著者
坂本 治也
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
セミナー年報 (ISSN:18822010)
巻号頁・発行日
vol.2019, pp.97-107, 2020-03

第236回産業セミナー
著者
坂本 治也
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
自助・共助・公助の政治学
巻号頁・発行日
pp.1-32, 2022-03-22

JSPS科研費18H00602を受けて行った研究成果から成っている。
著者
植村 邦彦
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
価値変容と社会経済システム
巻号頁・発行日
pp.185-211, 1999-03

チェチェンの分離独立運動への武力介入に動員され、苛烈な戦闘を経験して帰還したロシア軍兵士の間に、「チェチェン症候群」と呼ばれる精神的混乱が広がっている。アフガンとは違って、「相手は同じ言葉を話し、同じ国に属する人々だった」ことが要因の一つだという(1997年2月19日付朝日新聞)。旧ユーゴスラビアの内戦においても、おそらく同じような「症候群」は存在しただろう。同じ言語(セルボ=クロアチア語)を話す、同じ「国民nation」だった人々が、異なる「民族ethnic group」として敵対する。ここ数年にわたって私たちが目撃してきたのは、国際的な階級的連帯を大義としたはずの「社会主義」の幕が下りた後、一つの国家がいくつもの「民族」に解体し、「国民的アイデンティティ」がより小さな規模で新たに再構築されていく姿である。ひとをかつての同胞殺しへと駆り立てる「民族」あるいは「国民」とは、いったい何なのだろうか。「民族/国民」や「ナショナリズム」をどのように理解すべきかという問題は、19世紀と20世紀を通していまなお最大の思想的課題であり続けている。欧米では、「nation, nationality, ethnicity」や「nationalism」に関する研究の蓄積を経て、近年では、「国民nation」を資本主義世界システム内部で形成された「想像の共同体」あるいは「虚構のエスニシティ」ととらえる画期的な研究が現れている。本論文は、近代における「国民的アイデンティティ」の形成を、「想像の共同体/虚構のエスニシティ」の形成という問題視角から検討し、そのうえで、「国民」間の価値序列意識と「国民的アイデンティティ」とがどのように接合しているかを明らかにしようとするものである。そのために、まず最初に、「国民」と「国民的アイデンティティ」をめぐる様々な理論的アプローチを整理し、方法的概念を明確にすることにしたい。これらの研究は、とりわけ1980年代以降には、「人種主義」や「エスニシティ」に関する研究とも重なり合う形で活況を呈しているので、後者に関する理論的アプローチの検討も不可欠になる。第二に、こうして獲得された方法的概念を用いて、「国民」間の価値序列意識と「国民的アイデンティティ」との接合を、近代日本の事例に即して具体的に明らかにしたい。この場合、「国民」意識の形成と「西洋」認識との関連が問題となるはずである。最後に、「国民的アイデンティティ」の中核をなす「ナショナリティ」意識の変容の可能性について、「ナショナリティの脱構築」を掲げる最近の研究を手がかりとして考えてみることにしたい。
著者
植村 邦彦
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
多元的経済社会の展開
巻号頁・発行日
pp.19-48, 2003-03-31

一つの妖怪が世界をうろついている。「帝国」という妖怪が。すでに1997年には、極東の片隅でもこう言われていた。「帝国の到来をめぐる予言が今日ほどさかんだったことはない。しかもそれは、一地域における帝国の誕生ではなく、世界帝国とも言うべきものの出現である(1)」。この「世界帝国」の表象について、『帝国とは何か』の編者の一人である増田一夫は、次のように説明している。「われわれの目前で成立しつつあるかもしれないとされる帝国は、武力制覇によって成立するのでもなく、中心的な核もなく、あくまで匿名であり続けると言われている。このイメージは政治よりも経済、経済よりもコミュニケーションの分野で実際に起こっている事態を想起させる。ピラミッドや樹[ツリー]状の組織ではなく、無限に接続し合い絡み合うウェブもしくはネットワーク。あらゆる地点からのランダム・アクセスの可能性を備えた開かれたシステム。根茎[リゾーム]状の組織。これはドゥルーズとガタリの著作『資本主義と分裂症』において提示されたイメージにほかならない(2)」。そのように述べたうえで、増田は次のように結論を保留している。「そして『帝国』。その到来の予感は、一部の人々の期待を代弁しているにすぎないのかもしれない。……しかし『帝国』は、たんに、国民国家が弱体化してゆくなか、その崩壊の後に来る事態を『混沌』と呼ぶのを忌避して用いられる名にすぎないのかもしれない(3)」。このような叙述からわかるように、最近現れた「帝国」という言説は、イマニュエル・ウォーラーステインによって提起された資本主義「世界システム」論やその上部構造としての「インターステイト・システム」論に取って代わる、新しい世界認識の概念として論じられているのであって、従来の「帝国主義」論や「帝国主義の問題を『意識』に即して見ること(4)」をテーマとする「帝国意識」論とは問題関心が基本的に異なると考えるべきであろう。本論文は、このような意味での「帝国」論の最新の成果であり、2000年にアメリカで出版されるとすぐに大きな話題を呼んだマイケル・ハートとアントニオ・ネグリの共著『帝国(5)』を取り上げ、その内容を紹介したうえで、その理論的な有効性について考えようとするものである。
著者
植村 邦彦
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
価値変容と社会経済システム
巻号頁・発行日
pp.185-211, 1999-03

チェチェンの分離独立運動への武力介入に動員され、苛烈な戦闘を経験して帰還したロシア軍兵士の間に、「チェチェン症候群」と呼ばれる精神的混乱が広がっている。アフガンとは違って、「相手は同じ言葉を話し、同じ国に属する人々だった」ことが要因の一つだという(1997年2月19日付朝日新聞)。旧ユーゴスラビアの内戦においても、おそらく同じような「症候群」は存在しただろう。同じ言語(セルボ=クロアチア語)を話す、同じ「国民nation」だった人々が、異なる「民族ethnic group」として敵対する。ここ数年にわたって私たちが目撃してきたのは、国際的な階級的連帯を大義としたはずの「社会主義」の幕が下りた後、一つの国家がいくつもの「民族」に解体し、「国民的アイデンティティ」がより小さな規模で新たに再構築されていく姿である。ひとをかつての同胞殺しへと駆り立てる「民族」あるいは「国民」とは、いったい何なのだろうか。「民族/国民」や「ナショナリズム」をどのように理解すべきかという問題は、19世紀と20世紀を通していまなお最大の思想的課題であり続けている。欧米では、「nation, nationality, ethnicity」や「nationalism」に関する研究の蓄積を経て、近年では、「国民nation」を資本主義世界システム内部で形成された「想像の共同体」あるいは「虚構のエスニシティ」ととらえる画期的な研究が現れている。本論文は、近代における「国民的アイデンティティ」の形成を、「想像の共同体/虚構のエスニシティ」の形成という問題視角から検討し、そのうえで、「国民」間の価値序列意識と「国民的アイデンティティ」とがどのように接合しているかを明らかにしようとするものである。そのために、まず最初に、「国民」と「国民的アイデンティティ」をめぐる様々な理論的アプローチを整理し、方法的概念を明確にすることにしたい。これらの研究は、とりわけ1980年代以降には、「人種主義」や「エスニシティ」に関する研究とも重なり合う形で活況を呈しているので、後者に関する理論的アプローチの検討も不可欠になる。第二に、こうして獲得された方法的概念を用いて、「国民」間の価値序列意識と「国民的アイデンティティ」との接合を、近代日本の事例に即して具体的に明らかにしたい。この場合、「国民」意識の形成と「西洋」認識との関連が問題となるはずである。最後に、「国民的アイデンティティ」の中核をなす「ナショナリティ」意識の変容の可能性について、「ナショナリティの脱構築」を掲げる最近の研究を手がかりとして考えてみることにしたい。
著者
大津留(北川) 智恵子
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
セミナー年報 (ISSN:18822010)
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.83-94, 2009-03-31

第180回産業セミナー
著者
北原 聡
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
都市経済の諸相
巻号頁・発行日
pp.37-49, 2011-03-31

http://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/books/sousho152.htm
著者
植村 邦彦
出版者
関西大学経済・政治研究所
雑誌
多元的経済社会の展開
巻号頁・発行日
pp.19-48, 2003-03-31

一つの妖怪が世界をうろついている。「帝国」という妖怪が。すでに1997年には、極東の片隅でもこう言われていた。「帝国の到来をめぐる予言が今日ほどさかんだったことはない。しかもそれは、一地域における帝国の誕生ではなく、世界帝国とも言うべきものの出現である(1)」。この「世界帝国」の表象について、『帝国とは何か』の編者の一人である増田一夫は、次のように説明している。「われわれの目前で成立しつつあるかもしれないとされる帝国は、武力制覇によって成立するのでもなく、中心的な核もなく、あくまで匿名であり続けると言われている。このイメージは政治よりも経済、経済よりもコミュニケーションの分野で実際に起こっている事態を想起させる。ピラミッドや樹[ツリー]状の組織ではなく、無限に接続し合い絡み合うウェブもしくはネットワーク。あらゆる地点からのランダム・アクセスの可能性を備えた開かれたシステム。根茎[リゾーム]状の組織。これはドゥルーズとガタリの著作『資本主義と分裂症』において提示されたイメージにほかならない(2)」。そのように述べたうえで、増田は次のように結論を保留している。「そして『帝国』。その到来の予感は、一部の人々の期待を代弁しているにすぎないのかもしれない。……しかし『帝国』は、たんに、国民国家が弱体化してゆくなか、その崩壊の後に来る事態を『混沌』と呼ぶのを忌避して用いられる名にすぎないのかもしれない(3)」。このような叙述からわかるように、最近現れた「帝国」という言説は、イマニュエル・ウォーラーステインによって提起された資本主義「世界システム」論やその上部構造としての「インターステイト・システム」論に取って代わる、新しい世界認識の概念として論じられているのであって、従来の「帝国主義」論や「帝国主義の問題を『意識』に即して見ること(4)」をテーマとする「帝国意識」論とは問題関心が基本的に異なると考えるべきであろう。本論文は、このような意味での「帝国」論の最新の成果であり、2000年にアメリカで出版されるとすぐに大きな話題を呼んだマイケル・ハートとアントニオ・ネグリの共著『帝国(5)』を取り上げ、その内容を紹介したうえで、その理論的な有効性について考えようとするものである。