著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要. 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.51-63, 2007-01-31

原爆投下をめぐる問題は,戦後60年余りが経過した現在においてもなお,歴史家や国際政治学者などの重要な研究対象となっている。また,アメリカ国内の状況に注目すると,この問題の理解において,アメリカ政府および一般世論と研究者との間に大きな隔たりが存在することが分かる。アメリカの政府や国民の多くは「原爆投下は戦争を早期に終結させるために導入された正当な手段だった」と主張する。これがいわゆる公式解釈と称される立場である。これに対して,それぞれの研究視点からこの公式解釈を批判し再検討するのが研究者の立場である。本稿は,公式解釈の形成に多大な貢献を果たしたと言われるヘンリー・スティムソン(原爆投下時の陸軍長官)の論文と回顧録の内容を考察するものである。公式解釈に対する批判から出発したはずの原爆投下決定に関するこれまでの研究を吟味すると,これらの先行研究がスティムソンの論文ないし回顧録を十分に考察しきれていないことに気づくからである。この論文と回顧録を再検討することにより,公式解釈の前提,およびその後の諸研究の基盤を検証しなおすことができると考える。
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.29-45, 2011-01

本稿は, 20世紀前半期のアメリカにおいて主要な対外政策の立案と決定に関与したヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)を引き続き考察するものである。本稿では特に, 柳条湖事件に始まる日本の中国への侵略に対してアメリカがどう対応しようとしたかを検討する。具体的には, 第一次世界大戦後の国際秩序が崩壊していく1930年代初頭において, 日本の軍事行動に対し, 「スティムソン・ドクトリン」という形で「倫理的制裁」を課そうとしたスティムソンの外交を分析する。
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.51-63, 2007-01

原爆投下をめぐる問題は,戦後60年余りが経過した現在においてもなお,歴史家や国際政治学者などの重要な研究対象となっている。また,アメリカ国内の状況に注目すると,この問題の理解において,アメリカ政府および一般世論と研究者との間に大きな隔たりが存在することが分かる。アメリカの政府や国民の多くは「原爆投下は戦争を早期に終結させるために導入された正当な手段だった」と主張する。これがいわゆる公式解釈と称される立場である。これに対して,それぞれの研究視点からこの公式解釈を批判し再検討するのが研究者の立場である。本稿は,公式解釈の形成に多大な貢献を果たしたと言われるヘンリー・スティムソン(原爆投下時の陸軍長官)の論文と回顧録の内容を考察するものである。公式解釈に対する批判から出発したはずの原爆投下決定に関するこれまでの研究を吟味すると,これらの先行研究がスティムソンの論文ないし回顧録を十分に考察しきれていないことに気づくからである。この論文と回顧録を再検討することにより,公式解釈の前提,およびその後の諸研究の基盤を検証しなおすことができると考える。
著者
中沢 志保
出版者
文化学園大学
雑誌
文化学園大学紀要. Journal of Bunka Gakuen University. 人文・社会科学研究 = (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.35-55, 2012-01

本稿は,20世紀前半期のアメリカにおいて主要な対外政策の立案と決定に関与したヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)を引き続き考察するものである。本稿では,ファシズムの台頭を背景にアメリカが第二次世界大戦に参戦していく過程と,ローズヴェルト(Franklin D.Roosevelt)政権下の陸軍長官に就任し,戦争計画において中心的な役割を果たしたスティムソンの思想と行動に焦点を合わせる。具体的には,1930年代から明確に示された枢軸国への警告,連合国側への軍事援助を参戦前から可能にした武器貸与法(the Lend-Lease Act)の成立と運用,対独戦における主要な戦略と評価される第二戦線の形成などの内容を振り返り,それぞれにおいてスティムソンが果たした役割を検証する。第二次世界大戦の後半期から重要課題として浮上してくる原爆の開発と投下決定,核の国際管理,戦後処理,対ソ連外交などの問題に関しては次の研究課題としたい。
著者
中沢 志保
出版者
JAPAN ASSOCIATION OF INTERNATIONAL RELATIONS
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.1986, no.83, pp.126-142,L14, 1986-10-18 (Released:2010-09-01)
参考文献数
62

Nuclear disarmament negotiations began with “the Baruch Plan” of June 14, 1946. The Baruch Plan was the first proposal for the international control of atomic energy presented by the United States to the United Nations.It was evaluated as an epochal proposal that the United States, then the only nuclear weapon state, publicly expressed her intention to abandon its monopoly on nuclear weapons. On the other hand, the “strictness” of that plan—namely, its provisions of “punishment against violators” and “restriction of the veto power” in the United Nations—brought about rejection by the Soviet Union.As a result, the first negotiations for nuclear disarmament were completely upset. But that failure provided an important suggestion regarding those factors which decide disarmament negotiations and international relations after World War II. And we cannot forget the great contributions of atomic scientists to ideas on the international control of atomic energy.This article re-examines the process of establishing the first plan for international control of nuclear energy focussing on the viewpoints of atomic scientists. David E. Lilienthal and his group, including J. Robert Oppenheimer, drew up a plan for the international control of atomic energy in March, 1946. “The Acheson-Lilienthal Report”, as it was usually known, was a draft plan of the Baruch Plan. But these two plans contain important differences in their contents.The Acheson-Lilienthal Report, which was based on Oppenheimer's ideas, proposed setting up an international organization which should possess all the fissionable materials and should control all nuclear activities. This organization was envisioned to be the center for research and development in this field.The Baruch Plan, which laid the foundations of United States atomic policy, partially followed the Acheson-Lilienthal Report, but it emphasized inspection and sanctions against violations. Namely, the Baruch Plan demanded enforceable punishment of violators rather than cooperation in atomic energy development. It is well known that the emphasis of punishment and problems relating to the veto in the United Nations became obstacles in gaining Soviet approval of the plan.Disarmament negotiations to follow inherited this kind of disharmony. For example, the Nuclear Non-Proliferation Treaty of 1968, which aims to prevent the appearance of any new nuclear powers, supports the dominant positions of the nuclear big powers rather than protects the benefits of non-nuclear states. The political character of the treaty meant severe antagonisms between the nuclear and non-nuclear powers. If we try to find the beginning of such deadlock in disarmament negotiations, we must re-examine the Baruch Plan. And if we compare that plan with the Acheson-Lilienthal Report, more significant facts will be found. One is the ideas of Oppenheimer, who represents both scientists and politiciants. And the other is the paradoxical meaning that his ideas exerted no influence on decision making, which provides a case study to consider the close relationship between scientists and nuclear policy.
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要. 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
no.19, pp.29-45, 2011-01-31

本稿は, 20世紀前半期のアメリカにおいて主要な対外政策の立案と決定に関与したヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)を引き続き考察するものである。本稿では特に, 柳条湖事件に始まる日本の中国への侵略に対してアメリカがどう対応しようとしたかを検討する。具体的には, 第一次世界大戦後の国際秩序が崩壊していく1930年代初頭において, 日本の軍事行動に対し, 「スティムソン・ドクトリン」という形で「倫理的制裁」を課そうとしたスティムソンの外交を分析する。
著者
中沢 志保
出版者
文化学園大学
雑誌
文化学園大学紀要. 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.35-55, 2012-01-31

本稿は,20世紀前半期のアメリカにおいて主要な対外政策の立案と決定に関与したヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)を引き続き考察するものである。本稿では,ファシズムの台頭を背景にアメリカが第二次世界大戦に参戦していく過程と,ローズヴェルト(Franklin D.Roosevelt)政権下の陸軍長官に就任し,戦争計画において中心的な役割を果たしたスティムソンの思想と行動に焦点を合わせる。具体的には,1930年代から明確に示された枢軸国への警告,連合国側への軍事援助を参戦前から可能にした武器貸与法(the Lend-Lease Act)の成立と運用,対独戦における主要な戦略と評価される第二戦線の形成などの内容を振り返り,それぞれにおいてスティムソンが果たした役割を検証する。第二次世界大戦の後半期から重要課題として浮上してくる原爆の開発と投下決定,核の国際管理,戦後処理,対ソ連外交などの問題に関しては次の研究課題としたい。
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.19-37, 2009-01

本稿は,20世紀初頭におけるアメリカの政治・外交とヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)の立場を考察するものである。スティムソンは,陸軍長官,植民地総監,国務長官などの立場で,20世紀前半期におけるアメリカの主要な対外政策に直接関与した。また,第二次大戦中の原爆の開発と投下決定においては圧倒的な存在感を持った高官として知られる。しかし,半世紀近いスティムソンの公職生活がアメリカの対外政策に与えた影響を検証する作業が,国際関係学やアメリカ史の分野において十分になされてきたとは言い難い。筆者は,国際関係学の視点から,スティムソンの全生涯を考察しつつアメリカの政治・外交の諸特徴を再検討する作業に着手した。したがって,本稿は一連の「スティムソン研究」の一部となる。