著者
森 一郎 モリ イチロウ

平成24年1月24日に行われた愛媛大学図書館学術講演会におけるプレゼンテーション資料
著者
李 偉 リ イ Wei Li
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2008-03-19

江戸時代前期の大名庭園に関しては、後の時代に比べて必ずしも必要十分な史料がない<br />場合が多く、庭園史研究を十全に行う上で史料的制約があることは否めない。ゆえに、大<br />名庭園に関して歴史的にも空間的にも不明瞭な点が多いことから、未だに歴史的、造園史<br />的な価値や評価が定まっていないのが現状である。<br /> 日本庭園研究における空間構成の解釈に目を向けると、従来の日本庭園の空間様式に関<br />する研究は、庭園内部の景観と利用の面に論点が集中してきたといえる。それゆえ、園景<br />の細部まで詳細な分析がなされたものの、庭園の景観構成に含まれる藩主の理想といった<br />個人性の影響や、さらには庭園内外の景観を調和するために工夫されたということについ<br />てはそれほど注目されてこなかった。つまり、大名庭園の空間構成を「眺望」という視点<br />から評価する研究はほとんどなかったといえる。<br />本論文では、大名庭園の空間様式をそれに伴う自然や建築空間、人間の心理的空間にま<br />で広げて総合的な考察を試みた。従来もっぱら庭園内部の景観に向けられていた研究の視<br />点を、外部空間へと転換させ、大名庭園の眺望景観に注目し、大名庭園における眺望景観<br />の特徴および変遷を検討することによって、それを導いた社会的、文化的要因にまで考察<br />を進めた。<br /> まず江戸時代における眺望の特質を浮き彫りにするために、庭園の眺望に関する研究史<br />をたどってみた。その結果、各時代の建築様式や、庭園空間の利用法の違いにしたがって、<br />庭園と外部空間とのつながりの姿勢も変貌を遂げていたことが判明できた。庭園の眺望は<br />常に変化発展する過程として認識すべきだと考える。<br />大名庭園における眺望を歴史的に位置付けるために本論文では、庭園の眺望を以下のよ<br />うな3つのカテゴリーに分けて考察を進めることとした。<br /><br />&#9312;たんなる眺望一園外景観を観賞の対象として認識しない、背景である。<br />&#9313;意識的な眺望一園外景観を観賞の対象として認識する。<br />&#9314;借景一園外景観と園内景観を調和させ、一体化した園景として表現する。<br /><br /> そして、江戸時代の大名庭園における「眺望」の特徴を代表的大名庭園の景観構成の考<br />察によって検証を試みた。<br /> 草創期の大名庭園の「眺望」に関しては、江戸初期の代表的造園家である小堀遠州の造<br />園思想を考察した。その結果、今まで指摘された江戸中後期から盛んになってゆく眺望の<br />手法は、すでに江戸初期の遠州の造園主張にその成立の基盤ができていたことがわかった。<br />遠州好みの眺望景観は高い楼からの眺めではなく、木々の間を通して見る眺望、「見え隠<br />れの眺望」の手法が好んで行われたと見られる。<br /> 大名庭園の空間構成は、前時代の庭園様式を受け継ぎながらも、新たな特徴を創造した。<br />江戸で代表的な大名庭園の空間構成について、水戸藩の小石川後楽園、紀伊藩の西園、尾<br />張藩の戸山荘を選出して考察を行った結果、いくつかの特色ある眺望への姿勢が見出だせ<br />る。<br /> 小石川後楽園については、初代藩主頼房との親交が厚かった儒者たちによる漢文史料に<br />注目し、その解読によって初期の景観復元を試みたところ、眺望に関する意外に多くの記<br />述が見られた。初期の後楽園は閉鎖的空間構成に加えて、周囲の景観の眺望も造園上に重<br />要な役割を果たしたことが指摘できる。そして、第一の眺望地点が小廬山であったことが<br />文献より推定された。江戸中期以後、眺望行為が強く現れるのは既往研究の解釈である。<br />だが中期を待たずに初期後楽園に眺望景観を意識的に愛でる意図がすでにあったことを指<br />摘した。後楽園の眺望は園内から直接遠景を観賞するのではなく、松の葉を通して、「見<br />え隠れの眺望」が好んで用いられたことが指摘できる。<br /> 西園の空間構成にも「眺望」の意匠が強く込められていたことが明らかになった。「眺<br />望」行為が園内の複数の地点で行なわれ、特に「望嶽亭」からの富士山の遠望は西園を特<br />徴付ける景観であった。額縁のような表現を用いる人工の「窓」を通しての眺望手法は<br />「窓含西嶺千秋雪」という、いにしえの中国の詩の意境を反映する一方、窓という「額<br />縁」を通して富士山を観賞することは、富士山を突出させる表現である。後楽園の松の葉<br />を通して眺める富士山より一層明白に眺望を意識した景観操作といえよう。西園からの眺<br />望は大名の日常生活に溶け込んで、彼らの豊かな庭園の理想像の一端を反映していたと考<br />えられる。<br /> 尾張藩の戸山荘では、建設された当初から眺望の要素が備わっていたと見られる。戸山<br />荘の中心的建物である餘慶堂に焦点を絞り、そこからの眺望景観の特徴を考察した。その<br />結果・餘慶堂が建てられる当初から富士遠望が庭園の構成要素として考慮されたことが明<br />らかになった。餘慶堂からの遠望特徴は、富士山を観賞するために、ちょうど富士山の見<br />える部分だけ、樹の上を平らに刈り揃え、いわば緑の額縁で富士山を絡めとった形にして<br />いる手法である。しかもその人為性を隠そうとはしていない。むしろそのような作為がお<br />もしろいと見られていたのである。<br /> 園内景観の松の形へのこだわりは、園外の対象物である富士山と同質的に、園内の松を<br />観賞するという、庭園内外景観の一体化が図られていたことの表れである。戸山荘での眺<br />望は後楽園における「見え隠れの眺望」や、西園における「いにしえの意境」への追及よ<br />り、庭園内外景観の一体化が一層明白になったものといえる。眺望が庭園の景観構成の欠<br />かせない一環として認識され、借景に成り立っていたことを検証した。<br /><br /> 大名庭園における眺望景観の形成に関しては、造園の当初からすでに意識されはじめ、<br />徐々に手法が固められていったというプロセスを読みとることができる。江戸の大名庭園<br />において眺望は無視できない要素であり、形式が異なることにせよ、意識的な眺望行為が<br />江戸の前期からすでに発生していたと見るべきである。<br />初期の大名庭園に強く見られたのは漢詩文などを通した中国文化へのあこがれであり、<br />そこから生まれる「眺望」は、見たことがない観念的景観、象徴的景観、心の中の風景と<br />言うべきものであった。しかし、大名庭園全体としては、主に象徴的景観・観念的風景の<br />中から実際の庭園享受を通して現実の景観、園外に広がる風景への眺望がより一層意識化<br />されるようになってきた。<br /> 従来、その空間構成に眺望を見出そうという考えが極めて乏しかった大名庭園の各所に<br />「眺望」が見出された。しかもそれは江戸の時代が進むにつれて、遠方の眺望までも園内<br />に取り込もうとする高度な操作性も含む手法にまで成長していたのである。このような操<br />作された園景の見せ方こそ大名庭園の眺望の特徴であり、園外景観の発見につながる重要<br />な手段である。江戸時代の眺望は徐々に絵画的構成や象徴的景観から外部の自然にも目を<br />向けるようになった。内向きに洗練されてきたといえる日本庭園の伝統的様式に新たな外<br />向きの特色が加えられたといえよう。<br />
著者
森 一郎 森 一郎(1962-) モリ イチロウ
出版者
東京女子大学
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.1-18, 2009-03

In one passage of his The Gay Science, Nietzsche said that to live a life is to let all the dying parts of us and others' successively go to ruin. This cruel thought has a good deal of truth. Our life is indeed a kind of struggle for existence between the older and younger. The history of philosophy may be illustrative of the battle fought by generation after generation. It is, however, also true that a pair of temporally far located generations can build up a close connection with each other. If a book survives its author by hundreds, or even thousands of years and acquires plenty of new readers again and again, diachronic encounters and cooperative relationships with the far generations are born. Around the text can the temporality of our being-in-the-world temporalizes itself plurally and perpetually. In his posthumous work Contributions to philosophy, Heidegger describes such a hermeneutic event in terms of "playing-forth (Zuspiel)" between the First Beginning (in antiquity) and the Other (for the future). He names a few dead poets and thinkers "the ones to come." The possible revival in different ages implies man's way of attaining immortality by a certain path through generations. The other passages of The Gay Science indicate that Nietzsche was fully aware of this type of reversibility, that is, how to outstrip the generation order.『愉しい学問』の或る断章でニーチェは、「生きるとは、自己や他者における死のうとするものすべてを、絶えず突き放すことだ」と述べた。この残酷な思想はそれなりの真実を蔵している。われわれの生には、老いた人びとと若い人びとの間の生存競争という面があるからである。哲学史とは、世代間の戦場の実例であろう。だが、隔たった世代のあいだにはいっそう緊密な連携が成り立つということも確かである。ある書物が著者の死後、数百年、数千年と読まれ続け、新たな読者を次々に獲得したとすれば、時代を隔てた世代どうしの出会いと共同事業が起こったということになる。テクストをめぐって、世界内存在の時間性が複数的かつ永続的に時熟するということがありうるのである。そのような解釈学的出来事を、ハイデガーは遺著『哲学への寄与』において、(古代の)第一の始まりと(将来の)あらたな始まりとのあいだの「遣り合い」という形で、描いている。ハイデガーは少数の詩人や思索者を、「将来する者たち」と呼ぶのである。別の時代に復活する可能性があるということは、世代を行き来する道を辿って不死性を手に入れる人間的な仕方があることを意味する。『愉しい学問』の他のいくつかの節は、ニーチェがこのタイプの可逆性、つまり世代の乗り越え方を知悉していたことを示している。