著者
菊池 勇夫
出版者
宮城学院女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

基礎的な作業として近世の文献史料から田村麻呂伝説および義経伝説の記述を抜き出して蓄積した。また、義経の蝦夷渡りを物語る津軽地方三厩における数種類の観世音縁起の成立事情、仙台藩の儒医相原友直による義経蝦夷渡り説に対する考証的な批判、松浦武四郎における義経=オキクルミ説への親和的な態度と同化?義に果たした役割、仙台藩領における田村麻呂の悪路王・高丸・大武丸征伐物語の変遷、などについて解明した。
著者
菊池 勇夫
出版者
宮城学院女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

江戸時代の東北地方は何度か大きな飢饉を経験している。天保の飢饉はその一つである。本研究では被害の大きかった三つの藩、すなわち仙台藩、八戸藩、秋田藩をおもに取り上げた。飢饉の現実に迫るために、飢饉下における人々の生活困難と生命危機について、全体的な考察を行った。具体的には、米価高騰、米騒動、逃亡、乞食、飢え死に、流行病、などといった問題である。さらに、飢饉の記憶や教訓についても検討を加えた。
著者
井上 富美子
出版者
宮城学院女子大学
雑誌
奨励研究
巻号頁・発行日
2016

【研究の目的】本研究は、Banduraによって提唱された「自己効力感」の視点から、女子大学と共学大学におけるキャリア教育の相違を明らかにするとともに、女子学生にとってより良いキャリア教育の在り方を提案することを目的とした試行的調査研究として実施した。【研究方法】1. キャリア教育内容を明らかにするため、女子大学(46校)・共学大学(17校)にアンケート調査を実施。2. キャリア教育の成果と課題について女子大学・共学大学から各2校を抽出し、聴き取り調査を実施。3. 大学での学びと「自己効力感」の関係についてWEB調査(女子大卒104名・共学大卒194名)を実施。【研究成果】アンケート調査の回答数は女子大学14校、共学大学6校であった。教育内容に関する回答が空欄という学校が多く、本調査では、キャリア教育の実態を明らかにすることはできなかった。そこで、キャリア教育を正課授業として位置づけている大学4校の聴き取り調査を実施。調査対象者は、キャリア教育担当教員もしくはキャリアセンター職員。偶然にも、うち3校は2010年度文部科学省就業力育成支援事業(就業力GP)採択プログラムを発展させた形で運営しており、大学設置基準の趣旨を十分に理解した取り組みがなされていた。さらに、4校ともにアクティブラーニングを意識し、実践を通じて学生自らが考え行動できるようになることを教育目標としていた。また、今回調査した女子大学では、女性特有のライフイベントを踏まえた進路選択について触れていたが、共学大学では特に触れていなかった。WEB調査では、大学卒業後及び現在の正規雇用就業者数を比較すると共学大学出身者の割合が高かった。自営業および経営者を含むと女子大学出身者の割合の方が高くなった。また、大学卒業後就職した職場に現在も勤務し、職位が部長・取締役クラスになっている割合は共学大学出身者が高かったが、転職を経験しながらも正規雇用で就労を継続している割合は女子大学出身者の方が高いことなどがわかった。今後、年代・地域・設置区分(国立・私立)等を変数とした詳細な分析を行い、課題を整理していく。
著者
平川 新
出版者
宮城学院女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

江戸時代は、武士と百姓との身分が厳格な社会であり、兵農分離体制が貫徹した社会だというのが戦後歴史学の通説になっていた。豊臣秀吉による刀狩令以来、百姓は武装解除され、武士以外の帯刀は一部の特権者しか許可されていなかった、すなわち武力は武士の独占するところであり、百姓は武器を剥奪されて耕作に専念する体制になったという理解である。だが本研究によって、江戸時代には初期から幕末にいたるまで列島全域に大量の庶民剣士が存在してきたことを発見し、その存在を確認することができた。そうした実証をふまえて、江戸時代は「庶民剣士の時代」であることを完全に論証することができた。
著者
菊池 勇夫
出版者
宮城学院女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

東北地方北部の盛岡藩・八戸藩を中心に、馬・狼・猪・焼畑・大豆生産およびその他の要素を含めた生態系・環境について相互連関的な考察を行うことが研究の大きな目的であった。まだ、研究途中にあるが、この3年間のおもな成果は、1749年(寛延2)の八戸藩における猪飢饉の実態について明らかにし、その背景や要因について考察し、報告書にまとめることができたことである。1749年の飢饉は冷害型凶作が原因であり、猪荒れはそれほどではないという批判があったが、1740年代の猪荒れがかなりの作物被害を与えており、1749年がそのピークに達していたことは事実であり、猪荒れを過小評価できないことを論証した。ではなぜ、猪が異常繁殖したのか。そこには、地域の主要な産業であった大豆生産と馬産の2つが大きくからんでいた。大豆は商品作物として、17世紀末から江戸市場向けに生産・移出されるようになり、焼畑を含む山野の開発が進み、猪に襲われやすい耕作環境になった。また、藩牧および民間における馬産も展開したが、馬産にとっての大きな障害は馬が狼に襲われることであった。マタギ(鉄炮猟師)を動員した狼狩りによって、天敵のいなくなった猪が急増したと推測される。猪飢饉は、開発による生態系の破壊が招いた典型的な災害であったと評価することができる。以上の主論文のほかに、八戸城下に居住していた安藤昌益の農本的あるいはエコロジカルな思想形成が、地域の飢饅・風土的環境と密接に関わっていたことを論じた論文、各藩が幕府に届け出た被害高である損毛高の算出根拠について検討した論文、鳥獣害の被害を食い止めるための鳥追いの労働が誰によって担われてきたのか明らかにした論文など、この間に作成し、報告書収録または別途論文として発表することができた。