著者
山﨑 けい子
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.62, pp.59-70, 2015

これまで山崎他(2009)(2011)では,外国籍等の子どもたち支援のひとつの方向性を示すべく,翻訳教材を作成する背景理論,過程,成果などを述べて来た。山崎他(2011)では,4年間の実践を,『どっちか勉強する?日本語?母語?:小学校国語教科書翻訳教材(光村図書 小学校「国語」教科書4年生準拠)』発刊という形に収束させるにともない,「このような言語学習環境のデザインが実際にどのように機能したのか,検証と考察を行な」い,「散在地域の外国籍年少者日本語言語学習の支援モデルの試案をまとめ」ている。本稿では,その後,この発刊された翻訳教材が,実際にどのような求めに応じて送付されたかを分析する。現実のニーズの分析をすることで,その重要性と課題を探ることが本稿の目的である。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.67, pp.31-60, 2017

本訳注は『富山大学人文学部紀要』第66号(2017年2月)掲載の「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(6)」の続編であり,日本語訳する範囲は底本(D126写本)のp.165/fol.83aの1行目からp.199/fol.100aの20行目までである。前号で訳出されたように,カシュガル・ホージャ家イスハーク派の軍隊はウシュにおいて,同家アーファーク派のホージャ・ブルハーン・アッディーン側の軍勢に敗れ,さらにカシュガル城市も奪われた。カシュガルにおいて「統治の王座」に就いたホージャ・ブルハーン・アッディーンは,軍勢ととともにイスハーク派の最後の牙城,ヤルカンドへ向かった。そして,ヤルカンド城市において両軍の戦いが始まった。本号では,イスハーク派のホージャ・ジャハーンを長とするヤルカンド陣営の内部状況を中心として,ヤルカンド城市の攻防をめぐる両勢力の和戦両様の動向と,イスハーク派側の敗北が語られる。
著者
森賀 一惠
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.117-144, 2020-08-20
著者
藤田 秀樹
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.60, pp.109-123, 2014-02-17

「父子関係」は,クリント・イーストウッドの1990年代以降の監督作品を彩る重要な主題のひとつと言える。本論では,「父子関係」の物語の系譜に連なる作品のひとつである『グラン・トリノ』を取り上げる。この映画では,イーストウッド演ずる実の息子たちと疎遠な状態にある老人と,彼の隣家に住み父親が不在で自分以外は女性ばかりという家族の中に置かれているせいか,どこか男性性が希薄,脆弱で周囲から孤立気味の若者との関係性に焦点が当てられる。老人は若者に男としての立居振舞いを,さらには仕事という形で社会に居場所を見出せるようにもの作りや修理の技術を教え込み,その過程で二人の間に父子的な関係性が醸成されていく。この二人の「父子関係」はインターレイシャルなものなのである。そして物語の大団円において,老人はこのアジア系の若者の未来を守るために自らの身を犠牲にして凶弾に倒れ,さらに,彼が宝のように愛蔵し作品のタイトルにもなっているフォード社製造の自動車を若者に遺贈したことが明らかになるとともに物語は閉じる。父が自らの遺産や使命を息子に託するということは父子関係を特徴づけるモチーフのひとつだが,この作品ではそれが白人の「父」とアジア系の「息子」との間で成されるのである。イーストウッド自身がこの映画について,アメリカの「現状に結びついているともいえる」ことだが「ひとつの時代の終わり」が描かれている,と語っているように,「転換」もしくは「変わり目」といった気配が物語のそこかしこに立ち現れる。そしてそれは,この映画が制作された当時の時代状況を少なからず反映するものなのであろう。何かが廃退し終焉を迎えようとしており,別の何かがそのあとを継ごうとしている。そしてそのような事態は,「継承」という位相を通して父子関係の主題に接続する。とすれば,「息子」が「父」から継承し作品のタイトルにもなっている「グラン・トリノ」は,単なる一車種を超えた意味を帯びたものに他なるまい。以上のようなことを念頭に置きつつ,『グラン・トリノ』という映画テクストを読み解くことを試みる。
著者
赤尾 千波
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.66, pp.149-161, 2017

昨2015年,筆者の黒人ステレオタイプに関するこれまでの研究をまとめ『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』(富山大学出版会)として上梓した。その中で,アフリカン・アメリカン女性作家ヌトザケ・シャンゲ(Ntozake Shange, 1948-)による舞踏詩for colored girls whohave considered suicide / when the rainbow is enuf(1975 邦訳『死ぬことを考えた黒い女たちのために』以下,rainbow is enuf と表記)と,その映画版For Colored Girls(2010)を比較した。同書では,映画化によって現れ出た往年の黒人ステレオタイプの「残像」としてマミーとムラトーのイメージを指摘したのであるが,紙面の都合上論じきれなかった部分を補完して本稿でさらに掘り下げ,論じたい。それに先立ち,Ⅰにおいて,『アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ』で論考した,筆者のステレオタイプ研究の根幹となる五つの黒人ステレオタイプについて改めて紹介し,研究を振り返りたい。
著者
鈴木 景二
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.363-390, 2013-02-15

小牧長久手の合戦で対時した織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉が講和した天正12年(1584)の冬、秀吉への服従を潔しとしない富山城主佐々成政は、敵対勢力に固まれている状況にもかかわらず城を出て、信濃を経由し遠く浜松の家康のもとに向かった。真冬の積雪の多い時期に中部地方の山間部を往復したこの行動は、『太閤記』以来「さらさら越え」といわれ、戦国武将の壮挙として知られ、近年、そのルートや歴史的背景などの研究が相次いで発表されている。筆者も『雑録追加』所収文書を分析した佐伯哲也氏の研究に触発されて、そのルートについて検討し、成政の浜松往復には上杉氏重臣山浦国清(村上義清子)の弟である村上義長が関わっていたこと、その道筋は越後(糸魚川付近)を経由したと推定されることを述べた。その後、道筋の推定に対して服部英雄氏から厳しい批判を受け、久保尚文氏からは別案が提起された。さらに深井甚三氏からも疑問点が提示されている。また、道筋を究明することの歴史研究上の意義について言及しなかったが、最近、萩原大輔氏が成政の浜松行前後の徳川家康との関係を再検討し、豊臣秀吉の北陸遠征の研究のなかに位置付けている。このような諸研究をふまえ、本稿では佐々成政の浜松往復の道筋について新出史料を加えて再論し、天正十二年冬前後の成政と村上義長および家康をめぐる政治過程について検討することとする。