著者
吉田 一生
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究(キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.225-243, 2016-12-15

On Religiousness of Modern Art This article discusses a religious aspect of art based on Schelling’s thesis that an art work is an unconscious identity of the ideal and the real, while critically considering the meaning of the recent artistic movement. The main character of modern art is relativity. Its supporters claim that everything could be an art work. However, from the philosophy of art perspective it must represent some idea, and romantic philosophers even sought the absolute meaning of art. For Schopenhauer, art was liberation from existence, and for Nietzsche reconciliation with it. Both recognize the essence of the world in art, which is not an individual fantasy but an ultimate reality. The following discussion regards the Apollonian art as reality of reason in relation to nature and the Dionysian art as that of god in relation to mythology. Thereby, Schelling’s philosophy of nature and that of mythology offer a deep insight into the identity of being and consciousness. It seems that modern art, whose tendency is thoroughly nihilistic, is far away from such an idea, but the article concludes that it has a strong possibility of the revelation.
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.281-301, 2015-03

スピノザは彼以降の西洋近代哲学の展開に大きな影響を与えた哲学者である。ヒュームの哲学もまたスピノザの影響を受けて成立した体系の一つである。スピノザとヒュームに共通する最大の主題は「自然」である。両者は、倫理を自然によって基礎づけることを哲学の根本的な目的としていた。ヒュームにとってhuman nature とはいわゆる人間本性ではなく、人間に固有の知覚の連合とそれに基づいて成立する現象の総体としての自然を意味する。ヒュームもスピノザも因果の本質が必然性にあると見なしている。ただしスピノザの必然性が理性により認識されるのに対し、ヒュームの必然性は感覚によって感じられるという違いがある。ヒュームとスピノザの体系の共通点と相違点を理解する上でスピノザの「一般的概念(notiones universales)」とヒュームの「一般観念(general ideas)」の関係を考察することが重要である。スピノザは「一般的概念」を第一種認識に属する想像力の働きに基づく人間の誤謬の源泉として批判している。それに対してヒュームはロックの「抽象観念(abstract ideas)」を批判しながら、一般観念に独自の理解を付与している。とりわけヒュームはロックによる抽象観念を、人間精神の有限性を根拠として批判しており、この点でヒュームとスピノザは共通の認識に基づいている。スピノザは一般的概念を理性による「共通概念(notiones communes)」によって克服し、十全な認識としての第二種認識へと移行する。それに対してヒュームは一般観念に止まりつつ、一般性の拡大によってより妥当な認識が成立していくという観念の自然な発展の理論を提示する。ヒュームの一般観念は習慣から社会的な慣習へと発展することで単に個人的な主観的認識に止まるものではなくなる。スピノザもヒュームもそれぞれの哲学によって他者と協働して幸福を達成する筋道を示そうとする。ただし、スピノザが哲学的認識による理性的主体自身の救いを目的とするのに対してヒュームは一般的認識の成立に基づく共同体全体の安定を目的としている。安定した共同体は富と学芸を生み出し、人間性そのものを発展させる。スピノザとは対照的にヒュームにおいて個人の救いは、個人の理性による哲学的認識にではなく共同体全体の力に委ねられるのである。
著者
田中 敦
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.38, pp.53-87[含 英語文要旨], 2007-03
著者
田村 治美
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究(キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.49, pp.77-121, 2017-12-15

18世紀において、「科学」をめぐる諸状況は変化し、宇宙や自然現象、そして身体に対する眼差しが大きく変わってきた。それと共に健康や疾病の観念も変化し、音楽と身体の関わりもまた変化してきた。 これまで自然科学と音楽の関わりについては、主に、音響学理論が直接反映している調律法や和声理論について研究が積み重ねられてきた。近年では生理学や医学、精神医学、電磁気学などもまた音楽観や音楽現象に影響していることが指摘されている。 本稿では、18世紀後半に人々を魅了し大流行したにもかかわらず、健康をそこね死に至らしめるとまで噂されて音楽界から姿を消し、今もなお不思議な伝説の謎から解き放たれていない楽器「アルモニカ」について論述した。 アルモニカは、大きさの異なる複数のガラスの椀の縁をこすって音を発生させ、音楽を奏でる楽器である。この楽器の特異な点の一つは、18世紀、「科学」の転換期に、近代科学に重要な成果を残した二人の人物が、パリの社交界を舞台にそれぞれ独自の科学理論を掲げてその楽器に関わったことである。一人はアルモニカの発明者であり、雷の正体が電気であることを証明したベンジャミン・フランクリン、もう一人は近代力動精神医学の祖とされ、治療プロセスでアルモニカを用いたフランツ・アントン・メスメルである。ところが、二人はメスメルの理論体系をめぐって科学的対立軸に位置することとなり、メスメルの失脚によってアルモニカもその運命を共有することになった。 これらのいきさつについて、本稿では18世紀の神経学や電気の理論の進歩による生命観のパラダイムシフトを主軸に、音楽の心身への影響、フランクリンの電気理論、メスメルの動物磁気理論との関わりを調査し、それらがアルモニカの興亡にどのように影響したのかを分析した。その結果、アルモニカの流行と不名誉な噂の中での凋落が、18世紀の「生命科学」と音楽観との関係の中でうまれた必然的な帰結であることが指摘された。 18世紀以降、科学と音楽は専門分化の道をたどってきたが、共に自然や人間を対象にし、時代思想や社会の産物として照応関係にあると思われる。アルモニカの運命は、音楽が、生命をめぐる諸科学、すなわち医学、生理学、心理学、そして電気・磁気学とも深い相互関係をもっていることを教えてくれる。
著者
森本 あんり
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.39, pp.1-27, 2008-03-31

「人間に固有なもの (proprium) とは何か」をめぐる連続公開講演の第一回として、人間のもつゆるしの能力について論じた。「過つは人の常」という格言は、ストア派や論語に見られる古典的な人間理解であるが、18世紀のアレグザンダー・ポープはこれに「ゆるすは神の常」という対句をつけた。この定式では、ゆるしは神の側に配置され、人間がゆるしの主体となることが不明瞭になっている。キリスト教神学の伝統でも、ゆるしはしばしば神の業として論じられ、人間が人間にゆるしを求めて与える水平次元の欠落が批判されてきた。しかし、イエスは新約聖書においてゆるしを人間の能力として語っており、中世の神秘主義思想、ニーチェのルサンチマン論、現代のデリダらは、ゆるしの原理的な不可能性を語っている。これらの議論をふまえた上で、本稿はトマス・アクィナスの「等価的代償」(aequivalens satisfactio) と「充足的代償」(sufficienssatisfactio) との区別を援用し、ゆるしが正義や償いを前提としつつも最終的にはそれらに依存しないことを論じた。ゆるしは、「分析判断」ではなく、算術的な正義を越えた「総合判断」である。本連続講演の主題に照らして言えば、ゆるしは、被害者のみが与えることのできる「上積みされた贈与」(for-give) であり、代価なしに (gratis) 与えられる恩恵であり、ゆるさないことが当然かつ正当である状況のなかで、その状況に抗して行使される人間の自由の表現である。つまり、ゆるしは、人間の人間的であることがもっとも明瞭に輝く瞬間である。このことの具体例として、本稿はふたつの事例を挙げた。ひとつは、米国議会の謝罪要求決議により再浮上した日本軍の従軍慰安婦問題における発言であり、いまひとつは、1981年に米国で起きたKKKの黒人惨殺事件の民事裁判判決における出来事である。いずれの事例でも、正義の完全な復元が不可能なところで、トマスの言う「充足的代償」が浮き彫りにされている。なお、ゆるしの実現には、加害者と被害者の間で「謝罪」と「ゆるし」の交換がなされなければならないが、これは内心において先に成立したゆるしの現実に、公の外的な表現を与えるための儀式である。それはちょうど、戦争の終結によってもたらされた事実上 de facto の平和状態に、平和条約の締結が法律上の de iure 正当性を付与してこれを追認するのに等しい。だからゆるしは過去形ないし完了形で語られるのである。ゆるしは、この意味で再解釈すると、「あらかじめ与えること」(fore-give) である。「過去を変える力」として、人間にこのようなゆるしの可能性がなお残されているという事実に、「神の像」たる人間に固有の本来的な自由と尊厳 (proprium) がある。
著者
村上 陽一郎
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.40, pp.31-40, 2009-03-31

The most remarkable difference of a human being from other animalsor particularly mammals is the deficiency of natural repressor of desire orlust. Consequently it needs to accept nomos of its community as therepressor. The transference of nomos from community to its members ismainly realized through language both explicitly and implicitly. Anindividual of homo sapiens can only be a human being by sharing nomos ofits community. It, at the same time, is inherently invested chaos which is a blind energyto develop it to all the possible directions. In other words, nomos introducedin an indivisual plays the role of molding its chaos. It is the strugglesbetween nomos and chaos within an individual that produce a genuinehuman being.
著者
魯 恩碩
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.251-279, 2015-03-31

The Mutual Relationships between the Covenant Code,the Deuteronomic Code and the Holiness Codein their Historical Context The dating and the historical background of the Covenant Code (CC)are much debated. CC has long been regarded as the oldest law code inIsraelite history. However, in our view, it would be more appropriate torefrain from using labels such as J, E and JE for the characterization of thepre-priestly Tetrateuch and, accordingly, reconsider the dating andhistorical background of CC. Regarding the final stage of the composition,our contention is that CC derives from Judean society in Persian eraPalestine. The main purpose of this article is to indicate several pieces ofevidence that support this hypothesis. The biblical law codes each reflectthe specific perspectives of the communal networks in Judean society ofPersian era Palestine. Since no subgroup in Palestine occupied anoverpowering position, the law codes were simply juxtaposed, under thepolitical pressure of the Persian empire, in order to shape a document ofconsensus.
著者
謝 銀萍
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = HUMANITIES (Christianity and Culture) (ISSN:24346861)
巻号頁・発行日
no.52, pp.(237)-(257), 2020-12-15

本稿では、屏風絵地獄変の誕生に関わる絵師良秀、小猿、良秀の娘の死に着目し、それぞれをいかに理解すべきかを追及し、芸術における死の意味を突き止める。そして「戯作三昧」における馬琴像との関係性を踏まえ、芥川が本作を通して求めようとした芸術家のあるべき姿を明らかにする。先行研究では、芸術と権力、芸術と生活という二項対立の前提の下で、良秀の死が芸術至上の表現か、生活への敗北かと言われ続けてきた。けれども、小猿の死と良秀の娘の死を合わせて考えれば、むしろ「地獄変」は芸術対生活の構図から脱構築の作品として読める。小猿の殉死の前後に見られる良秀の表情の変化からすると、その死があってからこそ、良秀は家族愛という世俗観から抜け出し、完全な芸術家へ進化することに成功したといえる。小猿の人間的な一面に引き立てる良秀の原始的で野性的な意欲が、目の前の地獄よりも地獄である現実を受け止めさせたのであろう。良秀の意図的な自殺により、これまで亀裂のある良秀の両面が統合し、完全な芸術家かつ完全な人間像が完成する。良秀の死のタブー化と、威厳に感じられる屏風図より、命の代わりに永遠に超えられない芸術的な地位という良秀、いわば作者芥川の野心は実現したと指摘できる。また、良秀の娘の死は彼女が自主的に選んだものであり、父親の芸術に献身したといえる。彼女の悲劇的な死があったからこそ、地獄変の芸術的価値が昇華される。小猿、娘、良秀の死により、芸術至上のテーゼが見とれる同時に、世間の五常もまっとうとしている。このような設定により、芸術と生活の対立は和解され、立体的で人間らしい芸術家の形象が成り立つこととなる。 「地獄変」での大胆な試みの以前に、芥川は「戯作三昧」で芸術家を悩ませる外部的な影響要素と戦いながら、やっとのことで初心に咲き返し、一時的な三昧地を手に入れた馬琴像を構築した。しかし馬琴が到達した非日常的な空間はあくまで一時的なものであり、それが良秀の場合になると、その自殺により永遠なものとなってしまう。日常に縛り付けられる馬琴が人間の五常を凌駕する良秀へ変身するところに、売文、家族などに縛り付けられている芥川は作品の世界で、徹底的に芸術創作に取り込み、完全な芸術家となるという野心を実現したといえよう。
著者
吉馴 明子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.139-167, 2016-12

昨年筆者は、日清戦争論を「義戦論」の変容を追う形でまとめたが、今回は日露戦争論について植村正久の非「非戦論」の内容を検証する形でまとめることにした。当時の新聞紙上で日露開戦を巡って、非戦論と主戦論が競うように発表され、キリスト教世界でも、内村鑑三の「非戦論」が出ると同時に、海老名弾正のように日本の帝国膨張をキリスト教的博愛の精神を以て弁証する「聖戦論」的な主張が広まった。このような状況であればこそ、現代の研究者は日露戦争論を「非戦論」と「主戦論」として概括したと考えられる。植村もしばしば主戦論者といわれてきたが、本稿では『福音新報』の記事によって、彼が「非戦」論を非として、国際関係どう捉えたか、戦争、文明、国家をどう捉え、これらをキリスト信仰においてどのように統括的に考えようとしたかを追究してみた。 日清、日露の戦間期に、イエスの十字架に「正義は敗れて興り、不義は勝ちて滅ぶ」とのメッセージを受け取った内村鑑三は、米西戦争とボーア戦争を人類の救済という観点から捉え、ボーアにこそ「贖罪史」の本質が現れていると考えた。ここから日露戦争を見て彼は「非戦論」を説くようになった。 植村正久の場合は、ボーアの抵抗に「自由」実現への希求を見るとともに、国際関係は軍事力・経済力が物をいうとの認識を持った。日露開戦期のアジア情勢についても、ロシア、中国、日本の力関係をリアルに見ている。その意味で日露開戦は不可避とし、国家の一員として戦争に参加すべしと「非戦論」はとらない。しかし、彼の願いは、戦争が人間の自立の促進や社会革新を進めることに役立つことにある。ここに、植村特有の日露戦争論が生み出される。 彼は、白色対黄色、ヨーロッパ対アジア、キリスト教対異教といった対立軸を以ての日本を攻撃する「黄禍論」に批判を加えていくうちに、大きく東洋主義のリストを作り上げた。帝王の威力重きに過ぐる。君主専制。人格の観念薄く、其の価値軽き。神てふ観念低く、人類を礼拝する。夫婦の道明かならず、妻妾を擁して愧づることを知らざる。命の意義に深く通ぜず、自殺を罪悪と見做すこと能はざる、といった諸点である。これを矯正するのは、「開国の精神を振起」することによる。それは、「維新の改革」において「士の常職を解いて四民同等の制を定め」たことから始まり、個人主義の確立、立憲自治の種子となった「精神」である。従って、「自由立憲の制度を樹立し、平民主義を拡張」するなど、「西欧文明の真髄と同化し、深く基督教の精神を吸収して、世界に特色ある文明を現出」することが、日本の使命とされる。 今ひとつ、植村はこの四民同等の導入を、ナポレオン三世率いるフランスがプロシアに敗れそうになった時に、フランス国民が共和政治を組織して、「国民一団となって国家と共に亡びんとする」愛国精神に範を取って考えている点に着目したい。ここに立憲政体は「国は民の為に存し民は国の為に存する」という精神に基づいて理解されることになった。単に忠愛の心厚き」によるのではない。それゆえ、一方で「自由を重んじ、権利を尊ぶ」ことを「国民国家」の必須要件とするとともに、兵役に従事し、国家を守る実力を保持することをも「国民国家」の要件とされることになった。 ここに、植村は「国家権力」についてのキリスト教による説明を余儀なくされる。彼も他のキリスト者と同じように、「基督の平和は血の流れる十字架上の平和である」という。ただ、彼が強調するのは、キリストが「十字架に血を流すまで戦ひて罪悪を征服し」「世に勝ちぬ」と勝鬨を挙げられた、ということである。対外戦争を罪悪の征服と等値して語ることができるのかは、大きな問題であろう。ただ、戦死をキリストが罪を贖うための「犠牲」死と等値したのではないことには注意を払っておきたい。 植村がかつて、福沢諭吉の「報国心」に潜む不公平を責めたこと、法然の専修念仏の教えに支えられて勇ましく戦った武士がいたと述べていたことを頭において、植村にとっての「愛国」とはいかなるものであったか、国家権力と主権的個人との関係如何について考えたい。また、これらの課題との関連で植村が尊重した「武士道」がどのようなものであったかをも、次の論考の課題としたい。
著者
田中 敦
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.40, pp.1-29, 2009-03-31

人間に固有なものという課題は「人間の本質」とか「人間性」として理解できるが、それは任意の視点から人間独自の特性を分析し、解明するということ以上の何かを意味している。そうした問題をここでは事実性についての問いとして捉えたいと考える。 そのような場合、解明されるべき人間性は、現代においてどのようになっているかが問題となる。このように考えると、それは今日神に関する解明を目指すのと同じような困難さを孕んでいるように思われる。それが、「神は死んだ。ならば人間性は死んでいないのか?」という題が意味していることである。 ニーチェの言葉「神は死んだ」は、それが語られた当時とは比較にならないほど、今日その衝撃力を失っている。しかし、神はその概念からしても、更に神との関わりに立つ人間にとっても死に得ない存在である。そしてニーチェはまさにそのことを「神は死んだ」と述べた断片の中で明瞭に描き出している。更に、この断片が書かれたのとほぼ同時期に『このようにツァラトゥストラは語った』第一部が書かれたが、その冒頭で、ツァラトゥストラが市場の群集に超人の必要を説く場面は、そのまま死んだ神を探し回る狂った人の場面と同じである。このことはニーチェにとって「神が死んだ」ということは、同時に人間が人間としてはもはや生きていけないこと、人間であること(Menschlichkeit)、人間性も喪失されていることを雄弁に語っているのである。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」のである。 ニーチェにとって神の死は、したがって人間性の死滅は、単なる一つの可能な解釈ではなく、西洋の歴史を貫く出来事、その意味で避け難い問題として事実性の問題であったといえる。更にニーチェにとってこの問題の解決、欠乏している人間性を到来させるという課題も、言葉による解明という問題ではなく、ここでいう「事実性の問題」として理解されるべきものであった。しかしニーチェ自身はこの事実性の問いの解決を目差す中で、その問いを通常の問いから区別することなく追及しているように思われる。それは答えを求める問いであって、問いを問いとして存在せしめることをしていないのである。神の死の巨大な喪失を、その死が齎したニヒリズムを克服することがどうしても求められねばならないのである。 ところで、ハイデッガーの『ヒューマニズムについての書簡』は、ボーフレの質問「どのようにして『ヒューマニズム』という語にその意味を与え返すか」に答える形で書かれているが、そこでハイデッガーは真正面からこの問いに答えていない。その意味は、何らかの語にその意味を回復させるということは、知的な解明ではない事実性の問いに対しては不十分、不用意であるということであろう。フッサールが語の意味の回復可能性を直観に求めるのに対して、ハイデッガーはそれを存在にあるいは事象との出会いに求めている。事実性の問題は予め「何かとして」意味が既に何かが与えられていることを出発点にとることになる。 しかし、問題は死あるいは喪失という事態である。どのようにすれば「不在の」「喪失された」事象と出会いえるのかという問いである。まさにこの問題こそ、存在忘却という事態の只中で、改めて存在の意味を問うことを敢行したハイデッガーの哲学的探究がなしたことである。つまり、ハイデッガーはまさにそうした事態を形而上学との関係において「克服」ではなく「耐え抜き」と捉えているが、そうした問題こそ、事実性の問いが要求する問いの問い方であるだろう。
著者
Kodama Christine de Larroche
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.9-33, 2015-03-31

This is the presentation and analysis of two books written by twopsychoanalysts about Saint-Exupéry’s Le Petit Prince (The Little Prince). Marie-Louise von Franz gave a series of twelve lectures during thewinter semester 1959-60 at the Jung Institute in Zurich on the subject of theeternal youth type. The first eight lectures consisted in an analysis of Saint-Exupéry’s book, the French pilot and writer being presented as a prototypeof The Problem of the Puer Aeternus published in 1970. Eugen Drewermann, a German theologian and psychoanalyst, alsogave his own interpretation of The Little Prince in a book published in 1984without any reference to Franz. After a detailed presentation of each book,the two psychoanalytical interpretations are compared. A quick overviewof La Sagesse du Petit Prince (The Wisdom of the Little Prince) by thepsychologist Pierre Lassus, published in 2014 shows, by contrast, thedepth and perspicacity of the two psychoanalytic readings complementingeach other and offering a new perspective on Saint-Exupéry himself andhis most famous work.
著者
ウィルソン リチャード 小笠原 佐江子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.47, pp.1-127, 2016-03

A revolutionary ceramic product, one that looked more like a painting than a pot, made its debut in Kyoto in the opening years of the eighteenth century. These rectilinear dishes and trays were decorated with monochrome painting, poetic inscriptions, and personal signatures. The designer and frequently the calligrapher for these works, Ogata Kenzan (1663-1743), understood the codes of poetry, painting, and writing that had evolved in China and Japan. His knowledge was mediated by the reproduction of those codes in contemporary painting and especially in illustrated literature. His products were functional ceramics, which means that these images had now migrated from the tokonoma to the tatami, so to speak; at the same time, the decidedly "non-ceramic" shapes and impromptu painting-poetry provided the work with a performative aura that resonated with the consumers, specifically that segment of the population who, from the 1680s, had begun to learn Chinese and use it in their pastimes. This article is the first of two installments that survey this genre of Kenzan ware, hich the authors call the "gasan" style after the Chinese expression for inscribed aintings, or hua zan. Kenzan-ware gasan ceramics from the Narutaki (1699-1712) and Nijo-Shogoin workshops (1712-mid-18th century) are the focus. Judging from the number of surviving works, the style was remarkably popular, and it came to be mass produced at Shogoin, first under Kenzan himself and then under his adopted son and successor Ogata Ihachi (dates unknown). This installment on Kenzan-ware gasan treats landscape, human figures, and animal subjects. The article begins by reviewing the Chinese locus classicus for the combined arts of poetry, painting, and calligraphy, with special attention to the way in which this synthesis articulated the values of the scholar-official class. A discussion of the appropriation of that tradition in Japan follows. In the data section, surviving works and archaeological specimens are studied in terms of their inscriptions, including sources and meanings, and painted decoration, including styles and lineages. Landscape themes are the most numerous, and they divide into panoramic scenes descended from the Xiao and Xiang river tradition (J: Shosho hakkei) and close-up views of "pavilion landscapes" (J: Rokaku sansui). The former type, which occurs most frequently in Kenzan's first decade of production, features full-length poems and rather detailed painting in the Kano style. The latter type, which is common to Kenzan's later production and also the work of his adopted son Ogata Ihachi, typically features single-line excerpts and highly abbreviated, often amateurish painting. Figural themes constitute the second category. Here too the subject matter is orthodox, drawing from the Muromachi-based line of Chinese "saints and sages" that had become increasingly popularized in the sixteenth and seventeenth centuries. The poetic excerpts for this category are typically couplets, and the painting is either by or in the style of Ogata Korin (1658-1716). This approach is also limited to Kenzan's first decade of production. The last category, animals, makes use of creatures associated with Buddhist or literati values; the wares are inscribed with couplets or one-line excerpts, and most of the painting is quite abbreviated. Wares decorated with animals appear at the end of Kenzan's first decade of production, specifically in association with Korin, but they also appear in later work as well. For all three categories, the poetic inscriptions are taken from the Yuan-dynasty anthology Shixue dacheng (J: Shigaku taisei) and its Ming successor Yuanji huofa (J: Enki kappo). Both of these collections enjoyed considerable popularity in Kenzan's day. In selecting the poems for his pottery Kenzan exhibited a preference for those that had been originally composed as ti hua shi (J: daiga shi), that is, poems that were written upon the viewing of a painting. Those "versed" in the code of gasan could appreciate an experiential quality in such work. Yet, conversely, both the painting and poetry clearly access a well-developed archive of popular reproduction. Additionally, the lofty images of solitary and religious pursuits were now being employed in the decidedly communal and secular spaces of wining and dining. The appeal of Kenzan ware gasan must derive from these incongruities. In any case, with such a literary load Kenzan clearly diverted ceramic appreciation away from the materiality of the object to its "conception" (yi) embodying poetic traditions, thoughts of the maker, and the moment of execution. Assuming that Kenzan ware reached a broad public—which is increasingly validated by urban archaeology—and chose poetic excerpts and themes that would be recognized by that public, the ceramic works also document cultural literacy in the mid-Edo period. They show how an ever-growing consuming class could read and savor selections of poetry from the Tang, Song, Yuan and Ming dynasties together with painting. Basho and Chikamatsu wove the same verses into their haikai and joruri. A plethora of how-to books like Shirin ryozai (Handy materials for the world of poetry; 1684) ensured popular access to these quotations. Until quite recently (see vol. 35 of this journal), the poetry-painting synthesis in Kenzan ware was bypassed by researchers. The authors hope that this article will serve as a reference for understanding Kenzan's distinctive appropriation of the gasan lineage and its reception in the mid-Edo period.
著者
Yajima Naoki
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:24346861)
巻号頁・発行日
no.51, pp.77-92, 2019-12-15

This paper discusses Hume’s Conceivability Principle, according towhich whatever we conceive is possible, at least in a metaphysical sense.Although this principle is not thoroughly argued by commentators,Hume relies on this principle in almost all significant arguments of hismetaphysics. The principle is involved in the crucial relationship betweenmind and reality of modern philosophy. Therefore, it is possible to find arelevant counterargument of this principle in metaphysics from Descartesto Berkeley. This paper focuses narrowly on the comparison betweenHume vis Descartes, and Hume vis Spinoza, and elucidates that Hume’sinnovation of this principle intends the transformation of the concept ofnecessity, and development of the concept of probability. This paper alsooffers a possible solution to a famous interpretative problem regarding therelationship between what is inconceivable and impossibility, and with it, thefundamental character of Hume’s empiricism and scepticism will be clarified.This paper thus aims to be a preliminary consideration for clarifying theintricate connection between the Conceivability Principle and Hume’s entiremetaphysics.
著者
金澤 正剛
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.40, pp.41-54, 2009-03-31

Why Does Music Exist? Why does music exist? Different from other animals, the human beingshave natural nature to think and to express themselves by various means.One of such means is the language, but if they cannot use the language, theytry to express themselves by movements of their bodies, or by using colors,shapes or sounds. They also have natural nature to pursue and honor thebeauty and therefore try to express themselves in a way that they believe themost beautiful expression. As a result they have produced the literature bymeans of language, the dance and the drama by movements of bodies, thefine arts by means of shapes and colors, and the music by means of sounds.These are essential elements to their lives. One can perhaps define the music as “aesthetic expression by means ofsounds,” but the problem is whether there is the general consensus of whatis beautiful. What is considered beautiful by some people may be felt uglyby others. As a result there are a variety of musical expressions in the worldand each nation has its own music. In Europe the musical tradition goesback to Christian chants, of which the oldest is singing of the psalms, thecustom that Christianity inherited from Judaism. The most important ofearly Christian chants is the Roman chant, better known as Gregorian chant,which has become the starting point of later European music, both sacredand secular. As specific examples the speaker wishes here to demonstrateeight different reciting tones of Psalm 110 (or Psalm 109 in Latin), theLutheran chorale “Christ lag in Todesbanden” and Bach’s cantata based onthe chorale, and a performance of a popular pianist based on a Gregorianmelody.
著者
五郎丸 仁美
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.43, pp.77-108, 2012-03

ニーチェ哲学における自由─必然の問題は、超人思想と永遠回帰説の矛盾として最も先鋭化するとされてきたが、一方でツァラトゥストラは自由と必然の一致を歌いあげてもいる。この事態をどのように解釈すべきだろうか。 そこで中期まで遡って、上記の矛盾の前形態と思われる「自由精神」と「自由意志の否定」の共存に関する叙述を追うと、自由─必然が寧ろ常に逆説的相関関係にあることが分かる。まず価値創造の自由へと向かう必然的な衝動というものが存在し、それが覚醒する選ばれし者が自由精神である。自由精神はかの衝動に従ってあらゆる幻想、殊に自由意志という幻想の破壊者となり、一切は必然であると認識するが、それによって新たに罪や後悔、疾しい良心からの自由が拓け、無垢なる軽やかさが近づく。また必然性のうちでも、生命感情の高揚においては自由の感情を享受することが可能であり、この場合の自由は力とほぼ同義で、生を活性化する。必然性の内なる自由の感情は、カオス的世界の必然性を美として肯定しようとする運命愛へと昇華する。 以上の相関性を超人─永遠回帰に置き移すと以下のように解釈できる。即ち、自由精神の子孫として価値創造の自由を獲得する超人へと向かう必然性が永遠回帰の内に組み込まれており、また超人は自由精神による必然性の認識が準備した永遠回帰思想を血肉化していて、その暗黒面に脅かされることがない。超人は罪悪感や自責の念のみならず徒労感からも完全に自由な子供のような遊戯者だからである。最後に、必然性の内で享受される自由の感情は、超人が永遠回帰の内で、その運命を愛することによって生命感情を高揚させ、自由ないし力の感情を存分に満喫する、ということを意味するだろう。 従って超人思想と永遠回帰説は自由と必然として切り結ぶわけではない。 超人が到来してもいつかは再び現在の卑小な人間の時代が回帰するという徒労感が問題なのだ。このため自らの思想である永遠回帰説に躓いてしまうツァラトゥストラは、この教説が孕むこの虚無を克服して一切を差し引きなしで肯定しつつ必然性における自由を謳歌するという超人の境地を、知的憧憬によって先取し、生成の必然性を戯れとして美化した仮象世界のうちではあれ、自由と必然の一致をリアルに感得していたと考えられるのである。
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.281-301, 2015-03-31

スピノザは彼以降の西洋近代哲学の展開に大きな影響を与えた哲学者である。ヒュームの哲学もまたスピノザの影響を受けて成立した体系の一つである。スピノザとヒュームに共通する最大の主題は「自然」である。両者は、倫理を自然によって基礎づけることを哲学の根本的な目的としていた。ヒュームにとってhuman nature とはいわゆる人間本性ではなく、人間に固有の知覚の連合とそれに基づいて成立する現象の総体としての自然を意味する。ヒュームもスピノザも因果の本質が必然性にあると見なしている。ただしスピノザの必然性が理性により認識されるのに対し、ヒュームの必然性は感覚によって感じられるという違いがある。ヒュームとスピノザの体系の共通点と相違点を理解する上でスピノザの「一般的概念(notiones universales)」とヒュームの「一般観念(general ideas)」の関係を考察することが重要である。スピノザは「一般的概念」を第一種認識に属する想像力の働きに基づく人間の誤謬の源泉として批判している。それに対してヒュームはロックの「抽象観念(abstract ideas)」を批判しながら、一般観念に独自の理解を付与している。とりわけヒュームはロックによる抽象観念を、人間精神の有限性を根拠として批判しており、この点でヒュームとスピノザは共通の認識に基づいている。スピノザは一般的概念を理性による「共通概念(notiones communes)」によって克服し、十全な認識としての第二種認識へと移行する。それに対してヒュームは一般観念に止まりつつ、一般性の拡大によってより妥当な認識が成立していくという観念の自然な発展の理論を提示する。ヒュームの一般観念は習慣から社会的な慣習へと発展することで単に個人的な主観的認識に止まるものではなくなる。スピノザもヒュームもそれぞれの哲学によって他者と協働して幸福を達成する筋道を示そうとする。ただし、スピノザが哲学的認識による理性的主体自身の救いを目的とするのに対してヒュームは一般的認識の成立に基づく共同体全体の安定を目的としている。安定した共同体は富と学芸を生み出し、人間性そのものを発展させる。スピノザとは対照的にヒュームにおいて個人の救いは、個人の理性による哲学的認識にではなく共同体全体の力に委ねられるのである。
著者
ウィルソン リチャード L. 小笠原 佐江子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究(キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.49, pp.(1)-(129), 2017-12-15

Iconography of Kenzan Ware: Japanese Poetic Themes: Waka, Monogatari, and Noh Abetted by peace and prosperity, and by the strategic utility of cultivated pastimes in an era of regime change, Japanese literary themes enjoyed an unprecedented florescence in the seventeenth century. As scions of a wealthy merchant house serving the highest echelon of the imperial court, the Ogata brothers Korin (1658-1716) and Kenzan (1663-1743) were steeped in classical verse (waka), narrative (monogatari), and drama (noh) traditions. With the decline of their family business at the end of the century both brothers were compelled to convert this “habitus” into production of painting, lacquer and ceramic design. Their contributions form the core of what came to be known as the Rinpa school. The early-modern treatment of the indigenous literary tradition is marked by new modes of packaging and dissemination. While prose and poetry themes are hardly new to the crafts, Kenzan’s synthesis of theme, calligraphy, painting and ceramic form is entirely without precedent. In order to take full measure of this approach, the authors surveyed all known works inscribed with Japanese poetry and noh-drama lyrics attributable to Kenzan and his workshop, totaling 20 sets (as presently constituted) and individual objects, for a total of 223 pieces. All inscriptions were transliterated and traced to their classical sources. Below we summarize the findings for waka and noh, with special attention to selection, pictorialization, and text-picture-object relationship. Monogatari and poet- portrait (kasen) themes are relatively few in number and thus excluded from this summary. For ceramics inscribed with waka, Kenzan showed a preference for poetry by and related to Fujiwara Teika (1162-1241) and for poetry by Sanjonishi Sanetaka (1455-1537). The Teika-legacy material includes “Teika’s Ten Styles of Poetry” (Teika jittei, 1207-1213), Manuscript of Remnants (Shui guso, 1216), Single Poems by One Hundred Poets (Hyakunin isshu, 1235), and “New Six Poetry Immortals” (Shin rokkasen, 1505). The Sanetaka verses are all extracted from Jewels of Snow (Setsugyokushu, n.d.). The interest in Teika reflects his centrality in the medieval literary tradition and posthumous links to noh, tea ceremony, and calligraphy. Kenzan was in agreement with his contemporaries in frequently using “Birds and Flowers of the Twelve Months” (Junikagetsu waka, 1214), originally included in Shui guso. As for Sanetaka, there is a tenuous connection to the Mikohidari line of poets descended from Teika, and Sanetaka is renowned in the tea ceremony for instructing Takeno Joo (1502-55) in Teika’s poetics; additionally Kenzan probably favored Sanetaka for the topics of his poems, especially “poems on things” (daiei) that were readily adaptable to pictures. Pictorialization of waka (uta-e) accelerated in the mid-seventeenth century after a long hiatus. Decoration on Kenzan’s Teika twelve-month dishes relate closely to painted versions, especially those in an album in the Idemitsu Museum bearing the signature of Kano Tanyu (1602-74). Other poetic vignettes have a basis in the kai-e (literally “poem-meaning picture”), abbreviated scenes that first appear around 1660, inserted above portraits of classical poets (kasen-e) also associated with Tanyu. The kai-e becomes a fixture in illustrated manuals from the 1670s, exemplified by Hishikawa Moronobu’s Single Poems by One Hundred Poets, with Commentary (Hyakunin isshu zosansho, 1678). The simplification and modularizing tendency in the kai-e commended it to ceramic décor. Befitting a man of letters, Kenzan adroitly manipulated the relationship between the text, picture, and vessel. The permutations include 1) dishes with picture on the front and poetry on the back, 2) dishes with picture and poetry on the front, 3) paired dishes with pictures and the first and second halves of a poem on the respective halves, 4) the same as previous but without pictures, and 4), dishes with (complete) poems only. The strategy reflects the social aspect of the waka tradition, rooted in uta-awase but with playful innovations like cards (karuta) reaching maturity in the seventeenth century. Kenzan and his brothers participated in non-guild noh drama (tesarugaku) from an early age, and recent scholarship has underlined the influence of noh on Korin’s art. Kenzan’s experience is revealed in sets of dishes decorated with noh-drama themes. The front of each dish is painted with an evocative scene or object related to a specific play and the back features an excerpt from that play’s script. An originary model for the pictures can be found in hand-painted covers of deluxe noh libretti (utaibon) from the early seventeenth century, but Kenzan’s schematization parallels the aforementioned kai-e. The calligraphic excerpts on the back of the dishes are key passages from the respective plays: these excerpts, called ko-utai, were expected recitation material for celebratory and social events, and ko-utai compendia were best-sellers in Kenzan’s day. The authors have tried to demonstrate that Kenzan wares with Japanese literary themes are closely related and indebted to early modern appropriations of classical Japanese literature and trends in its pictorialization. However the versatile design strategies—particularly the sensitive deployment of writing, centered around calligraphic inscriptions from Kenzan’s own hand—must be seen to reflect the sensibilities and skills of Kenzan himself. This helps to explain why Edo-period Kenzan imitators rarely attempted to work in this mode.