- 著者
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棚瀬 孝雄
- 出版者
- 日本比較法研究所 ; [1951]-
- 雑誌
- 比較法雑誌 (ISSN:00104116)
- 巻号頁・発行日
- vol.49, no.2, pp.119-165, 2015
現在,日本企業の海外進出は加速しているが,様々な法務リスクを抱えることが少なくない。とくに,インドは日本の法制と異質な面が多く,しかも,政府や国民も法を利用し,訴追を行うことに積極的であるために,法務や税務面で深刻な争いが生じている。 本稿は,この法務リスクという観点から,インドの労働法制を対象に,比較法的に見た特徴を明らかにしようとするものである。 比較法的視点には,対象となる法を日本法との比較で異同に注意しながら把握するという狭義の比較分析と,その法を社会の中に埋め込まれたものとして理解する機能分析との二つの視点があるが,現在,グローバル市場の影響力が圧倒的に強まる中で,市場の論理から,労働の柔軟化と規律を求める企業と,インドの歴史的な経緯からくる保護主義的,介入的な政治との葛藤が,労働法の作り方,及びその実際の運用を規定している。 取り上げるのは,解雇と争議の法制であるが,一般の解雇は,事業閉鎖の場合も含めて,従業員100人以上の職場では州政府の許可が必要とされており,柔軟な雇用調整を阻害するものとして,産業界からは強い批判を浴びている。ただ,子細に見ると,最初の法案が,最高裁で,濫用的な解雇を阻止するという,正当な目的を超えて経営者の営業の自由を過剰に制約するとして違憲とされて改正された現行法では,手続き的な歯止めも掛けられ,実体面では,日本の整理解雇の法理のような作りとなっている。むしろ,問題は,インドの行政の透明性や効率性がないところで,解雇を政府の許可にかからしめたことにある。また,必要な雇用の柔軟性を得るために労働の非正規化が進み,それが,社会保障が弱いところで,雇用不安や待遇の不満を生み,労使関係の安定を損なっていることも問題として出てきている。 懲戒解雇に関しては,職場の規律違反に対し,労働者を使用者の判断で即時に解雇できるが,一定の社内での事前調査や,書面通知などの手続き規制がある他,日本の解雇権濫用法理に似た規制があり,事後的な救済も一定程度機能している。しかし,懲戒の根拠となる就業規則に,内容的にも,作成手続きにも強く行政が関与し,かつ,その内容が争議行為に絡むものが多く,争議の際に,使用者から参加者に懲戒解雇が乱発される原因ともなっている。また,解雇権の濫用が,インドでは,使用者の不当労働行為として規定され,刑罰が科される作りになっているため,不法とされる懲戒から,争議へと展開していくことも多い。 組合の結成では,インドの場合,団結権は認められ,その干渉を不当労働行為として保護もしているが,しかし,結成された組合には,自動的に団体交渉権は認められず,使用者に自らの力で組合を交渉相手として認めさせる必要があり,最初から,争議含みとなっている。また,刑事免責も,組合が登録されてはじめて認められ,しかも,登録に3ヶ月から1年以上もかかるため,その間は争議行為が事実上行えない。この組合結成の困難は,使用者の組合選別の要求から維持されており,実際の争議も,組合結成と,その使用者の拒否をめぐって行われることが多い。背景には,使用者から見た過激な,共産党系の組合が未だ勢力が強く,日系企業などでは,とくに労使一体の日本的な労務管理を労働生産性向上の鍵と考えていて,この組合結成で大規模な争議になることもある。 争議行為についても,インドの場合,争議抑制のための政府の関与がかなり大きく認められている。まず,争議にあたり2週間前の予告を義務づけ,また,斡旋など手続き期間中は争議が禁止される。さらに,政府がスト中止を命じることができる。こうした労働者の争議権を奪うかのような介入は,すべて公益的な観点で正当化されるが,しかし,それで多くの争議は抑制される反面,インドでは,争議件数では,日本の11倍,労働喪失日数では,実に780倍もの争議が起きている。それゆえにこそ,争議抑制的な労働法も必要となるのであるが,逆に,そうして違法争議の烙印が押されることで,懲戒解雇が大量に出され,警察による逮捕もあって,争議がいっそう過激化するという悪循環に陥っている面もある。 これまで,インド労働法について,表面的な規定の解説はあったが,本稿のような背景にまで踏み込み,規定も細部まで検討して,全体的な特徴を明らかにする研究はなく,インドに進出する日本企業はもちろん,比較法的な観点から,現在のグローバル市場の元での新興国の労働法を理解する理論的な関心にも答えるような分析になっている。