著者
小助川 貞次
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.153-165, 2016

本稿では,訓点資料は重層性を持つ立体構造であるという基本認識の上に立って,これらの問題点について,近時刊行された東洋文庫善本叢書第5巻(勉誠出版,2015年2月)所収の国宝毛詩を取り上げて具体的に論じ,新たな訓点研究の方法を探りたい。なお本稿で取り上げる用例については,すべて上記善本叢書で検証可能なので,図版は掲げない。
著者
藤田 秀樹
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.233-245, 2016

『シザーハンズ』は,同質的な共同体とそこに闖入した強い異質性,他者性を帯びた「異形の者」との対峙・相克の物語と言えそうだ。エドワードの手=鋏にはさまざまな意味が重層的に織り込まれているように思われるが,その中で最も明確なのは,彼の異質性,他者性を際立たせる烙スティグマ印というものであろう。彼はこの手=鋏で新しいものを次々と創出し,住民たちに非日常的,祝祭的な刺激と興奮をもたらすことで束の間,住宅地を活性化させるが,やがて災厄をもたらす危険でおぞましい存在として排除される。彼を取り巻く状況のこのような起伏は,共同体に対して異質なものが否応なく帯びてしまう両義性を,角度を変えて見るなら,共同体が異質なものに対して抱くアンビヴァレンスを,浮き彫りにするものではあるまいか。以上のようなことに焦点を当てつつ,『シザーハンズ』という映画テクストを読み解くことを試みる。
著者
田畑 真美
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.58, pp.1-22, 2013

本稿の大きなねらいは「国学」という学問について考えることであるが,現代の我々が一様に「国学者」として括る学者達ことに近世の学者達は自身の学問を様々に言い表していた。近世では「和学」(倭学)が主流であったようであるが,この呼称を「国学」の呼称同様忌避する者も多くいた。たとえば矢野玄道や,今回主に取り上げる大国隆正は,『古事記』序の記述に基づき「本学」もしくは「本教学」と呼び,先述の宣長も,「国学」及び「和学」の呼称を「いたくわろきいひざま」(同p.21)と忌避し,「古学」という語を使用している。かれらが「和」や「国」を嫌い「古」や「本」という語を使用する意図はどこにあるのだろうか。それにはおおよそ2つの意向があったといえる。ひとつは,和歌の研究に留まらず,人間(日本人)のよりどころとしての古の道の探究こそが学問であるという認識,もうひとつは,「国」や「和」にまとわりつくニュアンスの思避である。後者は異国を意識した異国に対しての相対的呼称への忌避でありこの感覚は我が国の学問こそが真の学問であるという認識に裏打ちされている。これら2つの意向はしかし結局のところ「道」という人間存在にとっての拠り所の探究が我が国においてなされているもしくはその探究の源が我が国にこそ残されているというふうに考えれば1つに集約していく。この意向をさしあたり自らを「国学」の徒とする者が共有する,と仮定すれば,彼らの使用する「古」や「本」の語は次のような意味を帯びると考えられる。つまりそこに根差すべき基盤,もしくは戻るべきキャノンのありかということである。このことは特に「本」という語において,顕著に現れているように考えられる。そこで本稿では,幕末の国学者大国隆正を取り上げ,その「本学」の位置付けを「本」のニュアンスに即して明らかにすることを目的とする。またそれを通して,隆正自身が「国学者」としての立ち位置をどう定めていたのか何をねらいとして学びをしていたのか,その輪郭を明らかにしたい。そしてそのことを近世から近代に連なる「国学」の立ち位置を探る1つの手がかり,ひいては「国学」という学問そのものを「近代」において考える際の糸口としたい。
著者
森賀 一惠
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.60, pp.41-49, 2014

『説文解字』に見える「亯」(五篇下亯部)は「亨」、「享」、「烹」の古字である。言い換えれば,「亨」、「享」、「烹」は同源である。「亯」字段注の「其形,薦神作亨,亦作享,飪物作亨,亦作烹,易之元亨,則皆作亨,皆今字也(その形,神に薦めるは亨に作り,亦た享字に作る。物を飪るは亨に作り,亦た烹に作る。易の元亨は則ち皆な亨に作る。皆な今字なり)」という記述によれば,「亨」は「享」、「烹」に通用するが,「享」、「烹」はそれぞれ「薦神」、「飪物」の意の專用字であるということになる。現代漢語(普通話)では「亨」はhēng 專用,「烹」はpēng 專用,「享」はxiǎng 專用と,はっきりと書き分けられているが,古くは「亨」は「享」、「烹」に通用していたようで,『廣韻』でも「亨」は脝(許庚切)小韻、磅(撫庚切)小韻、響(許兩切)小韻に見え,釋義はそれぞれ「通也」、「煑也」、「獻也,祭也,臨也,向也,歆也」となっており,「享」、「烹」は「亨」の或體字扱いである。『羣經音辨』(以下,『音辨』)の「亨」音義解釋と『經典釋文』(以下,『釋文』)の「亨」の注音状況については,概述したことがあるが,本稿では,同源の「享」「烹」も併せて『釋文』での注音状況を調査し,『音辨』の「亨」の音義解釋の妥当性を検討したい。
著者
中島 淑恵
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.57, pp.165-189, 2012

筆者は近年,ルネ・ヴィヴィアン(1877-1909)の作品における日本文化の影響を中心に論考を行なってきたが小論もその一部を成すものである。ルネ・ヴィヴィアンの生きたベル・エポックのヨーロッパ,とりわけパリやロンドンでは,数次の万国博覧会を経て絵画や工芸上のジャポニスムの波はすでに退潮期を迎え,日本趣味はごくありふれたものとなっていたとされているが,それでも日本の文物に対する興味は,様々なかたちで文学作品に投影されており,それはヴィヴィアンにおいても例外ではない。というよりもむしろ,ジャポニスムの影響は,美術や工芸における直接的な影響よりも少し遅れて,より深く広く文学の世界へと浸透して行ったのではないかと思われる。小論は,ヴィヴィアンが,当時恋人であり保護者(パトロンヌ)でもあったエレーヌ・ド・ジュイレン・ド・ニーヴ、エルト男爵夫人(Hélènede Zuylen de Nievelt,1863-1947)と共同の筆名であるポール・リヴェルスダール(Paule Riversdale)として1904年の1月と9月に発表した,中篇小説『二重の存在(L'Être double)』および、掌編小説集『根付(Netsuké)』において言及される日本の3人の女流詩人,すなわち小野小町,清少納言,加賀千代女について,これらの人物についての知識が,ベル・エポックのパリにどのようにもたらされ,それは作品にどのような効果をもたらし,ひいてはリヴェルスダールすなわちルネ・ヴィヴィアンの創作活動にどのような影響を及ぼしているのかということについて論考を試みるものである。
著者
徳永 洋介
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.1-19, 2007-08-28 (Released:2016-02-15)