひょっとこ」(名は火男から来たといわれ、面は火を吹く姿を表わす)の名と面に窺われる火との関係はヤマビト(山人)としての彼の由来から恐らく発しているのであろう。山人すなわち山の住民はしばしば青農人形を運んで行く人であった。そして祭の儀式の火の世話を見なければならなかった。これらの人形の一つとしてサルダヒコはおそらく八幡の神に捧げられたものであろう。その人形を運んだ一人の山人は、神楽の舞台の前で庭火の世話を見なければならなかったが、これが「サイノオ」(細男)となり、後に「ひょっとこ」として日本の民俗芸能の不滅の「もどき」姿になった。——「ひょっとこ」という滑稽な人物の由来についての、この新しい仮説的理論は本論文中に特に強調している所である。本論文を書くに当っては我々はなかんずく、日本の純粋な祭りを親しく見聞したその体験に負う所が多い。(福田英男訳)</p>
著者
ソーントン不破 直子
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.248-232, 1996

<p> ポスト植民地主義文芸批評は、文学に表象された植民者と被植民者が、男性と女性の二項対立の構図となっていることが多い、と指摘している。これはミシェル•フーコーが、西欧が歴史的に「女体のヒステリー化」を推進してきた、とする論と呼応する。すなわち女性は非理性的•ヒステリー的で自分を制御できないので、理性的な男性の支配が必要であるとした論理が、そのまま植民地支配の正当化に適用され、被植民者は女性のように非理性的で自分を統治できないから、男性的理性をもった西欧の教化と保護(実は支配)が必要なのだ、とするものだった。</p><p> ラフカディオ•ハーンは、その生い立ちの影響もあって、帝国主義•植民地主義に強い反感を抱いていた。来日当座の印象記『日本瞥見記』においては、西欧の男性にもてあそばれ捨てられた日本女性が日本の社会からも疎外されているのを見て、ハーンは西欧と日本から二重に植民地支配された彼女に誠心から同情している。だがハーンの晚年は、日本自体が植民者としての野望を東アジアに向けはじめた時代でもあり、ハーンは日本を植民者と被植民者の両面から理解しなければならなかった。それでも最晚年の著作『日本 一つの試論』においては、「祖先と男性に服従するように作られた」日本女性の「自己犠牲」の精神こそが、日本人の美と道徳性の基となってきたとし、日本女性を国家の道徳的表象ととらえている。そして、西欧的近代社会は(日本も含めて)、自己中心の侵略と競争をやめ、この日本女性の道徳的理性を範とすべきだと言う。つまり、フーコーの論の「ヒステリー化された女体」とは正反対の精神性を、日本女性に見たのである。</p><p> だがハーンは日本女性の「自己犠牲」は強要されたものであるという実態には全くふれず、西欧に自分の意見を示す道具として日本女性を使ったのである。その点においては、ハーンは皮肉にも、あれほど称賛した日本女性を「植民地支配」したと言ってよいだろう。</p>
著者
ウィリアムズ フィリップ
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学 (ISSN:04408039)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.158-134, 1972

<p> 文学史家、比較文学者、英米文学を教える人たちは、ウォルト・ホイットマンとT・S・エリオットが根本的に反対の立場にあることを長い間当然のことと考えて来た。ホイットマンは愛国的アメリカ人、民衆の詩人、ローマン派の詩人、民主党員、自由詩と信仰の自由の声と目されている。エリオットは、その反対と見做されている。アメリカ生れで英国人に帰化した人、学者の詩人、古典主義者で、王党員で、芸術に於けると同様信仰に於いても正統派と目されている。他の近代の詩人たちは、全く対照をなすホイットマン詩派とエリオット詩派、すなわち『民衆の詩人』対『形而上詩人』の流れを汲む詩人であるとしばしば考えられる。このように割り切って概括する仕方のいくつかに重要な真理があるが、一方もっと根本的な点で両詩人は基盤的な考えが一致し、多くの手法の点で結ばれていることを観察することこそ重要であると思われる。ホイットマンとエリオットとを互に対抗させて大ざっぱな総括を試みることは従来行われてきたが、これは不当である。何故なら両詩人とも簡単に割り切れない、複雑な詩人だからである。矛盾やパラドックスは両詩人ともに重んじる所であり、彼らの作品を簡単に割り切ることが従来行われてきたが、これは両詩人についての重要な真実をあいまいなものにしてしまう。</p><p> ホイットマンとエリオットは抽象的な考え方で絶えず比較されるけれども、彼等の作品の詳細な比較研究は驚くほど乏しい。従来なされた一つの重要な研究である、S・マスグローブの「T・S・エリオットとウォルト・ホイットマン」(S.Musgrove,<i>T.S.Eliot and Walt Whitman</i>, Wellington, New Zealand, 1952)に於いて、この著者はエリオットがホイットマンの特徴であるイメージや一般的な方法を意識的に、また無意識的に用いた色々な例を注意深く調査し指摘している。しかしマスグローブはただホイットマンの拒絶をエリオットの心中に働く動機と見ている。今から二十年前のこの研究に蒐集された学問的資科は明らかに両詩人の重要な相互依存を示しているが、事実ホイットマンとエリオットは想像以上に多くの一致点があることはまだ示されないままになっている。すなわち両詩人は、聖書に基づく一つの根本的な伝統の二つの声であり、聖書はこの二人の大詩人にとって、形式と思想と、この双方の最大の、唯一の源泉である。</p><p> 両詩人は瞑想の様式に基づく一つの方法を用いていること、音楽的構造(「詩篇」におけるようなパラレリズム)を用いていること、二人はシンボリズム(隠喩から神話にまで及ぶ)を用いたこと、語彙(ごい)―そのすべては聖書の詩歌から直接引き出されている―の共同の貯えを分け合ったことが、本論文の主題である。さらに重要なことは、人間の性質や運命や歴史の意味に就いて両詩人が抱いている共通の考えは聖書から、そして時間と永遠についての聖書の解釈から導かれた。人の一生は、ホイットマンとエリオット、この両詩人の重要な詩に於いて、精神の探険の旅と見られている。魂の旅の目的地は、自然の時の中に―自然界的宇宙的時の中に―社会経験の時の中に―歴史的時の中に―「静かな点」における瞬間の中に―実存的時の神秘な経験の時の中に、意味を見出すことである。(これらの分け方はNicolas Berdyaevの著作に直接示されている。)本論文では両詩人の基本的な作品を研究して、これらの主題が、ホイットマンの「私自身の歌」("song of Myself")とエリオットの「四つの四重奏曲」("Four Quartets")―多くの基本的なイメージとシンボルをともに用い、現世の経験の中に永遠の意味を発見する点で、ともに一致している長い詩―のような詩に、どのように支配的な力をもっているかを明らかにする。</p><p> 彼らの詩のすべてにわたって、その中心を占める人間の愛というテーマに対する彼らの関心において、エーリッヒ・アウァーバッハ(Erich Auerbach)が明らかにしたように、聖書との一致をわれわれは見出す。ホイットマンの初期の作品は、罪の意識を否定して、新らしい宗教を求めるように見えた。しかし、彼の後期の作品は、直ちに聖書の伝統に合致することが最後にわかる。例えば、「コロンブスの祈り」("Prayer of Columbus")を參照されたい。エリオットの作品における一つの変化は、彼が後期になるとアメリカ的素材を後の詩作においてますます多く使用していることである。反対に、「インドへの航路」("Passage to India")に見られるように、ホイットマンは最後にはずっと多く国際的な色彩を帯びてきた。―これが両詩人のもう一つの一致点である。今日我々にとって、ホイットマンをエリオットから深く影響を受けた一つの伝統の中において始めて理解できるのである。しかし他方に於いて、ホイットマンはエリオットの現在であるところの過去の一部である。ホイットマンとエリオットの作品を正しく理解するためには、われわれは両詩人に敏意を表し、かれらを一つの伝統の二つの面と見なければならない。(福田英男訳)</p>