著者
澤田 稔
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.3, pp.198-218, 1988-03-31

Four documents presented in this article are preserved in the Basbakanlik Osmanli Arsivi (BOA) in Istanbul. The classification and numbers of the documents are: (1): Hatt-i Humayun Tasnifi, No.56129 (2): ditto ,No.56206 (3): ditto ,No.56118 (4): ditto ,No.56210 According to the catalog kept in the reading room of BOA, the date of the four documents is 1204 A.H., imperial decrees (hatt-i humayun) written in the upper spaces of the documents (1)(3) are ascribed to Sultan Selim III, and as to kind of the documents, (1)(3) are telhis, (2) is pusula, (4) is takrir. We consider (1)(2)(3) to be written by a sadrazam, (4) was written by a Naksbendi seyh, named Seyyid Yahya. The documents are concerned with an Uzbek named Dost Muhammed Bahadir. He was originally from Kokand in Central Asia, and in the service of the ruler of Kokand, namely Narbuta Beg. He won fame for his activity in some battle fields, and had made pilgrimage to Mecca. Dost Muhammed again intended to make pilgrimage to Mecca, and departed from Kokand for Istanbul in Ramazan 1202 A.H.(1788 A.D.). But he gave up the idea of going on to Mecca after arriving in Istanbul, and wished to participate in an Ottoman war against infidels. He made petition to the Ottoman government for granting horses, guns, swords and traveling expenses to him and his four comrades. Seyyid Yahya who was a Naksbendi seyh of an Uzbek tekke (zaviye) near Sokollu Mehmed Pasa mosque at Sultanahmed district in Istanbul (BOA, Cevdet Tasnifi, Evkaf No.16241), wrote about the career of Dost Muhammed in a petition to the Ottoman sultan, probably Selim III. The Ottoman sultan instructed a pasa to send Dost Muhammed and his comrades to the battle field, giving them traveling expenses. Thus the four Ottoman documents not only relate the personal history of Dost Muhammed, but also show a function of an Uzbek tekke in Istanbul. The outline of the documents, Japanese translation, modern Turkish transcription and the Ottoman text are presented in this article.
著者
澤田 稔
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.29-50, 2016-05-31 (Released:2017-06-01)
参考文献数
19
被引用文献数
1

本稿の目的は,グローバル化に伴う知識・能力(観)の再編が各国で加速する現状にあって,この動向がマイノリティ集団にとってどのような意味を持つのかという問いに対する一定の答えを,アメリカ合衆国で批判的教育学と呼ばれる分野の研究成果を踏まえるとともに,初等中等教育のカリキュラム・教育方法に関する実践事例を参照することによって明らかにすることである。考察には以下のような手順をとる。まず,本考察の理論的基盤となる批判的教育学の特質と,本稿が採用する視座の位置付けを明らかにするために,アメリカにおけるカリキュラム論と批判的教育学との関係を整理して,批判的教育学内部における重要な論争点を取り上げ,その意義について考える。その上で,近年の批判的教育学でも言及されることが多いフレイザーによる「再配分の政治」と「承認の政治」という正義論の概念を導入し,これを再解釈して教育実践論に適用することで,グローバル化による知識・能力の再編に対応するとともに,不平等の拡大再生産の是正に資するカリキュラム・教育方法論の可能性について論じる。さらに,このような社会適応・地位達成の実現を目指す教育だけでなく,民主主義社会における,より積極的で活動的な主体性の涵養を目指す批判的市民性教育の可能性についても論究する。最後に,こうした可能性を実践的に具現化したとみなすことができる事例を取り上げる。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.69, pp.33-50, 2018

本号は,『富山大学人文学部紀要』の第61 号(2014 年8月)から第68 号(2018 年2月)にかけて連載した「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(1)~(8)」の本文テキストの索引である。本書『タズキラ・イ・ホージャガーン』には270余りの聖・俗の人物名をはじめ地名,集団名など数多くの固有名詞や特殊用語がみられる。本書の活用をはかるため分類索引を作成した。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.67, pp.31-60, 2017

本訳注は『富山大学人文学部紀要』第66号(2017年2月)掲載の「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(6)」の続編であり,日本語訳する範囲は底本(D126写本)のp.165/fol.83aの1行目からp.199/fol.100aの20行目までである。前号で訳出されたように,カシュガル・ホージャ家イスハーク派の軍隊はウシュにおいて,同家アーファーク派のホージャ・ブルハーン・アッディーン側の軍勢に敗れ,さらにカシュガル城市も奪われた。カシュガルにおいて「統治の王座」に就いたホージャ・ブルハーン・アッディーンは,軍勢ととともにイスハーク派の最後の牙城,ヤルカンドへ向かった。そして,ヤルカンド城市において両軍の戦いが始まった。本号では,イスハーク派のホージャ・ジャハーンを長とするヤルカンド陣営の内部状況を中心として,ヤルカンド城市の攻防をめぐる両勢力の和戦両様の動向と,イスハーク派側の敗北が語られる。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.81-106, 2016

本訳注は『富山大学人文学部紀要』第63号(2015年8月)掲載の「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(3)」の続編であり,日本語訳する範囲は底本(D126写本)のp.78/fol.39bの11行目からp.108/fol.54bの6行目までである。本号の内容の要旨は以下のとおりである。前号の日本語訳注(3)で叙述されているように,カシュガル・ホージャ家イスハーク派のユースフ・ホージャムはカルマク(ジューンガル)の本拠地イラ(イリ)からカシュガルに逃れ帰ったが,本号では,まず,カシュガルのユースフ・ホージャムに対するカシュガル,ウチュ,アクス等に拠るベグ(豪族)たちの行動,とりわけ,カルマクに内通するベグたちの陰謀について語られる。この陰謀の背景にあるカルマクは,王位をめぐるダワチとアムルサナーの抗争により弱体化していたが,ユースフ・ホージャムの離反の動きを封じるために使者をカシュガルに送る。しかし,その使者をはじめカルマクたちは武装したユースフ・ホージャムの勢力に圧倒され,カシュガルをあきらめてヤルカンドに向かった。
著者
澤田 稔
出版者
東洋史研究會
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.45, no.4, pp.823-829, 1987-03-31
著者
松尾 知明 乾 美紀 澤田 稔 柴山 真琴 津村 公博 徳井 厚子 野崎 志帆 馬渕 仁 見世 千賀子 森茂 岳雄
出版者
国立教育政策研究所
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

本研究では、外国人児童生徒教育の現状及び最善の実践を把握するとともに、これらの取り組みを諸外国の多文化教育の視点から批判的に比較検討することを通して、日本版の多文化教育モデルの構築をめざすことを目的とする。(1)多文化教育の理念と枠組み(4論文)、(2) 多文化教育と学校(4論文)、(3) 多文化教育と地域(3論文)を提示するとともに、まとめとして、多文化共生の実現に向けたプロセスを日本社会の構築→脱構築→再構築として整理した。