著者
大石 侑香
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.304-330, 2017-12-31

本稿は、西シベリア・タイガ地帯に居住するハンティという民族集団の防寒機能以外の毛皮の選択理由を明らかにするために、毛皮衣服の装いに関する物質文化と精神文化の両面を描くことを目的とする。毛皮は人間の衣服素材として防寒機能に優れており、それを理由に北方民族らが毛皮を着用していると考えられてきた。しかし、西シベリアでは工場製の防寒着にとってかわらずに未だ毛皮衣服が選ばれている。人間が生きている他の動物を殺しその皮を剥いで着用するということには何らかの精神性が働いているとみなし、とくに動物の毛皮への審美性や神聖性に着目し、以下の三つの課題に関して、現地調査データをもとに具体例をあげながら考察していく:1. 生業複合と世帯内分業の事例をあげ、自然環境を最大限利用した生業活動の上に現在の毛皮衣服文化が成り立っていることを確認する、2. 毛質・毛色の多様な家畜トナカイの毛皮利用の事例をあげ、トナカイ毛皮に対する審美および毛皮になったトナカイと人との関係を明らかにする、3. 動物観と毛皮衣服に対する価値観の差異と一致を明らかにする。結果として以下の三点が確認できた。ひとつ目に、生業活動と世帯内分業、地域的な毛皮の交換関係の中に毛皮衣服の作成活動が埋め込まれた形で行われていることが毛皮衣服着用の理由のひとつとなっていることを確認した。二つ目に、トナカイ毛皮衣服においては天然/人工の模様が際立つような強い白色と黒暗色のコントラストに審美性を見出していることが分かった。三つ目に、特定の動物の神聖性は毛皮になった後も連続していることを確認した。神聖であるが毛皮を利用したいという矛盾を緩和するように、特別神聖なクマやネコ、イヌの毛皮については、一部あるいは全部の利用を禁じて他の大部分の利用を許すという思考方法があった。This paper examines the reason why Northern Khanty, who live in the Taiga area of Western Siberia, actively choose to wear fur even when its not for the function of protection against the cold, based on the author's fieldwork data. There are many ethnographical studies about fur clothes of the Khanty, but they focus on the classification of ornaments of the clothes or the techniques of sawing and have not really discussed the mentality and sensibility in which people peal the pelt of animals and put the fur on their body. This paper also considers the differences in attitudes of how to dress and deal with the furs of several animals which were obtained in hunting and breeding, and what it means in their life-world. First, it situates fur-use within subsistence complex and gender division of work. Second, it shows the aesthetics of reindeer fur and relationships between individuals and their individual reindeer furs. Third, it considers the differences and consistencies among senses of value and behaviors toward particular sacred animals and their furs. As a result, the following three points have been ascertained as three reasons to choose fur, which are not for the function of protection. One is that the making and using of fur clothes are embedded in their subsistence complex, gender division of work, and local exchanges of furs. The second reason is that they find an aesthetics in the strong contrast of white color and dark color to accent the natural and artificial ornaments in reindeer fur clothes. The third reason is that animals continue to be sacred even after the animal has died and been used for its fur, and there is a method of thinking to ease the contradiction of wanting to use fur even though it is sacred in which particular sacred furs can be used when some parts of them are forbidden to be used.
著者
安 姍姍
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.134-158, 2015-03-31

中国では、出産後の一定期間「坐月子(ズオユエズ)」という産後の養生期間が伝統的に設けられ、食べ物や行動のタブーが定められている。本論文では、中国山西省の都市部の褥婦15 人に聞き取り調査を行い、女性達が「坐月子」の期間に経験する葛藤に焦点を当てた。その結果、次の7 点が明らかとなった。(1) 都市部では「坐月子」を過ごす場所は自宅や姑の家のこともあれば、家以外の施設(私立病院、産後養生ケアセンター)の場合もある。現在では、世話をするのは姑をはじめとする夫方の女性親族から、職業としての家政婦等のプロに移る傾向がある。(2) 女性はさまざまな行動上の制約を課せられる「坐月子」に不満を持っているが、養生を中心とする中医(中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学)の理論を完全に否定することができない。(3)「 坐月子」等の産後に段階的に行われる儀礼は、褥婦の身体の回復のためだけでなく、地位・役割の転換や家族関係の再調整をもたらす通過儀礼の特徴を備えている。(4)「 坐月子」においては、姑が褥婦の世話をするものとされていたが、女性達は実際には、実母や月嫂の援助を期待していた。(5) 都市部の女性は、伝統に束縛される受け身の立場から、近代・科学の力を使い、身体管理を積極的、能動的に行う主体へと変化しつつある。(6) 女性達は姑の世話を受ける伝統的な「坐月子」を好まないにもかかわらず、姑との関係を確立するために、家族、特に姑の意見に従っていた。(7) 医療化された出産は女性達に伝統的な過ごし方ではなく、より近代的な過ごし方を選ばせるようになっている。 以上のことから、中国の都市部の女性達は、近代医学の力を借りて主体性を確立すると同時に、伝統的な「坐月子」を通じて家族関係を強化したいと考えていると言えよう。
著者
椿原 敦子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.83-108, 2015-03-31

2009 年の第10 期イラン大統領選挙に端を発するイラン各地での抗議行動の様子は市民によって撮影され、インターネット上で配信された。ソーシャルメディアによる情報発信という社会運動の新しいあり方に国際的な注目が集まったイランでの抗議行動は、「緑の運動」と呼ばれる。この運動はイラン国内のみならず、国外在住のイラン人をも巻き込んでいった。例えば、ロサンゼルスの人々は次の形で関与を続けた。第一に、サイバースペースでの情報の中継や加工、第二に、衛星TV 放送によるイランの視聴者への働きかけ、そして第三にローカルな場での抗議集会の継続である。 これまでディアスポラ集団の社会運動を扱った研究は、故国の人々に及ぼす影響に主な焦点を当ててきた。これに対して本論で着目するのは、ディアスポラ集団のトランスナショナルな運動が特定の場において新しい文脈を与えられ、ローカル化される過程である。これによって、故国の社会運動を取り巻くグローバルなアクターという中心-周縁という構図を脱した両者の相互作用を捉えることを試みる。技術に媒介された言説空間で流通する「緑の運動」の情報は、複製・加工され、日常生活へと持ち込まれることでロサンゼルスのイラン人たちを「共感 = 代理の政治」へと動員した。デモの参加者たちの多くは、予め持っていた主張や要求の達成のために運動に関わるのではなく、むしろデモの場での連帯と対立の実践を通じて民主化などの抽象的概念を解釈し、運動への関与を続けたことが明らかになった。
著者
左地 亮子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.34-71, 2017-12-31

ジプシーは、歴史や過去に関心をもたない、ないしはそれらを忘却すると、しばしば指摘されてきた。それは、これまで彼らの多くが共同体の起源や歴史的な迫害といった過去の出来事を、公的な語りや記念追悼行為を通して共同想起してこなかったためである。しかし本稿では、こうした指摘が、人の記憶を「想起か忘却か」という問いのもとで論じてきた限定的な議論の枠組みに由来すると考え、そこで看過される記憶の領域として、明示的で集合的な想起と表象の実践に回収されるのでも、単純に忘却へと向かうのでもないジプシーの記憶行為を考察する。事例とするのは、2015年5月に南仏カマルグ地方の町で開催されたジプシー巡礼祭、及びその期間中に同町と近村で開催された、第二次世界大戦期ジプシー強制収容をめぐる追悼イベントでの出来事である。ここでは、ジプシー巡礼祭というジプシーと非ジプシーの融合を物語る祝祭の場に隔離の記憶が挿入されたが、その過去のコメモレーションに対する一般のジプシーの反応は無関心ともいえるものであった。本稿では、こうした共同想起を欠くジプシーの過去への態度を、他者の代表=代理の物語りの回避を目指す記憶行為として捉え直したうえで、過ぎ去らない過去を「持続する現在」の中で感受しながら生きる人々の時間の経験を明らかにする。During the week preceding May 24, 2015, thousands of European Gypsies gathered in the small Camargue town of Saintes-Maries-de-la-Mer for the annual pilgrimage in honour of Saint Sara, known as the Patron of Gypsies. In that same week, the commemoration ceremony for the victims of French internment camps in WWII was held in the village of Saliers, a 20-minute drive from the pilgrimage town. It was an attempt to join two apparently different memories, the history of symbiosis between Gypsies and non-Gypsies, and the history of the segregation of Gypsies from non-Gypsy society. However, this commemoration practice did not attract any attention from a large number of Gypsies joining in the pilgrimage festivities. Because of such attitudes towards remembering, Gypsies have been referred to as a people who are not interested in the past or forget it. In this article, we examine the practice and attitudes of Gypsies towards the past from the viewpoint of ecological psychology discussing the distinction between perceiving and remembering. The aim is to point out limitations of the view, based on the alternative premise that if people don't remember the past, then they forget it. By describing experiences of French Gypsy pilgrims who see the festive town as a space of segregation, division, and exclusion, we show why Gypsies don't need to remember the past and how they live it, as it is a time that has not yet passed and is in their persistent present.
著者
川本 直美
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.142-172, 2017-12-31

本稿の目的は、現代メキシコ西部村落におけるカトリック教会と村落共同体の関係について、カトリック聖像をめぐる人々の実践を事例に、今日的な共同体の姿を描き出すことで、その多面性を明らかにすることである。中米における共同体研究や祭礼研究で対象とされてきたものに、多くの先住民共同体でその基礎をなすといわれる行政的及び宗教的な社会組織がある。研究者は、従来それを「カルゴ・システム」と呼んで研究対象としてきた。そこでは主に「閉じられた」共同体を前提とし、カルゴ・システムがいかに共同体のなかで機能しているか、もしくはカルゴ・システムを通じて共同体と外部世界がどのような関係にあるかといった点から論じられてきた。そしてそこでの教会と共同体の関係については、それぞれを一つの存在として捉え、検討する傾向にあった。本稿で論じる事例では、人々は祭礼組織の役職を担う権利を、時には地縁的にも血縁的にもつながりのない村外の人にも開放することで、カルゴ・システムを通じて村外まで広がるネットワークを構築している。さらにこの村落共同体では、ある1体の聖像の安置場所と管理方法をめぐって一部住民がカトリック司祭と問題を抱え、教会とは対立する。その一方でそれ以外の聖像の祭礼などでは教会と協力関係にあるといった、教会に対する両義的な態度もみせる。村にある複数の聖像とその祭礼組織を中心として、人々は祭礼の都度立ち上がる共同性によってグループを組み替え、あらたに構築し、それぞれが教会との関係を多面的に結んでいる。同様に、本来同一の存在であるはずの聖人をあらわす聖像が、人々の状況や関係によってその聖像ごとに異なる接し方をされるということも明らかになった。この不安定な共同体のあり方こそが、逆説的に教会と住民が聖像をめぐって問題を抱えたとしても、安定的に共同体レベルの祭礼を維持することを可能にしているといえる。The aim of this study is to investigate the relationship between people and the Catholic Church in a current rural village of Mexico, focusing on local politics over the care and custody of the child Jesus image. It has been shown that Central America has a civil-religious system that forms the basis of indigenous communities; Researchers have explored this by calling it a "cargo system." In preexisting research about cargo systems, these communities have been assumed to be closed, and discussion has been based on the points of how the cargo system functions within the community, or rather what kind of relationship the community has with the outside world through the cargo system. Regarding the relationship between the community and the church through this system, the two have been described one-sidedly, as exclusive identities which relationship is either conflictive or coexisting. This paper points out villagers construct a network of worshippers of the child Jesus image that extends outside of the village by allowing outsiders to also take charge of festivals. Although villagers continue the worship of the child Jesus image without the parish priest, they cooperate with him in other saint's festivals at the same time. It is namely their ambiguous attitude toward the institution. This paper indicates that the people newly organize their group based on the community that comes together on each individual occasion of the festival centered on their faith of each saint. In doing so, it also demonstrates the multifaceted relationship between the people and the Church. Likewise, this papar clarifies the pluralism of the child Jesus image which presumably represent the same being for everyone involved. Although villagers have a problem with the Church over an image, the instability of these religious groups makes it possible for them to maintain the community's religious festivals stably.
著者
瀬戸 徐 映里奈
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.198-223, 2017-12-31

本稿は、在日ベトナム人の耕作放棄地を利用した自給菜園に着目する。兵庫県姫路市では、ベトナム難民の受け入れ施設が設置されたことを契機に、1970年代末からベトナム人の集住化がはじまった。同市において、都市化のなかで取り残された農地を利用したベトナム人の菜園が少数ながら散見されるようになった。高齢化や担い手不足のなかで耕作放棄地が増加しているが、かつての村落を単位とした農地管理が細々と継続されている。本稿の目的は、このような農地をめぐる地域社会の状況をふまえつつ、ベトナム人の生活における菜園の必要性と耕作放棄地の利用に至るまでの所有者との交渉過程を明らかにすることである。さらに、菜園の利用実態を通して、ベトナム人同士、他の地域住民との間に創出される多元的な社会空間を描き出したい。ベトナム人が菜園を必要とした主な理由は、一般市場での購入が難しい南国野菜や香草を調達することであった。タネや苗をホームセンターで購入できるようになるとプランターや公営住宅の公共地を利用して栽培する人びとが現れる。しかし、小さな土地では栽培できる品目も量も限られていた。また公共地での栽培は、周辺住民からの理解を得られず、中止を求められることもあった。こうしたなか、就労現場、教育現場、自治会を通して農地所有者と出会い、農地利用の承諾を得る人びとが現れる。自給菜園の設置は、ベトナム人にとって食材生産の場だけではなく、憩いの場としても活用されており、特に就職先のないベトナム人高齢者や一時滞在者の「しごとづくり」の場にもなっていた。さらに、農地所有者以外にも、他の地域住民と収穫物のやりとりなどを通した新たな社会関係を創出していることも明らかになった。ベトナム人の農地を利用した菜園は、都市近郊の耕作放棄地が増加する田畑の風景に南国野菜による新たな彩りを加え、その設置に必要な農地の共同管理や収穫野菜のやりとりなどを通して、新たな社会空間を創造していたのである。This study describes how Vietnamese residents have created new social spaces through vegetable gardening on abandoned farmland in Himeji City, Hyogo Prefecture, Japan. Many Vietnamese have resettled in Himeji City consequent to a facility's establishment for accommodating Indochinese refugees after the Vietnam War. In the late 2000s, some Vietnamese residents created vegetable gardens using farmlands abandoned in the wake of the city's urbanization. Nowadays, because of a shortage of farmers due to aging and lack of successors, Japan has many abandoned farmlands. The farmlands that Vietnamese residents utilize are also abandoned ones that owners could not manage. This study clarifies the necessity of vegetable gardens in the Vietnamese residents' lives and the process of negotiations with farmland owners for borrowing the land. The study also depicts pluralistic relationships and social spaces formed among Vietnamese and other residents through gardening. Vegetable gardens are utilized not only for food production, but also for recreation and a means of livelihood for the Vietnamese, particularly elderly and temporary residents, who have no other way of earning a living. Furthermore, residents also forge new relationships by exchanging harvests with other residents. Vietnamese and other residents have developed understanding of one another by comparing their food habits. Besides, some grow funeral flowers in their gardens, that is, gardens serve as a connection with their religious faith. Additionally, their kitchen gardens also function as places for intergenerational dialogues and succession of food knowledge in Vietnamese households. Vietnamese residents' gardens in former farmlands have created a unique landscape in Japanese suburban areas and fostered new relationships between the Vietnamese and other residents.
著者
加藤 敦典
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2015, pp.61-75, 2016-03-31

本論では、ベトナムにおける裁判外紛争処理制度(ADR、Alternative Dispute Resolution)である和解組(To Hoa Giai)による調停の基盤となる、公的言説としての モラリティについて考える。和解組の実践を支えているのは、国家、地方行政、一般 住民のあいだで共有される訴訟忌避規範、内済規範、あるいは、むらのなかでの騒擾を罪悪視する規範である。公的領域においては、国家や宗教的権威に代表される制度 的モラリティがストレートに統制力を発揮することは希である。それとともに、日常的な生活態度に埋め込まれたモラリティも、多くの場合、独力では公共的な表現のかたちをもつことができない。そのようなとき、日常的な生活態度に埋め込まれたモラ リティは、制度的モラリティを仮借することによって、公的領域での討議にも耐えう る体系的なモラリティであるかのような体裁で語られる場合がある。本論では、こういったモラリティの生成を制度的モラリティと公的言説としてのモラリティの相互交 渉がもたらす効果として考える。その際、本論では東アジア的脈絡においてこの問題にアプローチした先駆的なモデルとして「生ける法」(末弘嚴太郎)と「通俗道徳」(安丸良夫)のアイデアを援用しながら制度的モラリティと公的言説としてのモラリティ の相互交渉の局面についての分析枠組みを提示する。そのうえで、ベトナムの村落での紛争処理に際して実施される「集団」(tap the)に対する謝罪という慣行の分析を通 して、このモデルの有効性を検証していく。This essay examines the moral basis of the Reconciliation Service (To Hoa Giai ), the community mediation system in Vietnam. The system is supported by the norms of litigation avoidance and private settlement, as well as norms that regard creating disturbances in a village community as a public offence, which are widely shared throughout the state and local cadres and among ordinary people. In the "public" realm of reconciliation, institutional morality of the state or religious organizations seldom provides straightforward guidance, while it is also difficult for the embodied morality of everyday practice to govern such matters independently. Usually, people borrow from the vocabularies of institutional morality to express their morality of everyday life, implying that this system of norms can withstand scrutiny in public debates. Drawing on the ideas of "living law" (Izutaro Suehiro) and "popularized morality" (Yoshio Yasumaru) as pioneering works that approach these issues in the East Asian context, this essay describes these norms as morality in public discourse ̶ the effects of dialogues between institutional morality and embodied morality, . This essay also analyzes the custom of apologizing to the "collective" (tap the ) in the process of reconciliation in a Vietnamese village to demonstrate the above analytical framework.
著者
津村 文彦
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.167-191, 2015-03-31

呪術がいかにしてリアリティを獲得するかを考える際に、呪術の効果をめぐる議論は避けて通れない。特に治療に関する呪術は、苦痛や不調を抱える病者の身体に直接働きかけるため、その効果が議論の対象になりやすい。たとえば医療人類学での「疾患(disease)」と「病い(sickness)」という有名な区分は、生物医学は「疾患」を対象とし、呪術などの伝統医療は「病い」に対処するもので、呪術には生理学的な効果は認められないという前提のもとに成立している。しかし、呪術が心理面に作用し、生物医学は身体に作用するという「効果」の想定は適切なものであろうか。現在も継続している呪術的な伝統医療について、「信じるからこそ効く」と説明するだけでは呪術のリアリティを十分に考察したとはいえない。いかにしてそれが「効く」と捉えられるのかを考察する必要があるだろう。 本論文では、東北タイの二種の民間医療師を俎上に載せる。一つは、近代科学の象徴たる「注射」を駆使しながらも、〈非科学的〉な治療を提供してきた「注射医」で、もう一つは近代医学が対処を得意とする毒蛇咬傷などの症例を主たる対象とする「モーパオ」という呪文の吹きかけを行う呪医である。東北タイでは、1960 年代より1980 年代にかけて注射医が治療行為を行っていたが、近隣に病院や保健センターなどができて近代医療へのアクセスが高まったのち、注射医は姿を消した。一方、現在では近代医療を容易に利用することができるにもかかわらず、モーパオのような呪医はなおも活動を行っている。両者の治療行為は対照的に見えるが、治療において直接身体に感受することのできる感覚(痛みと吹きかけ)こそが、治療によってもたらされる「効果」として人びとに受け入れられている点で共通する。こうした治療行為のなかで、病者が受け取る感覚こそが呪術の効果であり、モーパオを存続させている力といえるだろう
著者
越智 郁乃
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.33-55, 2015-03-31

在日米軍施設が集中する沖縄県では、1961 年から2007 年までの間に軍用地利用から返還された土地が12 万ヘクタールにも上る。過密化する今日の沖縄本島中南部では、狭小な土地の有効活用のため返還跡地の開発が進められてきた。大規模商業地として開発が行われた地域では雇用が増大したが、商業偏重の開発とその後の経済や社会の持続可能性については疑義が呈されている。このように評価が分かれる跡地開発に対して、本稿ではかつての軍用地とその周辺地域を「接触領域」と捉え、今日までの特異な社会空間での地域の住民の経験、すなわち琉球王府、日本、米軍統治から日本復帰へというように次々と変わる支配者層および支配文化といかに相対し、いかに交渉してきたのかという長い道のりに注目する。具体的には、軍用跡地開発を経て誕生した那覇市新都心を事例に、そこでの住民の経験として沖縄戦前後、米軍による土地接収後の米軍住宅化やそれに伴う周辺地域での開発が、返還後の大規模再開発にいかなる影響を及ぼしているかということを明らかにし、単なる開発の評価だけではなく、その地に住まう人々にとっての軍用跡地開発の意義について考察する。
著者
津村 文彦
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.167-191, 2015-03-31

呪術がいかにしてリアリティを獲得するかを考える際に、呪術の効果をめぐる議論は避けて通れない。特に治療に関する呪術は、苦痛や不調を抱える病者の身体に直接働きかけるため、その効果が議論の対象になりやすい。たとえば医療人類学での「疾患(disease)」と「病い(sickness)」という有名な区分は、生物医学は「疾患」を対象とし、呪術などの伝統医療は「病い」に対処するもので、呪術には生理学的な効果は認められないという前提のもとに成立している。しかし、呪術が心理面に作用し、生物医学は身体に作用するという「効果」の想定は適切なものであろうか。現在も継続している呪術的な伝統医療について、「信じるからこそ効く」と説明するだけでは呪術のリアリティを十分に考察したとはいえない。いかにしてそれが「効く」と捉えられるのかを考察する必要があるだろう。 本論文では、東北タイの二種の民間医療師を俎上に載せる。一つは、近代科学の象徴たる「注射」を駆使しながらも、〈非科学的〉な治療を提供してきた「注射医」で、もう一つは近代医学が対処を得意とする毒蛇咬傷などの症例を主たる対象とする「モーパオ」という呪文の吹きかけを行う呪医である。東北タイでは、1960 年代より1980 年代にかけて注射医が治療行為を行っていたが、近隣に病院や保健センターなどができて近代医療へのアクセスが高まったのち、注射医は姿を消した。一方、現在では近代医療を容易に利用することができるにもかかわらず、モーパオのような呪医はなおも活動を行っている。両者の治療行為は対照的に見えるが、治療において直接身体に感受することのできる感覚(痛みと吹きかけ)こそが、治療によってもたらされる「効果」として人びとに受け入れられている点で共通する。こうした治療行為のなかで、病者が受け取る感覚こそが呪術の効果であり、モーパオを存続させている力といえるだろう
著者
飯田 淳子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.192-210, 2015-03-31

本稿では、北タイの農村、病院、学校における語りと実践を検討することを通じ、呪術の効果の多様な指標の影響関係において、感覚的経験がどのような役割を果たすのかを考察する。感覚的経験は、病因とされる「毒」の可視化などを通じ、呪術の効果に説得力を与える。一方、不可視なものは不確定であるだけに、何らかの出来事を通じて恐怖感を顕在化させることもある。科学的知識の体現者であるはずの医療従事者や教師たちは、科学的にその意義を説明できる限りにおいて呪術を容認する言説を紡ぎ出す。しかしそれとは裏腹に、彼らは科学で説明できないにもかかわらず、何らかの事象に対し呪術を疑い、それに対処しようとすることがある。例えば医師はレントゲン写真に写ったものを呪術によるものではないかと疑い、教師は精霊憑依を目撃した、あるいは誰もいないはずの理科室で足音を聞いたと感じて除霊や慰霊を行う。感覚的経験は、このように言葉と反する行為の基盤にもなっている。各種のメディアも感覚に訴えて村人の知識や治療法の選択に影響を与えており、呪術の効果もそうした社会的文脈の中に位置づけられている。病院医療や学校教育、マスメディアなどの近代的とされる現象を経由することにより、呪術の感覚的経験はむしろ増幅され、その効果は強化された形で人々に認識されている側面があることが明らかになった。