- 著者
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植村 邦彦
- 出版者
- 関西大学経済・政治研究所
- 雑誌
- 価値変容と社会経済システム
- 巻号頁・発行日
- pp.185-211, 1999-03
チェチェンの分離独立運動への武力介入に動員され、苛烈な戦闘を経験して帰還したロシア軍兵士の間に、「チェチェン症候群」と呼ばれる精神的混乱が広がっている。アフガンとは違って、「相手は同じ言葉を話し、同じ国に属する人々だった」ことが要因の一つだという(1997年2月19日付朝日新聞)。旧ユーゴスラビアの内戦においても、おそらく同じような「症候群」は存在しただろう。同じ言語(セルボ=クロアチア語)を話す、同じ「国民nation」だった人々が、異なる「民族ethnic group」として敵対する。ここ数年にわたって私たちが目撃してきたのは、国際的な階級的連帯を大義としたはずの「社会主義」の幕が下りた後、一つの国家がいくつもの「民族」に解体し、「国民的アイデンティティ」がより小さな規模で新たに再構築されていく姿である。ひとをかつての同胞殺しへと駆り立てる「民族」あるいは「国民」とは、いったい何なのだろうか。「民族/国民」や「ナショナリズム」をどのように理解すべきかという問題は、19世紀と20世紀を通していまなお最大の思想的課題であり続けている。欧米では、「nation, nationality, ethnicity」や「nationalism」に関する研究の蓄積を経て、近年では、「国民nation」を資本主義世界システム内部で形成された「想像の共同体」あるいは「虚構のエスニシティ」ととらえる画期的な研究が現れている。本論文は、近代における「国民的アイデンティティ」の形成を、「想像の共同体/虚構のエスニシティ」の形成という問題視角から検討し、そのうえで、「国民」間の価値序列意識と「国民的アイデンティティ」とがどのように接合しているかを明らかにしようとするものである。そのために、まず最初に、「国民」と「国民的アイデンティティ」をめぐる様々な理論的アプローチを整理し、方法的概念を明確にすることにしたい。これらの研究は、とりわけ1980年代以降には、「人種主義」や「エスニシティ」に関する研究とも重なり合う形で活況を呈しているので、後者に関する理論的アプローチの検討も不可欠になる。第二に、こうして獲得された方法的概念を用いて、「国民」間の価値序列意識と「国民的アイデンティティ」との接合を、近代日本の事例に即して具体的に明らかにしたい。この場合、「国民」意識の形成と「西洋」認識との関連が問題となるはずである。最後に、「国民的アイデンティティ」の中核をなす「ナショナリティ」意識の変容の可能性について、「ナショナリティの脱構築」を掲げる最近の研究を手がかりとして考えてみることにしたい。