著者
藤井 幸司
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.129-141, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
8

大日山35号墳は和歌山県北部の紀ノ川下流域左岸に位置し,岩橋山塊上に展開する国特別史跡岩橋千塚古墳群内に所在する。古墳群内では,その規模・立地から盟主的古墳のうちの一基として従来から評価されてきた。古墳は,史跡指定地として保護される一方,関西大学作成の墳丘測量図・石室実測図と表採される埴輪片などの資料のみで充分な蓄積がなく,その実態は不明であった。和歌山県では,古墳群の保存と活用を目的として,平成15年度から特別史跡岩橋千塚古墳群保存修理事業を開始し,その事業の一環として大日山35号墳の発掘調査が実施された。その結果,内部主体や外表施設の構成,規模,形態などについて様々な成果を得ることができた。とりわけ,東西くびれ部に造出が付設されることが判明し,そのうち調査を実施した東造出では,円筒埴輪列により囲繞された範囲に,多数の埴輪や須恵器が樹立ないしは据付られていたことが判明した。平成16年度に行われた出土遺物整理により形象埴輪には家・蓋・大刀・人物・鳥・馬などが,須恵器には甕・高坏・器台などが存在することが判明した。このうち形象埴輪中には,滑空する姿態を表現した鳥形埴輪,鶴の可能性が高い嘴の長い鳥形埴輪,短冊形水平板を備える馬形埴輪の障泥,棟持柱をもつ家形埴輪寄棟部などが認められ,西日本ではその類例は著しく限られるだけでなく,滑空姿態の鳥形埴輪はこれまで出土例はない表現で,非常に珍しい埴輪と考えられる。墳丘は3段構成であることが調査により判明したが,それを墳丘3段築成とみなすのか,最下段を墳丘の付帯施設(「基壇」)とみなすのかは,結論をみていない。現段階では今後の調査に期待する点も多々あるが,今回は後者の意見について私論を展開した。岩橋千塚古墳群内の同時期の古墳や近年調査が進展している今城塚古墳との比較検討を通じて,私論の妥当性を主張し,そこから派生する問題についても一部言及した。大日山35号墳は,6世紀前半に築造された岩橋千塚古墳群内で最大の可能性がある前方後円墳であり,造出に樹立された埴輪群は西日本でも有数の質・量を兼ね備えるものである。今後,調査および出土遺物の整理が進展し,大日山35号墳の実態がより明らかになれば,より一層古墳における祭祀や地域史などの多数の研究に大きく寄与することが出来るであろう。
著者
花谷 浩 宮原 晋一 相原 嘉之 玉田 芳英 村上 隆
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.23, pp.105-114, 2007-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
5

奈良県明日香村にあるキトラ古墳は,高松塚と並ぶ大陸的な壁画古墳であり,慎重な調査と保護が進められてきた。壁画は剥離が進んでおり,石室内で現状保存することは不可能で,取り外しで保存処置を行うこととなった。その前段階の作業を兼ねて2004年に石室内の発掘を行い,石室構造の細部が判明し,最先端の技術を用いた豪華な副葬品が出土する等,多くの成果を上げた。墳丘は版築による二段築成の円墳で,石室の南側には墳丘を開削した墓道が付く。墓道床面に,閉塞石を搬入する時に使用した丸太を敷設したコロのレール痕跡(道板痕跡)を確認した。石室は,二上山産の溶結凝灰岩製の分厚い切石材を組み合わせて構築する。石材には朱の割付線が残っており,精巧な加工方法が推測できる。石室の内面は,閉塞石以外を組み立てたのち,目地を埋め,さらに全面に漆喰を塗り,壁画を描く。石室内の調査は,空調施設等を完備した仮設覆屋内で,壁画の保護に万全の措置をした上で発掘をした。石室内には,盗掘時に破壊された漆塗り木棺の漆片堆積層が一面に広がる。遺物は原位置に残らないと判断され,堆積層をブロックに切り分け,方位と位置を記録し,コンテナにそのまま入れて石室外に搬出した。出土遺物には,金銅製鐶座金具や銅製六花形釘隠といった木棺の金具,琥珀玉等の玉類,銀装大刀,鉄製刀装具,人骨および歯牙などがある。木棺の飾金具は高松塚古墳のものとは意匠に違いがある。また,象嵌のある刀装具は類例がなく,その象嵌技術も注目される。歯牙は咬耗の度合いが著しく,骨と歯は熟年ないしそれ以上の年齢の男性1体分と鑑定された。壁画は,歪みがきわめて少ない合成画像であるフォトマップ作成を行った。これは実測図に代わりえる高精度なものである。また,壁画取り外し作業の過程で十二支午像の壁画を確認した。墓道と石室の基本的なありかたは,他の終末期古墳とほほ同じである。コロのレール痕跡は高松塚古墳や石のカラト古墳にもあり,石室の石積みはマルコ山古墳に似るが相違点もある。底石の石室床面部分は周囲より一段高く削り出しており,石のカラト古墳と類似することがわかった。
著者
中園 聡
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.87-101, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
36

縄文文化から弥生文化への社会・文化の変化については,在来の「縄文人」による内的な変化と考えるのか,それとも「渡来人」の関与を積極的に評価するのか,という「主体性論議」がしばしば取り上げられている。しかしながら,変化の局面においていかにあったのかという状況の把握がまずは的確に行われるべきで,そこから高次の解釈へ向かう理論的・方法論的枠組みを確立することが目下の急務である。そこで,まず集団と物質文化の関係が問題になるが,重視すべきは,従来の考古学的痕跡自体を擬人化するような,行為者が不在あるいは希薄な議論から抜け出ることである。本論は,九州西北部における弥生時代成立期の壺形土器を対象として,製作者と製品の間の関係についていかにあったかという問に対する,より満足のいく答を得る方向性を見いだそうとするものである。属性分析・多変量解析による型式分類と編年をしたうえで,地域的変異の抽出を行なう。小型壺において,より朝鮮半島と類似した玄界灘沿岸(エリアI)とそれをとりまく地域(エリアII)が認識された。また,縄文時代晩期以来の「形態パターン」と「形態生成構造」を抽出し,それに着目することによって,大型壺の生成にあたって伝統的な形態生成構造が変容しつつも存続していたことが指摘できる。さらに,ハビトゥス,モーターハビットなど,土器を製作し情報を伝達・受容した個人の認知構造と行為に関する概念的整備を行った。九州の小型壺は朝鮮半島のものと比べて頸部の研磨方向に差異がある。これは晩期以来の精製器種の研磨方向に一致しており,既存のモーターハビットによって行われたものとみられる。そこで,九州での壺の製作者の大半は,伝統的な縄文土器製作技術に連なる技術を習得していた者達であったということがいえる。先行する土器の変化も検討したが,晩期前半から玄界灘沿岸を中心にして徐々に変化が始まっており,それらは必ずしも渡来人の関与を考える必要はない性格のものであった。壺形土器の分析から,弥生文化への変化の主な担い手が「縄文人」とされる人々であったということが示された。弥生文化の形成は,朝鮮半島の文化に対する強い志向性の形成も含めて,「縄文人」が過去の経験の統合体である自らの認知構造に根ざした対応の結果であるととらえることができる。
著者
豆谷 和之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.107-116, 2000-10-04 (Released:2009-02-16)
参考文献数
2

唐古・鍵遺跡は,奈良盆地のほぼ中央,奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の代表的な環濠集落である。多重に巡る環濠は東西,南北ともに長さ約600mにおよぶ。遺跡の占有面積が,約30万m2の日本最大級の弥生集落である。1999年1月27日には,国史跡に指定された。発掘調査は,1936年の第1次から今日の第78次におよぶ。特に第1次は,唐古池の池底より多数の木製農耕具が出土し,弥生時代が初期農耕文化であることを証明した学史的に名高い調査である。今回報告する第74次調査は,遺跡を東西に分断する国道24号線の西側,鍵集落内で1999年7月14日から同年12月25日まで,田原本町教育委員会が実施した。遺物包含層は認められず,同一検出面で弥生時代前期から庄内期,中世および近世の遺構を検出した。唐古・鍵遺跡内部としては遺構の分布密度が低い。柱穴は少なく,木器貯蔵穴や井戸といった大型の土坑が遺構の大半を占める。このなかで,特筆されるのが大型掘立柱建物である。南北棟で独立棟持柱をもち,梁行2間(7.0m),桁行5間以上(11.4m以上)の規模である。また,掘立柱建物の内部となる中央棟通りにも柱穴があることから,総柱型になると考えられる。残存する柱根の直径は約60cmであった。柱底面と柱穴底には間があり,木片層あるいは棒材が敷き詰められていた。木片には加工痕があり,木柱加工時のチップを利用したものと考えられる。この大型掘立柱建物の年代は,遺構の切り合い関係や出土土器から,弥生時代中期初頭に位置づけられる。その年代は,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物としても総柱型としても最も古いものである。弥生時代中期初頭の唐古・鍵遺跡は,大環濠を巡らす以前で,北・南・西の三居住区に分かれていたと想定されている。第74次調査地は,その西地区の中央付近にあたる。西地区は,遺跡内でも比較的古い前期弥生土器が遺構に伴って見つかっており,いち早く集住が進んだ地区と考えられている。おそらく,大環濠成立以前の唐古・鍵遺跡における中枢的役割をもっていたのだろう。その西地区中央部で,大環濠成立以前の大型掘立柱建物が検出されたことは意義深い。
著者
名久井 文明
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.22, pp.71-93, 2006-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
105

縄紋時代以降の遺跡から発見されるトチの「種皮付き子葉」や「剥き身子葉」、および種皮の細、大破片は、当時のトチ利用の実態を理解するための手掛かりが民俗例の中に求められることを示している。民俗例のトチの「あく抜き」方式と,そのために前処理されるトチの態様との間に認められる対応関係に基づくと,遺跡から発掘されるトチ種皮の細片は,トチ利用者が「発酵系」「水晒し系」「はな(澱粉)取り系」の「あく抜き」方式で「あく」を抜いていたことを窺わせる。各方式に用いられる容器の物理的特性に着目すると,「煮る」ことを必要としない各「あく抜き」方式は旧石器時代に開発されていたと推察される。
著者
太田 宏明
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.22, pp.127-145, 2006-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
73

本稿は,物資や情報が分配される状況を分析することで,古墳時代後期における畿内政権と地域社会の関係を明らかにすることを目的としている。このために,古墳時代後期の畿内政権が管理と流通を掌握していた可能性が指摘されている金銅装馬具と畿内型石室構築技術を採り上げ,分析を行なった。資料を分析する際には,まず物資と情報の送り手である政権を構成した支配者層の墳墓を採り上げた。そして,支配者層の墳墓で採用された金銅装馬具や畿内型石室が一定の期間をおいて新しい意匠や構造に変化している点に注目した。意匠と構造の変化を把握することで,各時期において支配者層が標準的に採用している金銅装馬具と畿内型石室を抽出した。その後,物資や情報の受け手である地域首長層や群集墳被葬者層の墳墓から出土した金銅装馬具と埋葬施設の変化を整理して,支配者層でみられた状況と相互比較した。比較の結果,支配者層で標準的に採用されているものと同時期に,同意匠・同構造の金銅装馬具と埋葬施設を保有できた古墳の被葬者は,中央の物資や情報を円滑な流通のもと入手できる立場にいた人物と評価した。そして,このような古墳が,地理的・階層的にどのような勾配をもって分布しているのか検討を行なった。そして,このような古墳が密に分布する地域は,畿内政権と強く紐帯していた地域として評価した。
著者
斎藤 義弘
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.147-155, 2001-10-06 (Released:2009-02-16)
参考文献数
3

宮畑遺跡は,古くより縄文土器の散布地として知られていた遺跡であるが,1997年度に実施した福島工業団地造成に伴う発掘調査で,柱痕の直径が約90cmを測る縄文時代晩期の掘立柱建物跡や数多くの縄文時代中期の焼失住居跡が発見された。1998~2000年度に福島市教育委員会が実施した確認調査で,縄文時代晩期の掘立柱建物跡と埋甕で構成される集落に加え,縄文時代後期及び中期の集落跡がほぼ同じ区域に存在することが明らかになり,各時期の捨て場も集落の西端に形成されていることが確認された。縄文時代晩期の集落は,大洞BC式から大洞C2式を中心とし,掘立柱建物跡が環状に巡り,その外側に埋甕群が伴う。掘立柱建物跡は建て替えが行われ,掘形は1m以上を越える深いものが多い。竪穴住居跡は掘立柱建物跡に比べて少なく,墓坑の位置は確認されていない。縄文時代後期の集落は,後期前葉から後期後葉まで確認されているが,後期後葉の集落様相は現時点では明確でない。縄文時代後期前葉には敷石住居跡を伴う集落が形成され,竪穴住居跡及び土坑群が遺跡の南半で確認されているが,配石墓は確認されていない。縄文時代後期中葉には,後期前葉より広い範囲に集落が展開しており,墓坑の可能性がある土坑が竪穴住居跡に近接して確認されている。縄文時代中期の集落構成は明確につかめていないが,大木9式~10式の竪穴住居跡が確認されている。竪穴住居跡に占める焼失住居跡の比率が高く,焼失は廃屋儀礼等の当時の風習に起因する可能性が高い。焼土と炭化材の検出状況から,屋根構造は土屋根であったと考えられるが,焼土がブロックで厚く堆積するなど,これまでの調査で報告されている焼失住居跡とは異なる燃焼状況があったと考えられる。宮畑遺跡は,縄文時代晩期の集落形態や縄文時代後期前葉における敷石住居跡の受容,それに縄文時代中期の竪穴住居の構造と風習など,縄文時代の社会構造を考える上で貴重な情報をもたらす遺跡であるといえる。