著者
岡崎 正道 OKAZAKI Masamichi
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.105-119, 2008-03-21

1970年11月25日,作家三島由紀夫(1925-70)は「楯の会」の同志とともに東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入,広場に集まった自衛隊負に向かいバルコニーから「檄」を飛ばす演説を行なった後, 総監室内で「楯の会」会員森田必勝の介錯のもと割腹自殺を敢行した。その「倣文」に日くわれわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし,国の大本を忘れ,国民精神を失ひ,本を正さずして末に走り,その場しのぎと偽善に陥り,自らの魂の空自状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗,自己の保身,権力慾, 偽善にのみ捧げられ,国家百年の大計は外国に委ね,敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ,日本人自らの歴史と伝統を汚してゆくのを, 歯噛みをしながら見てゐなければならなかった。われわれは今や自衛隊にのみ,真の日本,其の日本人,真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。敗戦後の「ヤルタ・ポツダム体制」により民族精神を去勢され,自衛隊は米国の傭兵になり下がり,国家の根本義たる防衛問題がご都合主義的法解釈によってごまかされ,それが日本人の魂の腐敗,道義の退廃の根本要因となっていると,三島は満腔の憤激をこめて主張した。「建軍の本義とは,天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守ることにしか存在しない」とも喝破した。平和と民主主義を謳歌する"昭和元禄"の時世に突然の雷鳴の如き衝撃を与えたこの三島事件は,「三島は気が狂ったとしか考えられぬ」(佐藤栄作首相),「気違いはどこにでもいるものだよ」(大内兵衛元東大教授)というように,あくまで発狂者の常軌を逸した凶行と捉える論調が大勢であった。その政治的意味についても,大かたは狂信的右翼思想の発露と認識されたように思う。他方三島は死の前年,1969年5月13日に東大で開催された「全共闘と三島由紀夫の公開討論会」に出席,全共闘活動家の芥正彦・小阪修平らと国家や天皇等をめぐっての激論を展開している。その中で三島は,「諸君らが戦後日本の欺瞞と対決しようとしている姿勢に共鳴する。君たちがただ一言"天皇万歳"と言ってくれたら,私は一緒に闘って死ねる」と発言した。当時「新左翼」と呼ばれ,社会党・共産党などの旧左翼を超えるラデイカリズムを行動の核心としていた全共闘運動に対する三島のシンパシー濃厚なスタンスを見れば,左翼=進歩革新,右翼=保守反動などといった単純な図式的規定はあまり意味をなさないことが明らかとなる。本論考では,日本の左翼・右翼という概念が明治維新以来の近代日本の歴史の展開の中でどのように形作られていったのかをそれぞれ左右両翼の祖と言われる中江兆民(1847-1901) ・頭山満(1855-1944)という二人の人物,および彼らに連なる諸群像を軸に考察してみたい。
著者
岡崎 正道
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.105-119, 2008-03-21

1970年11月25日,作家三島由紀夫(1925-70)は「楯の会」の同志とともに東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入,広場に集まった自衛隊負に向かいバルコニーから「檄」を飛ばす演説を行なった後, 総監室内で「楯の会」会員森田必勝の介錯のもと割腹自殺を敢行した。その「倣文」に日くわれわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし,国の大本を忘れ,国民精神を失ひ,本を正さずして末に走り,その場しのぎと偽善に陥り,自らの魂の空自状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗,自己の保身,権力慾, 偽善にのみ捧げられ,国家百年の大計は外国に委ね,敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ,日本人自らの歴史と伝統を汚してゆくのを, 歯噛みをしながら見てゐなければならなかった。われわれは今や自衛隊にのみ,真の日本,其の日本人,真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。敗戦後の「ヤルタ・ポツダム体制」により民族精神を去勢され,自衛隊は米国の傭兵になり下がり,国家の根本義たる防衛問題がご都合主義的法解釈によってごまかされ,それが日本人の魂の腐敗,道義の退廃の根本要因となっていると,三島は満腔の憤激をこめて主張した。「建軍の本義とは,天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守ることにしか存在しない」とも喝破した。平和と民主主義を謳歌する“昭和元禄”の時世に突然の雷鳴の如き衝撃を与えたこの三島事件は,「三島は気が狂ったとしか考えられぬ」(佐藤栄作首相),「気違いはどこにでもいるものだよ」(大内兵衛元東大教授)というように,あくまで発狂者の常軌を逸した凶行と捉える論調が大勢であった。その政治的意味についても,大かたは狂信的右翼思想の発露と認識されたように思う。他方三島は死の前年,1969年5月13日に東大で開催された「全共闘と三島由紀夫の公開討論会」に出席,全共闘活動家の芥正彦・小阪修平らと国家や天皇等をめぐっての激論を展開している。その中で三島は,「諸君らが戦後日本の欺瞞と対決しようとしている姿勢に共鳴する。君たちがただ一言“天皇万歳”と言ってくれたら,私は一緒に闘って死ねる」と発言した。当時「新左翼」と呼ばれ,社会党・共産党などの旧左翼を超えるラデイカリズムを行動の核心としていた全共闘運動に対する三島のシンパシー濃厚なスタンスを見れば,左翼=進歩革新,右翼=保守反動などといった単純な図式的規定はあまり意味をなさないことが明らかとなる。本論考では,日本の左翼・右翼という概念が明治維新以来の近代日本の歴史の展開の中でどのように形作られていったのかをそれぞれ左右両翼の祖と言われる中江兆民(1847-1901) ・頭山満(1855-1944)という二人の人物,および彼らに連なる諸群像を軸に考察してみたい。
著者
笹尾 道子
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.17-29, 2008-03-21

スタレーヴィチが始めたロシアのアニメーションはおもに大人向けで,昆虫を主人公にした不倫ものなどであった。革命後の1919年に彼がフランスに亡命するとともに,アニメーション制作は一時中断する。彼が考案した撮影技術が誰にも伝えられることなく西側に持ち出されたからである。ソビエト時代の1920年代に,ジガ・ヴェルトフらにより復活するが,初めのうちはおもに革命プロパガンダ用のものであった。そのうちにプロパガンダ臭のない,子ども向けのアニメも作られるようになる。第二次大戦中は再びプロパガンダ用のアニメが主流となる。ソビエトのアニメ作品が西側に知られるようになるのは,第二次大戦後のことである。民話や童話を題材にしたロシア独特の作品は,ストーリーの面白さ,色彩のあざやかさ,芸術性の高さで世界を驚かせた(『せむしのこうま』『雪の女王』など)。1960年代から80年代はソビエトアニメ全盛期である。多数の子ども向け作品だけでなく,現代社会を風刺したおとな向け作品も作られるようになった。ソビエトのアニメは,世界各地のアニメ祭で数々の賞を受賞するようになる。多数の優れた作品が生み出された背景には,国が出す豊富な資金があった。こどもの情操教育にアニメが果たす役割を国が認めていたためである。アニメーターたちは,資金の調達に奔走することもなく,じっくり時間をかけて制作できた。そのかわり企画投階から検閲があり,検閲とのかけ引きに時間をとられることが多かった。比較的簡単に上映にこぎつけた作品もあれば,多くの修正を余儀なくされたもの,完成後に上映が事実上制限された作品もあった。西側社会を風刺したものも,その時の情勢によっては企画が通らないこともあった。検閲のきまぐれに翻弄されながらも,ソビエトのアニメーターたちはしたたかに社会風刺を作品のあちこちにこめた。本論では,社会批判や風刺がこめられている作品のいくつかを時代に沿って取り上げ,特徴を分析する。また最近検閲の実態も明るみに出始めており,アニメーターと検閲とのかけ引きについても触れていく。
著者
池田 成一
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.59-77, 2008-03-21

宮沢賢治(以下賢治)が思想的関心を引きやすい文学者であることは誰しも認める所であろう。ここで「思想的関心をひきやすい」とは,賢治を文学者としてだけではなく一人の独自の思想家と考え,彼の思想を再構成しようとする試み,あるいは,特定の思想的立場から彼の作品にアプローチすることによって自らの思想の例証とする試み,あるいはその両者の混合を誘発しやすい作品群や伝記的事実を彼が残したことをさす。そもそも賢治が有名になるにあたって思想家・哲学者である谷川徹三が大きな役割を果たしたが,その後も梅原猛など,思想家・哲学者が賢治について発言する例は多い。また,文学研究者を自認するであろう人々の賢治論でも,現代思想を積極的に援用する例が多いのである。むしろこの傾向は近年強まっているように思われる。その例としては,ポスト・コロニアリズムまたはクレオール主義(西成彦,小森陽一),ソシュールやラカンなど(千葉-幹),ドゥルーズ=ガタリ(岡村民夫),ベンヤミンやアドルノ(中村三春)等があげられよう。さながら賢治は現代思想の実験場となっている感がある。このような文学者として他の例を探せば,ドイツのヘルダーリンが近い存在であろう。ヘルダーリンは彼自身が独自の思想家とみなされる面をもちながら,その文学作品にはヘーゲル的,ハイデガー的,マルクス的,ベンヤミン・アドルノ的等,多様な思想的解釈がされているのである。
著者
斎藤 伸治 SAITO Shinji
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.199-215, 2008-03-21

現代言語学の祖とされるソシュールは,古代ギリシア以来ずっと支配的だった言語に対する1つの見方・問題意識を,無意味なもの,言語の本質を捉え損なうものとして退けたということが言われる(丸山(1981), Harris andTaylor(1989)などを参照)。このソシュール以前の西洋の言語に対する見方というのは,ソシュールの言葉を用いれば, 「名称目録的言語観」(nomenclaturism)というものであり,平たく言えば「言葉とは本質的に事物を名指すものであり,その事物は言葉とは独立に存在している」という言語観であった。西洋における最初の本格的な言語論であるプラトンの『クラテュロス』篇(伝統的な副題は「名前の正しさについて」)は,この言葉と事物との間の関係が自然的なものかあるいは人間社会の側の慣習にすぎないものかについて論じたものであり,この書以来ずっと,言語とはまず基本的に外界のものを名指すものであるという言語観が,西洋の思想界を支配してきたということになる。
著者
佐藤 芳彦 SATO Yoshihiko
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.145-183, 2008-03-21

近代イギリス予算制度成立史研究の一環として,名誉革命(前後)期(1640年代から1714年アン女王の死まで)を考察対象として扱った拙稿1)においては,当該期における財政面での「立憲体制」の成立過程を総括的に論じることを意図したので,わが国において研究史が殆ど欠落している当該期における具体的な予算の審議過程2)については,冊子体での史料的制約もあり,殆ど全く言及しえなかった。本稿では,(その後に知った)Web上で利用しうる史料3)を利用して,近代イギリス予算制度の完成期(1860年代末)における予算の審議過程に至る歴史的・段階的な位置如何という観点から,「王政復古」Restoration期,とりわけ,その中でも「第二次オランダ戦争」Second Dutch War期(1665年~1667年)に限定して,(1)イングランド議会における予算の審議過程,及び(2)そのような審議過程を経て制定されたいわゆる「援助金及び議定費」法 Act of 'aids and supplies' において初めて導入されてくる4) 「借入及び割当条項」の内容を具体的に明らかにすることにしたい。
著者
砂山 稔 SUNAYAMA Minoru
出版者
岩手大学人文社会科学
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.243-262, 2008-03-21

李白が意識的に把持した復古調の道教思想は、唐代に流行した現代的な道教思想と対抗しつつ、謂わば原道教として、現実との微妙なバランスの下に現前している。これが特徴であろう。その詩が人事と自然とのあざといまでの微妙なバランスの上に成立しているように。
著者
岡田 仁 OKADA Hitoshi
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.3-15, 2008-03-21

イェイツ(W.B.Yeats)の詩に対する情熱は徹底していた。新境地を求めて最後まで変遷を繰り返した。しかもその変遷の方向は定まることがなく絶えず揺れ動いていたように思える。むしろその揺れが詩の原動力となっていた感がある。安定した状態に収まることを自らに禁じて,功成り名を遂げた大詩人のマスクの下に,何か無理やりにとも見える精神の葛藤を作り続けた。その葛藤の一つは,悟りすました老人を目指すか,それとも癇癪老人となって好色と憤怒を露わにするかである。言い換えれば,生への執着を振り捨てようか,それとも出来るだけ持ち堪えてみせようかということだが,イェイツが最晩年に創り上げようとしたのは,この二つが二者択一としてではなく,二つながらに可能な微妙なバランスを保った詩の世界だったと言える。いわば,精神の高みから見下す眼差しと,下界の汚泥の中から見上げる眼差しが交差する場であったとも言える。この小論では,主に"Sailing to Byzantium", "Byzantium", 及び"News for the Delphic Oracle"を取り上げてイェイツ晩年の詩の世界の一画を望見してみたい。
著者
佐藤 芳彦 SATO Yoshihiko
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化・文学の諸相
巻号頁・発行日
pp.145-183, 2008-03-21

近代イギリス予算制度成立史研究の一環として,名誉革命(前後)期(1640年代から1714年アン女王の死まで)を考察対象として扱った拙稿1)においては,当該期における財政面での「立憲体制」の成立過程を総括的に論じることを意図したので,わが国において研究史が殆ど欠落している当該期における具体的な予算の審議過程2)については,冊子体での史料的制約もあり,殆ど全く言及しえなかった。本稿では,(その後に知った)Web上で利用しうる史料3)を利用して,近代イギリス予算制度の完成期(1860年代末)における予算の審議過程に至る歴史的・段階的な位置如何という観点から,「王政復古」Restoration期,とりわけ,その中でも「第二次オランダ戦争」Second Dutch War期(1665年~1667年)に限定して,(1)イングランド議会における予算の審議過程,及び(2)そのような審議過程を経て制定されたいわゆる「援助金及び議定費」法 Act of 'aids and supplies' において初めて導入されてくる4) 「借入及び割当条項」の内容を具体的に明らかにすることにしたい。