著者
深海 菊絵
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.173-190, 2017-12-31

The objective of this report is to investigate the pluralism and the compatibility among polyamorists, focusing on the gathering of a polyamory group in California and polyamory terms that are used by polyamorists. Polyamory means "responsible non-monogamy". It is best explained with the words: "honesty" , "consensus" and "responsibility". In fact, most studies about polyamory have pointed out that people who are recognized as polyamorist have various backgrounds, and the ways of practicing polyamory are extremely diverse and inconsistent. In this article, I look at polyamory in terms of a "contact zone" where people who have various thoughts and cultural backgrounds are interacting. I examine how polyamorists connect with each other in their contact zone. In order to achieve this purpose, "Cyborg Feminism" which is advocated by Donna Haraway is a key concept. Donna Haraway seeks a way of connecting that is not emphasized by homogeneity in "Cyborg Feminism". Cyborg is a body which holds multiple internal differences. Primarily, looking at the meeting of a polyamory group through the image of a cyborg suggests that polyamory has plural and comprehensive characteristics. Secondly, I examine the polyamory terms. The terms in polyamory are not only a tool of communication, but also a tool of self-accountability, one's relationship and the love they belong to. It implies that the ethical question of "How should I treat myself?" is shared among polyamorists. Polyamory is composed of multiple perspectives, and it is not a group which has only a single value system. There are blank spaces following the question "who are we?". However, the otherness and the blank space which polyamory holds are the possibility of critical self-forming with others.
著者
深海 菊絵
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.173-190, 2017-12-31

The objective of this report is to investigate the pluralism and the compatibility among polyamorists, focusing on the gathering of a polyamory group in California and polyamory terms that are used by polyamorists. Polyamory means "responsible non-monogamy". It is best explained with the words: "honesty" , "consensus" and "responsibility". In fact, most studies about polyamory have pointed out that people who are recognized as polyamorist have various backgrounds, and the ways of practicing polyamory are extremely diverse and inconsistent. In this article, I look at polyamory in terms of a "contact zone" where people who have various thoughts and cultural backgrounds are interacting. I examine how polyamorists connect with each other in their contact zone. In order to achieve this purpose, "Cyborg Feminism" which is advocated by Donna Haraway is a key concept. Donna Haraway seeks a way of connecting that is not emphasized by homogeneity in "Cyborg Feminism". Cyborg is a body which holds multiple internal differences. Primarily, looking at the meeting of a polyamory group through the image of a cyborg suggests that polyamory has plural and comprehensive characteristics. Secondly, I examine the polyamory terms. The terms in polyamory are not only a tool of communication, but also a tool of self-accountability, one's relationship and the love they belong to. It implies that the ethical question of "How should I treat myself?" is shared among polyamorists. Polyamory is composed of multiple perspectives, and it is not a group which has only a single value system. There are blank spaces following the question "who are we?". However, the otherness and the blank space which polyamory holds are the possibility of critical self-forming with others.
著者
越智 郁乃
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.33-55, 2015-03-31

在日米軍施設が集中する沖縄県では、1961 年から2007 年までの間に軍用地利用から返還された土地が12 万ヘクタールにも上る。過密化する今日の沖縄本島中南部では、狭小な土地の有効活用のため返還跡地の開発が進められてきた。大規模商業地として開発が行われた地域では雇用が増大したが、商業偏重の開発とその後の経済や社会の持続可能性については疑義が呈されている。このように評価が分かれる跡地開発に対して、本稿ではかつての軍用地とその周辺地域を「接触領域」と捉え、今日までの特異な社会空間での地域の住民の経験、すなわち琉球王府、日本、米軍統治から日本復帰へというように次々と変わる支配者層および支配文化といかに相対し、いかに交渉してきたのかという長い道のりに注目する。具体的には、軍用跡地開発を経て誕生した那覇市新都心を事例に、そこでの住民の経験として沖縄戦前後、米軍による土地接収後の米軍住宅化やそれに伴う周辺地域での開発が、返還後の大規模再開発にいかなる影響を及ぼしているかということを明らかにし、単なる開発の評価だけではなく、その地に住まう人々にとっての軍用跡地開発の意義について考察する。
著者
井上 淳生
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2018, pp.41-71, 2018-06-30

男女が対になって踊る社交ダンスは、日本に紹介されて以来、踊り手と音楽演奏家によって行われてきた。そこで行われる身体運用や音楽が「社交ダンス専用」として標準化されていく過程で、踊り手と演奏家の関係は変質していく。以前に比べ、踊り手は、音楽に身体を対応させる契機としてカウント(拍節)を重視するようになり、演奏家は社交ダンス音楽として規定されるところの、一定のリズム・パターンの反復性、テンポの不変性を重視した演奏を志向するようになるのである。このように、かつてよりも厳格な基準に規定された身体運用と音楽の対応関係が整備されていく過程は、舞踊と音楽の不可分性が人為的に作られる過程であったと言える。 では、このことを踏まえたうえで、現在の日本の社交ダンスに見られる踊り手と演奏家の次のような関係をどのように理解すればよいのだろうか。なぜ踊り手は演奏家に不満をもらすのか。なぜ演奏家は踊り手に合わせて演奏することにためらいを抱くのか。社交ダンスにおいて身体運用と音楽の関係が緊密になることは、踊り手と演奏家の関係をも緊密にすることにはつながらないのだろうか。踊り手、演奏家の双方にとって、彼(彼女)ら自身が依拠する身体運用あるいは音楽とは何なのだろうか。本稿では、舞踊と音楽の不可分性の観点からこれらの問いを検討する。検討を通して、舞踊と音楽の双方を視野に入れた研究(舞踊=音楽研究)に対して、ジャンルを相対化する視点の意義を提示する。
著者
村川 淳
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.32-61, 2019-08-31

本稿は1980年代初頭の南米ペルー、アンデス地域における身分証明書の普及をめぐるせめぎあいを糸口に、近代国家と先住民の関係の変質に考察を加えるものである。事例地となるのは、ティティカカ湖の湿地内で独自の生活体系を築いてきた先住民ロス・ウロスの浮島である。観光の空間として切り取られることも多いティティカカ湖一帯を、国境地域の国家統合の文脈に据えなおすことが本稿の目的となる。周辺地域に本格的な介入を試みた軍事政権期(1968-1980年)、その後の民政移管期の諸展開に、都市近傍の流動的な圏域から接近することによって、現代アンデス地域をこれまでとは違った角度から照らし出す切り口を提示したい。 分析の軸となるのは、出生登録、軍登録という二種の登録制度とそれへの先住民の呼応である。徴兵制にもとづいた強制連行が横行する湖岸地域、そこでの近代国家との交渉を射程に収めつつ、国家管理の強度の空間的偏差とその縁を生き抜いてきた人びとの移動を広域的な視座から位置づけてゆく。軍事政権期における土地への介入(共同体登録、保護区設立)に傾注する既存の研究が見落としてきた人への介入(国民登録)にも光を当て、湿地帯に送り込まれた民籍登録官が作成した出生登録簿と口述資料との相補的な読解から、人びとが外的制度としての身分証明書の取得に踏み切った局面を見定める。
著者
村川 淳
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.32-61, 2019-08-31

本稿は1980年代初頭の南米ペルー、アンデス地域における身分証明書の普及をめぐるせめぎあいを糸口に、近代国家と先住民の関係の変質に考察を加えるものである。事例地となるのは、ティティカカ湖の湿地内で独自の生活体系を築いてきた先住民ロス・ウロスの浮島である。観光の空間として切り取られることも多いティティカカ湖一帯を、国境地域の国家統合の文脈に据えなおすことが本稿の目的となる。周辺地域に本格的な介入を試みた軍事政権期(1968-1980年)、その後の民政移管期の諸展開に、都市近傍の流動的な圏域から接近することによって、現代アンデス地域をこれまでとは違った角度から照らし出す切り口を提示したい。 分析の軸となるのは、出生登録、軍登録という二種の登録制度とそれへの先住民の呼応である。徴兵制にもとづいた強制連行が横行する湖岸地域、そこでの近代国家との交渉を射程に収めつつ、国家管理の強度の空間的偏差とその縁を生き抜いてきた人びとの移動を広域的な視座から位置づけてゆく。軍事政権期における土地への介入(共同体登録、保護区設立)に傾注する既存の研究が見落としてきた人への介入(国民登録)にも光を当て、湿地帯に送り込まれた民籍登録官が作成した出生登録簿と口述資料との相補的な読解から、人びとが外的制度としての身分証明書の取得に踏み切った局面を見定める。
著者
茶園 敏美
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2013, pp.128-162, 2014-03-31

本論は、占領期の日本をあらゆるひとたちが相互交渉し対処する場を、「コンタクト・ゾーン」としてみる。それはたんに、勝者米国が敗者日本を統治したというだけではなく、日本のおんなたちとGI(米兵)が対等に相互交渉をおこなっているということを明らかにする。とりわけ本論では、1人のGIと関わる、「オンリー」や「オンリー・ワン」と呼ばれていたおんなたちに注目する。具体的には、占領期に京都社会福祉研究所が調査した、26名のおんなたちの口述記録を考察する。彼女たちは、GIと性的な関係を持ったという理由で性病検診を強制的に受けさせられたおんなたちである。彼女たちは「高級街娼」とみなされ、「オンリー・ワン」と分類された。さらに本論では、さまざまなおんなたちがお互いに助け合う可能性についても論じる。とりわけ、占領期に実施された強制的性病検診を受けるために待つ空間であった、病院の待合室に注目する。病院の待合室はGHQや日本政府がおんなたちの間に「分断支配」[Enloe 2000 ; エンロー 2006]を持ち込もうとする空間であるからだ。本来、あらゆる立場を超えておんなたちが、一斉検挙という暴力に対して互いに手を結ぶことができるにもかかわらず、当局側の「分断支配」によって被害を受けているおんなたち同士が互いに反目しあう状況が生み出される。だがコンタクト・ゾーンという視点で彼女たちとGIたちとの関係に注目すると、エンローの「分断支配」も、彼女たちを調査した研究員たちのように一義的な力関係を前提とする分析にすぎないことがわかる。彼女たちは、これまでの既存の枠組みでは分析できないおんなたちである。「規範」のものさしで彼女たちを測ることをやめたとき、彼女たちのことをもっと理解することができるだろう。
著者
石田 智恵
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.7, no.2014, pp.56-82, 2015-03-31

本論文は、1970年代後半アルゼンチンの軍事政権下で反体制派弾圧の方法として生み出された「失踪者」の大量創出という文脈において、日本人移民とその子孫、およびかれらのコミュニティがどのような位置を占めていたか、また「失踪」にいたった日系人たちの政治参加において出自やネイションはいかなる意味を持っていたのかについて、軍政下の国民社会をコンタクト・ゾーンとして捉えることで考察する。軍部は「反乱分子」とみなした人々を次々と拉致・拘留・拷問しながら、被害者を「失踪者」と呼んで行為を否認することで、社会全体を恐怖によって沈黙させた。この体制はコンタクト・ゾーンそのものを消失させようとするものである。日系コミュニティは、アルゼンチン社会における「日本人」に対する肯定的イメージの保守を内部規範とし、個人の政治への参加をタブーとすることで、軍政に翼賛的なモデル・マイノリティを生み出す装置として機能していた。70年代の若者たち「二世」の多くは「日本人」の規範を抑圧と感じ、そこからの離脱に向かった。重複する国家とコミュニティの規範を破り、別様の社会を求めて政治に参加することは「失踪」の対象となった。「日系失踪者」たちの思想や行動についての周囲の人々の語りから、かれらが身を投じた政治とは、個人の社会性・政治性の否定の上に成り立つ国民の安全保障を拒否し、コミュニティを媒介したネイションへの同一化ではなく、個人の位置を自ら社会につくりだすことで社会を変えるための方法であったと理解できる。
著者
浮ヶ谷 幸代
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2018, pp.186-209, 2018-06-30

本稿は、医療人類学におけるナラティヴ・アプローチの批判点を踏まえつつ、非言語的活動としてのパフォーマンス活動を通して、参与観察とインタビューとを併用させた調査方法により、聴き取る側の構え(態度)とその記述について人類学的研究の可能性に挑戦するものである。本稿で取り上げる事例は、精神医療を専門とする北海道浦河ひがし町診療所(以後、診療所)のナイトケアで繰り広げられる「音楽の時間」でのパフォーマンス活動である。浦河町では国際的に評価を得ている<浦河べてるの家>の当事者研究があるが、それは言語的表現が前提となる。ところが、診療所の当事者メンバー(以後、メンバー)には人前で話すのが苦手である、もしくは語る言葉を獲得できない人たちがいる。彼らにとって非言語的活動としてのパフォーマンスは、「生きていること」を実感できる活動となっている。診療所ではスタッフもメンバーもコーディネーターも「音楽活動はセラピーではない、プロを目指すわけではない」という理念を共有し、参加者は「音楽はコミュニケーションである」という命題のもと、みる、きく、たたく、わらう、おどる、という身体表現が創出する場として「音楽の時間」を享受している。パフォーマンス活動に参加するメンバーの「生」を描き出すために、「ミュージッキング」(クリストファー・スモール)と「生きていること」(ティム・インゴルド)という概念を参照枠とし、パフォーマンスそれ自体がメンバーの「生」の表現の一つであり、それが日々の暮らしを「生きていること」と連続していることを示す。さらに、語り手と聴き手との関係性を描き出しながら「聴き取ること」の相互行為性について考察し、語り手の「生」と聴き手の「生」が地続きであることの可能性について考察する。本稿でのアプローチは、ナラティヴ・アプローチの批判を回避すると同時に、近代社会の二元論的思考を瓦解する試みとなることを示す。
著者
風戸 真理
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2017, pp.347-366, 2017-12-31

本論では、装い(ドレス)の中でもとくに装飾機能の強い身体装飾に焦点を当て、日本の女性の子どもがおこなう身体装飾の時間変化、その過程で直面する葛藤、そしてやがて大人になった女性の身体装飾と社会の関係を記述した。その上で、身体装飾に関する子ども・大人・社会の交渉と、審美性をめぐる規範・流行・便宜について考察した。なお身体装飾は、アクセサリーの着用、身体彩色(化粧)、身体変工(ピアス、タトゥーなど)の3つに分類した。結果としては、第一に、現代日本の子どもの身体装飾は学校という制度の中で、化粧を端緒として開始されていた。そこでは審美性や娯楽性とともに、校則への抵抗、教師との交渉、仲間との同調や差異化などの社会関係が重視されていた。第二に、身体装飾は学校・アルバイト・就職活動・親との関係において抑制されていた。とくに身体変工をめぐっては、外的な抑制、内的な抑制、身体的な困難が葛藤要因となっていた。第三に、大人の身体装飾と社会との関係については、流行歌の歌詞を分析した結果、最も日本社会に親和的なのは身体彩色であったが、ピアスやタトゥーに関しても豊かな表現が見られた。アクセサリーを外す行為は私的な親密さを帯びた身体の出現を示し、装身具には公私をスイッチングする道具としての機能が認められた。審美性の観点から、身体装飾をめぐる規範・流行・便宜の関係について検討すると次のことがいえるだろう。人びとは環境とのすり合わせにより社会適応的な装身の輪郭を探り、その範囲内で他者との差異化を図ったり、流行に同調したりすることをおしゃれとして楽しんでいた。また、身体変工には逸脱を含む多様な意味づけがなされていたが、身体の審美的価値を効率的に高めるために、身体変工の実利性、便宜性が評価される側面もみいだされた。
著者
立木 康介
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.290-303, 2019-08-31

精神分析がめざすのは、「ナラティヴ」を構築することではない。反対に、ひとつの物語が隙なく語られれば語られるほど、精神分析家はますますそれに用心する。そのような語りはfadenscheinig、すなわち「見え透いている」とフロイトは述べた。ジャック・ラカンが繰りかえし強調したように、治療のなかでわれわれに作業させるもの、いや、より単純に、(それじたいが)作業するもの、それはパロール(話すこと、話された言葉)にほかならない。ラカンによれば、治療においては「パロールがすべての力〔権力、pouvoirs〕を、すなわち治療の特別な力を握る」。なぜなら、無意識はパロールを通るからだ。といっても、その道筋は無数にあるわけではない。無意識が、いや無意識の「一端」がパロールのなかに顕れるとき、そこにはひび割れや歪みが生じ、その結果、パロールは形が崩れ、壊され、ひどく理解しづらくなって、言い間違いや意味の揺れ(équivoque)として感知されるだろう。 無意識の読解は、こうした微細なひずみに注意を留めることからはじまる。これらのひずみは、無意識がシニフィアンの連なりをくぐったことの痕跡なのだから。Faire un récit (making a narrative ou storytelling) ne fait pas partie de l'objectif d'une psychanalyse. Au contraire, mieux un récit se raconte, plus le psychanalyste s'en méfie : un tel récit paraît fadenscheinig, louche, disait Freud. Comme Jacques Lacan n'a cessé de souligner, ce qui fait travailler, ou mieux : ce qui travaille, tout simplement, dans la psychanalyse, c'est la parole. Lacan affirme que dans la cure, <<la parole a tous les pouvoirs, les pouvoirs spéciaux de la cure>>. C'est parce que l'inconscient passe par la parole. Mais pas de n'importe quelle façon. Quand l'inconscient, ou un <<bout>> de l'inconscient s'y manifeste, cela produit une fissure ou une torsion dans la parole, de sorte que celle-ci est déformée, brisée, donc devient difficilement saisissable, comme en lapsus, ou en équivoque. Lire l'inconscient commence par être sensible à ces menues traces de son passage dans le défilée du signifiant.
著者
西 真如
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.275-289, 2019-08-31

本稿は、在宅で終末期を過ごす単身高齢者の疼痛ケアにあたる訪問看護師が、患者の痛みの経験をどのように理解し、痛みの情動に介入するのかという問題について考察する。その過程は、医療のことばでは「痛みの評価」とか「痛みの管理」という用語であらわされるのが通例である。しかし実際には、患者がどのような痛みを抱えているかを客観的な指標によって把握することはできないし、オピオイド(麻薬性鎮痛薬)を用いた痛みへの介入は、患者の情動の変化と結びついた繊細な実践である。疼痛ケアは、痛みを訴える患者と、それを聞く医療者、そして患者の身体に介入する鎮痛薬とを巻き込んだ、一連のコミュニケーションの過程として把握される。この過程に接近するため、本稿ではまず、痛みとは何であって、それは何を意味するのかという問いについて考える。この問いは一方では、痛みは単に外的な刺激の感覚ではなく、複雑な情動の過程であるという医学上の「発見」と関わっており、もう一方では、痛みの意味は言語によって正確に表象されることはなく、痛みの経験を表現することは、常に不完全な翻訳の過程なのだという人類学的な(および関連領域の)考察と関わっている。そして本稿の後半では、訪問看護師が身体の痛みに「寄りそう」過程について、耐え難い疼痛を訴えながら在宅療養を選ぶ患者に対するケアの文脈や、オピオイドを用いた痛みへの介入といった側面に着目した記述をおこなう。
著者
澤野 美智子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.235-248, 2019-08-31

語りについて論じた先行研究は、本稿で検討する諸概念に見られるように、文化人類学や質的社会学、口述史などの質的調査において学問上の目的からインタビューがなされる場合が主に想定されてきた。ナラティヴ研究で扱われてきたような、語りの「正しさ」(accuracy)や集め方・捉え方が問題になってくるのは、必ずしも学問上の目的からなされるインタビューに限らない。より実践に近い場で対話や説明がなされるときも同様の事柄が問題になりうる。ただし、実践現場で語りが発せられ受けとめられる状況は、質的調査のインタビューとは異なりうるため、質的調査を通して議論されてきた語りの概念を適用するための通路が見当たりづらい。その要因の一つとして、それぞれの分野で語りの「正しさ」の前提が異なっていることが挙げられる。本稿ではナラティヴ研究の概念を、質的調査とは異なる実践場面に即して検討することを試みる。これは、異なる「正しさ」を想定している語りを、共通の土俵にのせて論じるための試みでもある。これにより、多様な実践現場において、それぞれ語りの「正しさ」がどのように前提され、互いにどのように異なっているのか、あるいは類似しているのかを明らかにすることができる。特に本稿では、語りの「正しさ」、アクティヴ・インタビュー、対話的構築主義という観点から、本特集に収録している司法面接、医療、精神分析の実践場面における語りについて検討する。
著者
高木 光太郎
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科 文化人類学分野
雑誌
コンタクト・ゾーン = Contact zone (ISSN:21885974)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2019, pp.304-311, 2019-08-31

映画「ブレードランナー」の"tears in rain monologue"として知られる回想シーンでは、逃亡した人造人間が死の間際、自身の個的な経験を想起して、追っ手である人間に語り聴かせることで、人間との間に絶対的な「距離」を生み出し、追う者と追われる者という暴力的な関係から束の間であるが自由になる様子が印象的に描かれていた。想起がこのように聴き手との間に絶対的な「距離」を生み出すのは、他者が共有困難な時空間的持続として現在の環境を探索する行為であることによる。本特集に掲載された3論文(立木論文、仲ら論文、西論文)は共に、こうした絶対的な「距離」に隔てられた時空間的持続から発せられる声に対して、その外部にいる他者がどのような姿勢を取り得るのかという問題に重要な洞察を与えてくれるものであった。精神分析のセッションを扱った立木論文と、司法面接を扱った仲ら論文では、個的な体験の想起をいかに「聴く」のかが問題になっていた。いずれの場合も、聴き手は体験者の自由な語りに干渉しないことによって、体験者の個的な水準に由来する不自由さ(亀裂)を浮かび上がらせ、評価的、解釈的な介入は想起が終結するまで意図的に遅延させるという姿勢がみられた。一方、痛みの経験を扱った西論文では、個的な身体的経験として痛みを表現する患者と、医療者としてそれに対処する在宅看護師や医師が、それぞれの姿勢を「ある程度」維持したまま相互に接続することを可能にする媒介物を通して接続されていた。想起や痛みを語る声に対するこのような聴き手の姿勢は、コミュニケーションを社会的な水準ではなく、個的な水準での人々の出会いとして捉える可能性を示唆するものであり興味深い。