- 著者
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中園 聡
- 出版者
- 一般社団法人 日本考古学協会
- 雑誌
- 日本考古学 (ISSN:13408488)
- 巻号頁・発行日
- vol.1, no.1, pp.87-101, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
- 参考文献数
- 36
縄文文化から弥生文化への社会・文化の変化については,在来の「縄文人」による内的な変化と考えるのか,それとも「渡来人」の関与を積極的に評価するのか,という「主体性論議」がしばしば取り上げられている。しかしながら,変化の局面においていかにあったのかという状況の把握がまずは的確に行われるべきで,そこから高次の解釈へ向かう理論的・方法論的枠組みを確立することが目下の急務である。そこで,まず集団と物質文化の関係が問題になるが,重視すべきは,従来の考古学的痕跡自体を擬人化するような,行為者が不在あるいは希薄な議論から抜け出ることである。本論は,九州西北部における弥生時代成立期の壺形土器を対象として,製作者と製品の間の関係についていかにあったかという問に対する,より満足のいく答を得る方向性を見いだそうとするものである。属性分析・多変量解析による型式分類と編年をしたうえで,地域的変異の抽出を行なう。小型壺において,より朝鮮半島と類似した玄界灘沿岸(エリアI)とそれをとりまく地域(エリアII)が認識された。また,縄文時代晩期以来の「形態パターン」と「形態生成構造」を抽出し,それに着目することによって,大型壺の生成にあたって伝統的な形態生成構造が変容しつつも存続していたことが指摘できる。さらに,ハビトゥス,モーターハビットなど,土器を製作し情報を伝達・受容した個人の認知構造と行為に関する概念的整備を行った。九州の小型壺は朝鮮半島のものと比べて頸部の研磨方向に差異がある。これは晩期以来の精製器種の研磨方向に一致しており,既存のモーターハビットによって行われたものとみられる。そこで,九州での壺の製作者の大半は,伝統的な縄文土器製作技術に連なる技術を習得していた者達であったということがいえる。先行する土器の変化も検討したが,晩期前半から玄界灘沿岸を中心にして徐々に変化が始まっており,それらは必ずしも渡来人の関与を考える必要はない性格のものであった。壺形土器の分析から,弥生文化への変化の主な担い手が「縄文人」とされる人々であったということが示された。弥生文化の形成は,朝鮮半島の文化に対する強い志向性の形成も含めて,「縄文人」が過去の経験の統合体である自らの認知構造に根ざした対応の結果であるととらえることができる。