著者
三木 一彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.69, no.12, pp.921-941, 1996-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
43
被引用文献数
2

江戸時代に入って広く信仰を集めるようになった山岳信仰の霊山は数多い.このうち,本研究では,武蔵国秩父郡に位置する三峰山を取り上げ,その所在地である秩父地域において三峰信仰が展開した背景と,同地域における三峰信仰の性格にっいて検討を加えた. 三峰山の山麓にあたる大滝村では, 17世紀中期以降,主に江戸へ向けた木材生産が盛んになり,村としてまとまって伐採の規制などを行う必要が生まれた.この中で,三峰山に大滝村全体の鎮守,とくに木材生産に関する山の神としての機能が求められるようになり, 18世紀中期には,大滝村をはじめとする秩父地域の人々がさまざまな形で三峰山を支えた.秩父地域の人々にとって,たしかに三峰山は多くの信仰対象の中の一つにすぎなかった.しかし,三峰山は,多種多様な信仰を取り込み,生産・流通の進展を背景に経済力をっけた人々とっながりを持っことで,秩父地域における一定の地位を築いた.
著者
三木一彦
出版者
文教大学
雑誌
教育学部紀要 = Annual Report of The Faculty of Education (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.21-29, 2007-12-01

近年,ヨーロッパ諸国では,EU 統合が進展する中で,地域言語の存在に脚光が当てられつつある.本稿では,フランス国内におけるアルザス・アキテーヌ・ブルターニュの3 地方を事例とし,それぞれの地域言語の沿革や現状について検討を行なった.アルザス地方では,歴史的な経緯もあってアルザス語が多く使用され,近年では国境を越えた交流の進展とともに,アルザス語は一定の復権をみせている.一方,アキテーヌ地方ではオクシタン語とバスク語の使用がみられ,使用人口はオクシタン語の方が多いものの,存続傾向にあるのはむしろバスク語の方である.また,ブルターニュ地方ではブルトン語が存在し,その使用範囲は徐々に狭まってきていたが,最近ではブルトン語と地域主義運動との連関がみられる.全体として,長らく衰退傾向にあったフランスの地域言語は,現在,それぞれの地方における地域文化の核として徐々に見直されつつあるといえよう.
著者
三木 一彦
出版者
文教大学
雑誌
教育学部紀要 = Annual Report of The Faculty of Education (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.7-24, 2017-12-20

本稿は,筆者が高校での模擬授業時に生徒たちに記入してもらった「自分にとっての原風景」を主題別に提示した上で,その背景や意味について,主に空間的な側面から考察を試みたものである.検討にあたり,高校生の原風景を,①家,②環境,③学校,④非日常・非風景,の大きく4つに分類した.自分が育った家や家族・親戚,あるいは自然環境を記述する回答は多く,それらが原風景の核としての役割を果たしていると推察される.一方で社会環境や学校などをえがく回答もあり,とりわけ学校を取り上げた回答に関しては,教育系の模擬授業受講者という回答者の志向も考慮する必要があろう.今日,高校においては,より早い段階から進路を意識させる指導を行なう傾向が強いが,現在の高校生活を充実させたり,過去の自分の原風景と対話したりするような方向性ももっと重視されてよいと考える.
著者
三木一彦
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要
巻号頁・発行日
vol.2003年度, no.37, 2003-12
著者
三木 一彦
出版者
文教大学
雑誌
教育学部紀要 = Annual Report of The Faculty of Education (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.63-77, 2005-12-01

江戸時代には寺社参詣を目的とする代参講が各地で盛んに結成された.本稿では,そうした代参講による参詣地の一つであった三峰山(武蔵国秩父郡)への信仰について,その関東平野への展開を,とくに武蔵国東部に焦点をあてながら検討した.武蔵国東部では,江戸時代に新田開発の進展がみられ,村落部の三峰信仰は農業に関わる願意をもっていた.しかし,時期が下るにつれて,むしろ火防・盗賊除けといった都市的な願意が表面に出てくるようになった.この理由として,街道沿いの宿場町などが三峰信仰の拠点となり,そこから都市的な信仰が村落部へも浸透していったことがあげられる.また,三峰講の組織形態を他講と比較すると,当該の村や町の地縁との関わりの密接度において中間的な性格を示していた.このように,三峰信仰は都市・村落両面の性格をあわせもちながら,武蔵国東部など関東平野へ展開していった.
著者
三木 一彦
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.1-17, 2001-02-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
77
被引用文献数
3 3

From the 18th century, making a visit to sacred mountains became popular among Japanese people. Many such pilgrimages had a regionally distinctive sphere of religion. Mt. Mitsumine, in Chichibu County (nowadays in Saitama Prefecture), was one of the spiritual centers for such pilgrimages. It attracted people from Kanto and Koshin Districts from the middle of the 18th century. This study examines the cult of Mitsumine in Edo (present-day Tokyo), focusing especially on the social background behind its development.According to an account at the beginning of the 19th century, the Mt. Mitsumine shrine afforded facilities to receive visitors. Pilgrimages were generally undertaken by religious groups called "ko". In Edo, the cult of Mitsumine was believed to prevent misfortunes, such as fire and bandits. Visits to Mt. Mitsumine from Edo increased between the late 18th and early 19th centuries. The Mitsumine followers of Edo also evangelized their belief to its suburbs and more remote areas.The Mitsumine-ko in Edo tended to be organized by the trade guilds. Tatekawa-ko was the most influential supporter of the cult. The group consisted mainly of timber wholesale and commission merchants, and its members mostly lived in eastern Edo. A large volume of timber was transported from the mountains in the Kanto District to Edo, and Chichibu County, where Mt. Mitsumine is situated, had also become one of the sources of timber. The commercial relation between Chichibu and Edo is said to have facilitated the penetration of the cult into Edo.Since the early 19th century, the change in the distributive system loosened the unity among the timber merchants. Religious circles such as Tatekawa-ko played a crucial role in reestablishing a solid network among the merchants. Moreover in Edo, where fires frequently occurred, the merchants, particularly timber traders, were making a profit from them. Thus, the charms of Mitsumine were considered as an indulgence among the merchants. For these reasons, the Mitsumine cult in Edo was established and maintained.The study concludes that social background profoundly affected the development of belief.
著者
三木 一彦
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要 (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.63-77, 2005-12-20

江戸時代には寺社参詣を目的とする代参講が各地で盛んに結成された.本稿では,そうした代参講による参詣地の一つであった三峰山(武蔵国秩父郡)への信仰について,その関東平野への展開を,とくに武蔵国東部に焦点をあてながら検討した.武蔵国東部では,江戸時代に新田開発の進展がみられ,村落部の三峰信仰は農業に関わる願意をもっていた.しかし,時期が下るにつれて,むしろ火防・盗賊除けといった都市的な願意が表面に出てくるようになった.この理由として,街道沿いの宿場町などが三峰信仰の拠点となり,そこから都市的な信仰が村落部へも浸透していったことがあげられる.また,三峰講の組織形態を他講と比較すると,当該の村や町の地縁との関わりの密接度において中間的な性格を示していた.このように,三峰信仰は都市・村落両面の性格をあわせもちながら,武蔵国東部など関東平野へ展開していった.