著者
飯田 直樹
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2006

本研究は、現代人にとってもっぱら相撲興行というスポーツ娯楽を提供する存在としてしか認識されていない相撲集団が、歴史的には様々な社会的役割を果たしていたことを、大阪相撲という相撲渡世集団に即して明らかにした研究である。天満青物市場など市場社会や蔵屋敷(各藩が大坂に年貢米などを販売するために設けた施設)、さらにはそこで荷役労働に従事した仲仕と呼ばれる肉体労働者、賤民身分(穢多・非人)などと大阪相撲との関係を具体的に明らかにした。
著者
内藤 直子
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(A)
巻号頁・発行日
2006

刀装具蒐集に関する基礎情報として、光村氏が心血を注ぎ完成した『鏨廼花』のデータベース化を行うと共に、作成に当たっての収集情報を書き留めたメモ集を報告書に再録した。加えて、これまで注目されていなかった幸野楳嶺門下の画家との交流及び収集作品の特定を行うための基礎資料を収集し、報告書中にまとめた。今回の研究では、彼のパトロン活動が特に活発であった時期を明治30年代後半期に特定できるのではないかという仮説を提起するに至るとともに、研究過程では新出資料の発見や、既出資料の新たな側面を見いだすに至った。
著者
大庭 重信
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2002

最終年度となる平成15年度は、韓国西部地域を中心に遺跡踏査を行ったほか、これまで収集した資料の解析を行った。その結果、以下のような知見を得るに至った。日本列島と比較した場合、朝鮮半島での初期農耕の多様性の要因は、畠作の比重の高さにある。このような見通しのもと、これまで調査された耕作遺構、出土穀物種子遺体や遺跡の立地条件を分析した結果、朝鮮半島南部地域における青銅器時代の畠作農耕を、1)河辺沖積地などの畠作適地でアワやコムギなどを主用作物としつつ多品目の作物を栽培する規模の大きな畠作、2)丘陵末端で水田稲作を主体としながら、これに付随して小規模かつ少数品目の作物を栽培する畠作に大別した。南部ほどイネ栽培の比重が高く、北部にいくほど畠作物の比重が高くなるという地域差は、具体的には気候や立地などの自然環境に応じて、水田稲作と2つの畠作の形態が複合的に展開した結果ととらえられる。また、生育不適な北部地域や内陸部で出土するイネ資料は1)での陸稲栽培、中世の農書を通じて朝鮮農業の大きな特徴とされる乾燥地農業と湿潤地農業の融合は、2)で歴史的に進行した可能性が指摘できる。さらに、弥生時代になって北部九州を中心に出土する畠作物種子遺体は、2)の畠作が朝鮮半島南部から伝播した可能性がある。一方、青銅器時代前期には、高地に立地する集落で焼畑農耕が行われたという説がある。現地踏査を行った結果、これらの遺跡は総じて四周を低地に囲まれた独立丘陵に立地し、眼下の平地には水田・畠作適地が存在し、必ずしも丘陵での焼畑に限定する必然性はない。逆に、狩猟・漁労などの生業活動とともに農耕は平地側で行われた可能性が高く、初期の畠作農耕は総じて低地部を中心に展開したと考えられる。以上の本研究で得られた成果は、学術雑誌に投稿する予定である。
著者
趙 哲済
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

旧石器の層位を撹乱する原因のひとつである地層の割れ目に関して、野外における観察と室内での分析により、朝鮮半島のソイルウェッジと本州中央部の更新統に見られる乾裂痕、北海道の氷楔痕とを比較し、凍結割れ目と乾裂との構造・形成機構の相違と移行性を検討した。1.朝鮮半島の上部更新統の対比 朝鮮半島のソイルウェッジを含む更新統上部では、割れ目の上限付近で極細粒砂サイズ以下に球状石英をはじめとする球状鉱物が比較的多く認められることにより、風成の黄砂に由来した鉱物である可能性が指摘できる。また、AT火山灰に由来する火山ガラスが割れ目充填物に比較的多く含まれることも明らかとなった。これらのことは、最上位の割れ目が最終氷期極寒期前後に形成されていたことを示唆する。さらに、暗色帯や赤褐色帯を手がかりにして、更新統上部の割れ目を対比し、4時期に区分した。2.割れ目の構造と形成要因 朝鮮半島のソイルウェッジ・カストと本州中央部の乾裂痕は、現地での観察においても、不撹乱試料の研磨面での観察においても、割れ目の最上郡付近を除けば充填物は雨水によるとみられる泥のベインだけであり、ほとんど開口しなかったことが推定される。また、共に垂直方向の割れとともに水平方向の割れも観察された。この割れ目現象は北海道の活動層を伴う氷楔痕には見られない構造であり、周氷河現象の氷楔痕の主たる成因が凍結によるものであるのに対して、ソイルウェッジや本州中央部の乾裂痕は最終氷期の寒冷条件に支配されつつも、乾燥による収縮が主要な成因であったと考えられ、いわゆるソイルウェッジとは異なる割れ目だと結論される。
著者
中野 朋子
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2004

本年度は、結髪師の南登美子氏とともに、大阪歴史博物館所蔵『御ぐしあげ』のうちの7種、つまり「水からやっこ」「まるわ」「三徳わげ」「たてひょうご」「ばひわげ」「よこひょうご」「やよい」の再現を実施、この再現で平成16年度からの再現数が22種となった。結髪再現に臨んでは、それぞれの髪型の特徴および結髪手順や技術的側面等に関する充分な協議を行い、途中、手直しの必要な箇所等についても随時確認・修正を行いつつ制作をすすめた。それらの再現過程はできる限り、デジタルビデオおよび写真による撮影をおこない、今後予定している風俗史研究の検証資料として蓄積した。また平成17年度までの再現作業によって確認できた技術的事項の整理と再検討はじめるとともに、ポーラ文化研究所所蔵「容顔美艶考」等の調査を行ない、結髪と連関性の高い「化粧」の問題について考察を深めた。3月には、結髪再現の検証と基礎研究の成果報告を兼ねて「日本髪の源流を探る-江戸時代の大坂の結髪再現-」を開催し、自髪を使用した場合の結髪の手順等を確認するとともに、江戸時代の大坂の結髪文化の豊かさを広く知ってもらう機会とし、70人を超える観覧者の参加を得るとともに、自髪の結髪工程を確認しながらの撮影を行うことができた。なお、本研究の遂行過程において調査・検討を加えた大坂関連の錦絵から得た新知見を論文としてまとめ発表した(「錦絵に描かれたアットゥシ-大坂へもたらされたアイヌ風俗-」(『大阪歴史博物館研究紀要』第5号、2006年)。今後は、本研究で再現された結髪雛形および結髪工程の記録を博物館において積極的に公開することを予定している(平成19年秋頃)。また、蓄積された調査結果をもとに、江戸時代後期の大坂風俗に関して再検討を加え、成果を論文として報告していく。
著者
船越 幹央
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2002

皇陵巡拝の動向に関して、昨年度に引き続き、各陵およびその周辺における道路等の整備状況、道標等の設置状況などについて現地調査を行い、また関連する文献調査を実施した。昨年度、神代三陵(鹿児島県)のうち可愛山陵・高屋山上陵を調査したが、本年度は残余の吾平山上陵(鹿児島県吾平町)の現地調査を実施した。本研究では、大阪をはじめとする関西の皇陵巡拝団体が各地で道標等の設置にどのように関与していたかが一つの課題となっているが、吾平山上陵の接続道路において、大阪の団体が道標を設置していることが確認された。当該団体は、これまで確認されていない団体であり、その実態については現在不詳であるが今後調査を進めたい。また、関西の天皇陵の接続道路においても各種団体の道標が確認されている。一方、文献調査においても、これまで知られていなかった堺市にも皇陵巡拝団体があることが分かった。この団体は大正末に設立されたものであるが、その組織、構成員、活動内容等の詳細についても、今後調査を進める予定である。さらに、調査の過程で、京都西部の宮内省田邑部に関する文書綴を発見した(個人蔵)。内容は、現地で陵墓を管理する田邑部が宮内省へ提出した書類の写しであり、陵墓の日常管理(現地管理者の雇用、陵墓関係施設の修繕・手入れ、参拝者の日計表など)にかかわるものである。本資料こついては、その重要性に鑑み、所蔵者の同意を得てマイクロフィルム撮影を実施した。内容の分析については、今後他の研究者とも共同しながら進めていく予定である。本年度の調査成果については、昨年度の成果とあわせて、今後論文化するなどして公表していく予定である。
著者
飯田 直樹
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2002

この研究の目的は、主として近代において、大阪周辺の在地社会で相撲興行が開催される際に、どのような集団が関係し、それぞれの集団はどのような役割を果たし、それらの集団はお互いにどのような関係を取り結んでいるのか、ということを明らかにすることである。対象とする地域の範囲は、旧摂津、河内、和泉の三ヶ国とし、特にこれらの地域におけるプロの相撲渡世集団と素人の草相撲集団との関係に注目する。最終年度の今年度は、大阪周辺で開催された相撲興行に関する資料のうち、大阪城天守閣や大阪府立中之島図書館等に所蔵されている相撲番付類、中之島図書館、関西大学図書館などに所蔵されている新聞・錦絵類、大阪相撲行司木村玉之助関係文書、力士山獅子戸兵衛関係文書などの文書類を調査した。その結果、大阪相撲と大阪市中の市場社会との密接な関係、特に仲仕と呼ばれる労働者と大阪相撲との関係性、相撲社会における部屋の構成単位としての重要性、大阪天満宮(天神祭)と大阪相撲との密接な関係などを明らかにすることができた。また、江戸時代において、摂津・河内両国において大阪相撲が相撲興行権を独占していた時期があったことや、在地の草相撲集団の組織の実態についても、対象地域の一部において部分的に解明することができた。以上の研究成果にもとついて、2004年9月18日に大阪市立大学で開催された、大阪市立大学大学院文学研究科COE/重点研究共催シンポジウム「近代大阪の都市文化」において、「大阪の都市社会と大阪相撲」と題する研究報告を行った。また、広く市民に研究成果を公開するため、研究代表者が主担となり、大阪歴史博物館において特集展示「大阪相撲の歴史」を2005年3月9日から4月4日まで開催した。また、関連行事として3月12日に同館において研究代表者が、なにわ歴博講座「大阪相撲の歴史」と題する講演を行った。
著者
寺井 誠
出版者
(財)大阪市文化財協会
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2002

本年度は2回(計10日)の韓国での資料調査と、8回(計16日)の国内資料調査を行った。韓国での資料調査では日本に搬入例の多い全羅道に重点を置いた。この結果、甑や鍋などでも全羅道と慶尚道の違いを把握することができ、今後日本の出土例にも適用できる見通しができた。また、京畿道の遺跡で出土している楽浪系土器についても実見する機会を得た。ロクロを用いている点は楽浪土城のものと共通するが、格子タタキが採用されているなど、異なる点も多い。今後、日本で出土している楽浪系土器についても楽浪郡以外の土器か否かは注意しなければならない。国内調査では壱岐・福岡市・香川県・愛媛県・島根県・神戸市の資料を調査した。特に、これまでも注意していた模倣・折衷土器の情報収集に力を入れ、在来土器に朝鮮半島的要素である格子タタキや耳が加わった土器などを重点的に調査した。その結果、島根県出雲市の中野清水遺跡で全羅・忠清道タイプの両耳付短頸壺を模倣した土器が明らかになり、この種の壺の模倣・折衷例が北部九州に限らないことが明らかになった。なお、日本出土の両耳付短頸壺については6世紀までのものも含めて朝鮮半島からの搬入例や日本での模倣・折衷例について集成し、検討を加えた。さらに、国内での資料調査や報告書による情報収集によって、古墳出現前後の朝鮮半島系土器についてのデータベースを作成した。この作業を通じて、全体的には全羅・忠清道系の土器が多いものの、対馬・壱岐には慶尚道の土器も比較的多いことがはっきりした。また、全羅・忠清道系の土器は日本で楽浪土器が減少し始める古墳時代初頭以降に増加することも明らかになった。今後これらのデータについて研究発表を通じて公表し、学界に寄与したいと考える。なお、本課題研究の成果の一部は、大阪府立弥生文化博物館の平成16年秋季特別展『大和王権と渡来人 三・四世紀の倭人社会』に展示協力することによって、還元することができた。