著者
田口 良司
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.89-103, 2004-01

本稿では, 日本社会の供儀的構造とはどのようなものかを探求する中で, 柳田國男が指摘していた生贄としての鹿の問題を取り上げようとした。柳田は, 東北の鹿踊には遠い過去の生贄の記憶があるという。もしそうなら東北の鹿踊の供儀的性質を検討する必要があるだろう。ここでは彼の仮説を関東に多数存在する獅子舞との関連で検討する。獅子舞と鹿踊は同系統の芸能とされているからである。従来, 獅子舞がこのような観点から考察されたことはなかったが,獅子舞に見られる悪魔払い的性質と鹿踊りの儀礼的構成を比較検討することで, 本稿は, 日本的供儀儀礼の性質と機能を明らかにしようとする一連の試みの一つとなるだろう。柳田は, 獅子舞と悪魔払いを結びつけることに反対しているが, 獅子舞の「牝獅子隠し」の舞の供儀儀礼的側面を検討することによって一般的な「悪魔祓い」の儀礼的意味とは異なり「牝獅子隠しの舞」の儀礼的意味が必ずしも「悪鬼」を遠ざけることだけを意味していないことを論じた。また鹿踊では供儀的側面を鹿踊供養塔および「仏供養」の儀礼から検討した。鹿踊には鹿頭が仏供養を行う儀礼が存在するが, 獅子舞ではこのような儀礼は極めてまれであり, 獅子踊本来の儀礼からは逸脱した儀礼である。獅子踊には死者とかかわる儀礼が極めて希薄であるのに対して, 鹿踊には死者を「供養」する儀礼が存在しそれはまた鹿踊の重要な儀礼的機能の一つになっている。それにもかかわらず, 鹿踊には死者の霊と直接かかわるような踊は見られない。死者の位牌の前で供養する鹿頭そのものが死者の霊への供物と見られなくもないが, 少なくともユベール,モースの「供儀の図式」から見て, 鹿踊には獅子舞のような供儀的儀礼の側面は希薄であるように思える。他方, 獅子舞はさまざまな供儀的観念の要素が絡み合い, セム族的「供儀の図式」を再考する糸口が示唆されていることが理解できた。
著者
新保 哲
出版者
文化学園大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.45-62, 2010-01

佐渡における庚申講をはじめその他の講について,その実態はどの様に庶民の信仰的講となって行われていたのかを紹介してみたい。たとえば,佐渡では甲子講,庚待講,二夜待講,三夜待講,己待講,七日講,十二夜講,十三日講,二十一日(真言)講,十四日(真言)講などがあった。以上の各講を,『佐渡年中行事』(柳田国男,中山徳太郎・青木重考共編,高志書院,平成十一年)と『新潟県史』(資料編23 民俗・文化財二 民俗編11,編集発行・新潟県,昭和五十九年)と『佐渡相川の歴史』(資料集八,「相川の民俗」,相川町史編纂委員会,昭和六十一年)を根本資料として導入部を論述してから,本題の庚申講の実体とその諸特色を相川に焦点を絞って考察してみたい
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.29-45, 2011-01

本稿は, 20世紀前半期のアメリカにおいて主要な対外政策の立案と決定に関与したヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)を引き続き考察するものである。本稿では特に, 柳条湖事件に始まる日本の中国への侵略に対してアメリカがどう対応しようとしたかを検討する。具体的には, 第一次世界大戦後の国際秩序が崩壊していく1930年代初頭において, 日本の軍事行動に対し, 「スティムソン・ドクトリン」という形で「倫理的制裁」を課そうとしたスティムソンの外交を分析する。
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.51-63, 2007-01

原爆投下をめぐる問題は,戦後60年余りが経過した現在においてもなお,歴史家や国際政治学者などの重要な研究対象となっている。また,アメリカ国内の状況に注目すると,この問題の理解において,アメリカ政府および一般世論と研究者との間に大きな隔たりが存在することが分かる。アメリカの政府や国民の多くは「原爆投下は戦争を早期に終結させるために導入された正当な手段だった」と主張する。これがいわゆる公式解釈と称される立場である。これに対して,それぞれの研究視点からこの公式解釈を批判し再検討するのが研究者の立場である。本稿は,公式解釈の形成に多大な貢献を果たしたと言われるヘンリー・スティムソン(原爆投下時の陸軍長官)の論文と回顧録の内容を考察するものである。公式解釈に対する批判から出発したはずの原爆投下決定に関するこれまでの研究を吟味すると,これらの先行研究がスティムソンの論文ないし回顧録を十分に考察しきれていないことに気づくからである。この論文と回顧録を再検討することにより,公式解釈の前提,およびその後の諸研究の基盤を検証しなおすことができると考える。
著者
三國 純子
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.81-95, 2002-01

何をどう教えるかは, 言語教育の永遠のテーマである。本稿では, 戦後の日本語教育の流れを, 初級に的を絞って教授法の観点から見直し, その時代の代表的な教科書を通して教師が何を重視し, どのような指導を行ってきたかを分析した。伝統的校本語教授法の時代, オーディオリンガル・メソッドの時代, コミュニカティブ・アプローチの三つの時代に作成された初級の教科書を取り上げ, 日本語教育の移り変わりを概観する。また, コミュニカティブ・アプローチの時代に移る先駆的な役割を果たした『文化初級日本語』の作成経緯, 問題点を解消していく過程にも触れ, 今後の日本言語教育の在り方を模索する。
著者
荒井 健二郎
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p135-145, 1993-01

黒人として生まれついたジェイムズ・ボールドウィンは,白人との比較において,満たされないものを紙面にひたすら叩きつけた感じがする。彼の小説に登場する人物達は,ボールドウィンの代弁者という役割を与えられて窮状を訴え,悪態をつき,なじり,わめき,という自己主張に終始し,セックスも暴力的である。更に,相手を暖かく包みこむとか,相手の欠点についても糾弾することはあっても受け容れようとすることは,全くない。その底には,欲求不満を吐き出すことによって満足感を得ようとする「歪な平衡感覚」が作用しているように思われる。『もう1つの国』 (Another Country, 1962)の主要人物達もその例にもれることはない。しかし,唯一の例外として提示されるのが,エリックである。彼は最初向性愛者として登場し,後に両性愛者であることがわかって驚かされるのだが,最初のうち,自らの性的志向をなかなか受け容れることができず,苦悩する。しかし,最後には,その長い苦悩のトンネルを抜け,認識と受容に至る。その点をポールドウィンは賞賛してやまないのだ。それ故,エリックに同性愛者という「もう1つの国」を与えたのだと思われてならない。
著者
濱田 勝宏
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
no.8, pp.59-70, 2000-01

現代都市の核家族について, 都市的生活構造の要因との関連で考察している。本稿では, 生活関係構造に重点をおいた。先に, 生活空間構造の側面において, 「近隣」「Iコミュニティ」の問題をとりあげたので, 生活関係について重複をさけることはできないが, 核家族とその成員の生活関係のネットワークが, 日常生活の経験則からみても複雑で多様な様相を示しているのは事実である。そして, とかく都市的生活様式論の立場からみると, 都市生活における生活関係構造を初期シカゴ学派的な見解で抱えがちである。すなわち, 都市生活における人間関係は, 匿名的でインパーソナルなものと断定される傾向が強い。先稿でもふれたように, このようなネガティブな評価に疑問を果してきたところである。そこで, 初期シカゴ学派への批判的修正(全面的に否定するものではないが)を加えつつあるネオシカゴ学派の人々, 特にクロード・S. フィッシャーの研究に依拠して, 新たな方向性を見出すことに努めた。フィッシャーの下位文化理論にもとづく都市生活における「友人」「家族」から, 友人関係ネットワーク, パーソナルネットワークというラインがそのひとつであることを指摘した。
著者
中沢 志保
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.19-37, 2009-01

本稿は,20世紀初頭におけるアメリカの政治・外交とヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)の立場を考察するものである。スティムソンは,陸軍長官,植民地総監,国務長官などの立場で,20世紀前半期におけるアメリカの主要な対外政策に直接関与した。また,第二次大戦中の原爆の開発と投下決定においては圧倒的な存在感を持った高官として知られる。しかし,半世紀近いスティムソンの公職生活がアメリカの対外政策に与えた影響を検証する作業が,国際関係学やアメリカ史の分野において十分になされてきたとは言い難い。筆者は,国際関係学の視点から,スティムソンの全生涯を考察しつつアメリカの政治・外交の諸特徴を再検討する作業に着手した。したがって,本稿は一連の「スティムソン研究」の一部となる。
著者
糸林 誉史
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.101-114, 2010-01

コミュニティーを社会全般の「断片化」に対抗する手段として重視する「コミュニタリアニズム」は,1990年代以降のアメリカで,自由放任の市場原理にもとづく新保守主義と,福祉や権利を国家によって保障しようとするリベラリズムの双方を批判する思想として脚光を浴びた。一方,「コミュニティ」とその理論は,近代社会が不確実さを増していき,ますます個人主義へと傾斜してゆくにつれて,コミュニティは変容を遂げて,人々に安全性と「帰属(belonging)」を与える源泉となった。そして最近では,政治の基盤である国家の代替物とさえ見られるようになっている。本稿では,グローバリゼーションが進み,個人主義が深刻化した1980年代に始まった「リベラル-コミュニタリアン論争」について概観し,その後の展開をコミュニティ論の変容とともに検討する。さらにコミュニタリアニズムと「公共性」の観点から,アジアにおける伝統的な「コモンズ」概念への批判と課題を見てみる。そして「文化論的転回」以降のコミュニティ研究の方法について,「実践共同体」への状況論的アプローチという観点から考察したい。
著者
勝山 祐子
出版者
文化女子大学
雑誌
文化女子大学紀要 人文・社会科学研究 (ISSN:09197796)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.47-61, 2011-01

オデットの室内装飾の趣味は,"スワンの恋"においてはジャポニスムと中国趣味の入り交じった極東趣味であるが, 花咲く乙女たちのかげに』では, そこに十八世紀風な趣味が混じり始める。これらのエピソードは,オデットの趣味の不確かさと浮薄さを表すいっぽうで,第二帝政期の「折衷主義」による室内装飾を思わせる。ゲルマント公爵夫人の場合,"スワンの恋"では嫌っていた「帝政様式」を「ゲルマントのほう』では賞賛し,『見いだされた時』においては, それを再び嫌う。また, ディレクトワール期と第二帝政期に流行した「ポンペイ風」の装飾が,『失われた時を求めて』では, 繰り返し流行するものとして描写される。つまり,「帝政様式」と「ディレクトワール様式」は第一巻と最終巻を『ゲルマントのほう』を仲介に連関づける。そして, これらのモチーフが間欠的に回帰することによって, 小説の『時の次元』が支えられるばかりか, ディレクトワール期からプルーストの時代をまたぐ, 一世紀に及ぶ規模を小説に与える。オデットの『第二帝政期風』な趣味もまた, 物語に先立つ時間を小説に与える。