著者
池田 真治
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.1-16, 2018-08-20

本稿では,ライプニッツの延長概念を『ライプニッツ - デ・フォルダー往復書簡』に分析する。第1節ではまず,デ・フォルダーとの論争の経緯を確認する。論争の背景には当時の活力論争があり,それは実体の本性をめぐる論争へと発展する。そこで第2節では,実体の本性をめぐる論争を検討する。延長を物体的実体の単純本性とするデ・フォルダーに対し,ライプニッツは延長概念が,デカルト派の主張するような単純なものではなく,多数性,連続性,共存性へとさらに分析される関係的概念であるとする。さらに,デ・フォルダーが延長概念の独立認識可能性に基づいて自説を主張しているのに対し,ライプニッツは,実体とその様態に関するスコラ的な議論に基づき,延長を実体から抽象される不完足概念とし,延長概念の独立認識可能性を否定する。第3節では,両者の延長概念を詳しく分析する。デ・フォルダーが延長を,物体が持つ他の特徴に対し論理的に優先する,物体の本性だと主張するのに対し,ライプニッツは,延長は実体の本性を構成するものではなく,むしろ,多数の実体から帰結する拡散や反復といった連続性の特徴をもつ,実体の属性にすぎないとする。すなわち,モナドの多が,延長という一様性に論理的かつ存在論的に優先する,というわけである。ロッジは,ライプニッツの延長概念が,「数学的延長」と「現実的延長」に区別されると解釈する。そこで,第4節では,このロッジ解釈を批判的に検討する。本稿では,ロッジ解釈に対し,数学的延長と現実的延長の区別は,それらの性質の観点からというよりも,むしろ「抽象」という構成の観点から明確になされるものである,と主張する。最後の第5節では,抽象の問題に関する歴史を概略し,実際に,抽象の観点から数学的延長と現実的延長を区別している哲学史的根拠を挙げる。以上を通じて,ライプニッツの延長概念を解明するためには,ライプニッツの抽象の理論を含め,そもそも初期近代における抽象の問題をめぐる議論とはいかなるものか,その全体像の解明が不可欠であることを指摘する。本稿の目的は,そのための視座を提供することにある。
著者
加藤 重広
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.71-156, 1999-08-27

本稿は、先行研究の概要とその問題点について論じた前回稿、加藤重広(1999)を承けて、日本語の関係節構造の成立要件は文法論的な要因のみでは説明できず、語用論的な観点からの分析が必要となるという立場をとり、2つの観点からの分析を行うものである。
著者
金子 幸代
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.262-247, 2014-02-17

森鷗外の文体について澤柳大五郎は、鷗外の文章の清新さは、「畢竟明晰な理知と豊かな詩感と繊細な感受性と勁抜な思索となどさういふ豊富深刻な精神生活に裏付けられた人格に由来する」と称揚しているが、このことは鷗外の文体が書こうとしている作品の内実と深くかかわっていることを示していると言えるであろう。そこで本論文では、鷗外の文体を探るために漱石の『三四郎』(東京・大阪「朝日新聞」明治四十二・九・一〜十二・二十九)と『三四郎』に技癢を感じて執筆した長編小説『青年』(「スバル」明治四十三・三〜明治四十四・八)を取り上げ、鷗外作品の特徴について『三四郎』と比較しながらその内実について具体的に考えていきたい。
著者
澤田 稔
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.81-106, 2016

本訳注は『富山大学人文学部紀要』第63号(2015年8月)掲載の「『タズキラ・イ・ホージャガーン』日本語訳注(3)」の続編であり,日本語訳する範囲は底本(D126写本)のp.78/fol.39bの11行目からp.108/fol.54bの6行目までである。本号の内容の要旨は以下のとおりである。前号の日本語訳注(3)で叙述されているように,カシュガル・ホージャ家イスハーク派のユースフ・ホージャムはカルマク(ジューンガル)の本拠地イラ(イリ)からカシュガルに逃れ帰ったが,本号では,まず,カシュガルのユースフ・ホージャムに対するカシュガル,ウチュ,アクス等に拠るベグ(豪族)たちの行動,とりわけ,カルマクに内通するベグたちの陰謀について語られる。この陰謀の背景にあるカルマクは,王位をめぐるダワチとアムルサナーの抗争により弱体化していたが,ユースフ・ホージャムの離反の動きを封じるために使者をカシュガルに送る。しかし,その使者をはじめカルマクたちは武装したユースフ・ホージャムの勢力に圧倒され,カシュガルをあきらめてヤルカンドに向かった。
著者
小野 直子
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.64, pp.137-152, 2016

本稿では,移民の医学検査の中でも特に精神医学に焦点を当て,革新主義期アメリカにおいて精神医学が精神疾患者(the insane, lunatic)の境界線だけでなく,国民の境界線を引くのに果たした役割を明らかにすることにより,身体・精神の管理と福祉制度の関係について考察する。ダウビギンの研究は,移民制限についての精神科医の発言や活動に主要な焦点が当てられているが,本稿では精神科医が移民制限を主張した社会的・経済的・医学的背景を明らかにすることを目的とする。そのために第一に,アメリカにおける精神疾患者に対する処遇の変遷,及び精神疾患に対処する「専門家」としての精神科医が台頭する過程を明らかにする。第二に,アメリカの移民政策において精神疾患が排除の対処となった背景と,精神科医の移民政策への対応を検討する。
著者
山﨑 けい子 初鹿野 阿れ
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.66, pp.31-42, 2017

日本語教師養成のため,教育実習や模擬授業等の指導を行う立場として,日頃感じている印象がある。経験のない,あるいは浅い日本語教師を目指す者が,教師として授業を進める際に,教師と学習者の一対一のやり取りになりがちであるという点である。例えば以下のような例をみてみよう。 <教育実習生と学習者のやり取りの例> 教育実習生:Aさん, 昨日何をしましたか. 学習者A :昨日::, テレビを見ます. 教育実習生:(.)見ました. 学習者A :見ました. 教育実習生:はい, そうです. 教育実習生が「Aさん, 昨日何をしましたか」と指名質問し,学習者Aが「昨日::, テレビを見ます」と答え,そこに教育実習生が誤りを認識しても,遅れがちに訂正をする。学習者Aが「見ました」と繰り返して理解を示すと,「はい, そうです」と評価のみをする。その周りの学習者たちはただ聞いているだけでこのやり取りの外に置かれ,教師はクラス全体に対応することにはなっていないという点である。ベテランの日本語教師であるならば,「はい, そうです」ではなく,「はい, 昨日, テレビを見ました」と繰り返し,耳から入れるインプットの量を増やし理解を確実にしようとすることもあるだろう。加えてその後,コーラスでその他の学習者に繰り返しを求めるかもしれない。 本稿の目的は,教師主導の活動において日本語学習者の発話の誤りに訂正を加えるという,基本的な授業会話の技術に着目し,経験のある日本語教師がどのように行っているのかを詳細に示すことにある。そのために,教師が,日本語学習者の発話の誤り(発話,文法,語彙など)に対して,訂正を開始,訂正,終了する,一連のやり取りを,会話分析的手法を利用し示したい。
著者
恒川 正巳
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.60, pp.95-108, 2014

本稿では,『眺めのいい部屋』の別バージョンともいうべき「新ルーシー」を,その前後に創作された「旧ルーシー」と『眺めのいい部屋』と比較考察しながら,『眺めのいい部屋』の物語世界が「新ルーシー」によって,どのように拡張されるかを明らかにしたい。とくに登場人物に付与された性質の3作品間での変化や移動を分析することにより,物語世界の構造と登場人物の性質が連動していることを明らかにし,「新ルーシー」には『眺めのいい部屋』に見られるようなハッピー・エンディングを拒む特質があることを確認する。
著者
小野 直子
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.62, pp.163-186, 2015

「精神薄弱者」についてはこれまで,障害者史,教育史,医学史,そして優生学史において,その概念,政策,教育,治療などの歴史が明らかにされてきた。本稿では,諸科学における「精神薄弱者」の定義とその対処法をめぐる議論から,19世紀末から20世紀初頭において科学的専門職が台頭する過程を検討する。