著者
丸山 恭司
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.111-119, 2000-03

<他者>あるいは他者性は現代思想のみならず、教育研究においても重要な概念である。この概念に着目することによって、抑圧された人々を不当に扱うことを避けることができる。研究者は<他者>承認の可能性を問うてきた。しかしながら、教える者と学習者の教育的関係は他の人間関係とは異なっているため、<他者>の一般概念を教育の文脈に応用するとき、誤謬が生じることになる。しかし、一方で、教育的関係において<他者>が何を意味するかは決して明確ではない。よって、本論の目的は、教育的関係に現れる<他者>の特性を明らかにし、学習者の他者性を問うことの意味を探ることである。第1節では、まず「他者」概念と他者問題の歴史を概観したうえで、現代思想において問われる<他者>と教育関係における<他者>の相違が考察される。<他者>をめぐる現代の思想家の関心は哲学的であると同時に論理的-政治的なものである。それは、抑圧された人々の解放である。一方、教育的関係において<他者>は必ずしも抑圧されているわけではない。抑圧と解放の図式に囚われてしまうと、教育的関係において現れる<他者>の特性を見落としてしまいやすい。教育的関係において学習者の他者性がいかに現れ、消滅するのかを明らかにするために、第二節では、ヘーゲルとウィトゲンシュタインの他者論を比較する。ヘーゲルの他者概念ではなく、ウィトゲンシュタインの他者概念によって教育的関係における<他者>の特性が説明されることが示される。ヘーゲルおよびその継承者は主人と奴隷の関係が逆転する主奴の弁証法に関心があり、自己意識は初めから承認を求めて闘争する者として描かれている。一方、ウィトゲンシュタインは、<他者>を戦士としても、被抑圧者としても描かない。彼は教育的関係における<他者>の文法的特性に明らかにする。学習者の他者性はその技術と知識の欠如ゆえに言語ゲームの進行を妨げる者として現れ、実践ないし生活形式における一致のうちに解消されるけれども、また顕在するかもしれないものなのである。教育的関係において<他者>を承認する可能性を探るために、学習者の他者性を問うことの意味が、最後に明らかにされる。ウィトゲンシュタインの議論は教育の概念を制限づける。教育は学習者の心性を制御することでも彼らを放置することでもありえない。それは実践における一致として終了する。教育はユートピアを実現するための手段ではなく、われわれは学習者の潜在的な他者性を引き受けるねばならないのである。
著者
丸山 恭司
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.111-119, 2000-03-30 (Released:2007-12-27)
被引用文献数
1

<他者>あるいは他者性は現代思想のみならず、教育研究においても重要な概念である。この概念に着目することによって、抑圧された人々を不当に扱うことを避けることができる。研究者は<他者>承認の可能性を問うてきた。しかしながら、教える者と学習者の教育的関係は他の人間関係とは異なっているため、<他者>の一般概念を教育の文脈に応用するとき、誤謬が生じることになる。しかし、一方で、教育的関係において<他者>が何を意味するかは決して明確ではない。よって、本論の目的は、教育的関係に現れる<他者>の特性を明らかにし、学習者の他者性を問うことの意味を探ることである。第1節では、まず「他者」概念と他者問題の歴史を概観したうえで、現代思想において問われる<他者>と教育関係における<他者>の相違が考察される。<他者>をめぐる現代の思想家の関心は哲学的であると同時に論理的-政治的なものである。それは、抑圧された人々の解放である。一方、教育的関係において<他者>は必ずしも抑圧されているわけではない。抑圧と解放の図式に囚われてしまうと、教育的関係において現れる<他者>の特性を見落としてしまいやすい。教育的関係において学習者の他者性がいかに現れ、消滅するのかを明らかにするために、第二節では、ヘーゲルとウィトゲンシュタインの他者論を比較する。ヘーゲルの他者概念ではなく、ウィトゲンシュタインの他者概念によって教育的関係における<他者>の特性が説明されることが示される。ヘーゲルおよびその継承者は主人と奴隷の関係が逆転する主奴の弁証法に関心があり、自己意識は初めから承認を求めて闘争する者として描かれている。一方、ウィトゲンシュタインは、<他者>を戦士としても、被抑圧者としても描かない。彼は教育的関係における<他者>の文法的特性に明らかにする。学習者の他者性はその技術と知識の欠如ゆえに言語ゲームの進行を妨げる者として現れ、実践ないし生活形式における一致のうちに解消されるけれども、また顕在するかもしれないものなのである。教育的関係において<他者>を承認する可能性を探るために、学習者の他者性を問うことの意味が、最後に明らかにされる。ウィトゲンシュタインの議論は教育の概念を制限づける。教育は学習者の心性を制御することでも彼らを放置することでもありえない。それは実践における一致として終了する。教育はユートピアを実現するための手段ではなく、われわれは学習者の潜在的な他者性を引き受けるねばならないのである。
著者
丸山 恭司
出版者
日本監査研究学会
雑誌
現代監査 (ISSN:18832377)
巻号頁・発行日
vol.2018, no.28, pp.57-68, 2018-03-31 (Released:2019-08-17)
参考文献数
8

自治体では不正経理が忘れた頃に発覚し,監査の実効性が問われてきた。自治体監査の実効性向上の一方策として監査業務の外部委託や共同化がある。わが国の都道府県,政令指定都市および中核市に対して監査組織の実態,外部委託および共同化の現状についてアンケート調査をした。監査組織については,民間企業の内部監査部門に比較して同等の人数が監査委員事務局に配属されていた。だが,監査実務経験年数が3年未満の監査担当職員が多く,会計や監査に係る専門的資格の保有者が少ないことが明らかとなった。外部委託については,公共工事の工事監査を外部委託する事例は,多数確認されたものの,会計専門職や監査法人に財務に関する監査業務を委託する事例は少なかった。共同化については,ほとんどの自治体で検討すらなされていないことが明らかとなった。自治体の会計基準や監査基準を民間企業に適用されている会計基準や監査基準に近づけるなどの環境整備,国からの財政的・技術的な支援が重要となる。
著者
丸山 恭司
出版者
日本監査研究学会
雑誌
現代監査 (ISSN:18832377)
巻号頁・発行日
vol.2020, no.30, pp.115-126, 2020-03-31 (Released:2021-02-27)
参考文献数
19

地方自治法が改正され,地方自治体の監査委員監査において監査基準を設定することが明文化された。しかし,従来の監査委員監査では,各自治体において策定した監査基準で監査が行われており,改正後においても,監査委員自身が,自らの行為規範である監査基準を設定するとされている。これまでの監査基準と地方自治法改正で総務省が示している監査基準には大きな相違点がある。監査基準の運用状況や地方自治法改正前に市が準拠する都市監査基準の策定経緯を踏まえると,改正法により策定される監査基準では,監査人の懐疑心や独立性が強調されるべきである。また,専門性が十分でない小規模自治体の監査組織などを前提としたとき,例えば,行政監査の実施基準などについて,さらなる具体化を行う必要がある。町村などの小規模自治体であっても,公金の説明責任は,自治体の規模とは関係なく必要とされる。監査の品質確保は,すべての自治体において共通の課題である。監査品質の最低限について共通認識の醸成が今後の課題となる。
著者
丸山 恭司
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-12, 2002-12-04 (Released:2017-08-10)
被引用文献数
1

ポストコロニアリズムの問題提起は、学習者をある権力構造へと組み入れようとする志向が教育的意図のうちに潜んでいることを教えてくれる。これを教育のコロニアリズムと呼ぼう。本論の課題は、ポストコロニアリズムの問題提起を整理し、教育のコロニアリズムを乗り越えるために、悲劇性と他者性という二つの特性から教育を読み解くことである。
著者
丸山 恭司
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.93, pp.151-157, 2006-05-10 (Released:2009-09-04)

いまこの文章を読んでくださっている皆さんであれば、すでに文字をめぐるさまざまな経験をお持ちだろう。書店あるいは図書館の膨大な文献を前にして目のくらむような思いをされたことはなかっただろうか。あるいは、慣れない横文字と格闘しながら「読み」にともなう摩擦を実感されたこと、買ったばかりのペンで何度も自分の名前や恋い焦がれるひとの名前を白い紙に書き連ねてみた経験。もちろん、文字のない文化に生まれ育ってもひとはまっとうに生きていけよう。一方、文字を持ってしまったわれわれには、もはや文字は-意識しようがしていまいが-われわれの身体と感情と思考と願望を方向付ける枠組みの一つとなっている。文字はわれわれの生活を制限付けるとともに豊かにもしてくれているのだ。本書は、文字に生きたひとびとに著者自身が寄り添いながらそうした生活の豊かな広がりを描き出した作品である。森田氏は本書について次のように言う。「本書は、ここ数年来私の研究関心を占めてきた、言語、とりわけ文字言語が人間にとって持つ意味について考察をまとめたものです」 (二七五頁) 。本編には、既発表論文四篇が全体構成にあわせて裁断され書き直されて組み込まれているものの、「全体としてはほぼ書き下ろしといっていいもの」である。四篇の論文のうちには古くは一九八七年に発表されたものもあり、森田氏がこのテーマに長く関心を寄せられていたことがうかがえる。それどころか、「文字の人」であったご両親への想いが綴られているように (二七七頁以降) 、氏の研究関心はパーソナルな強い思いに裏打ちされている。氏が「本書は研究書として書かれたというよりは、私の自由な考察を述べたものになりました」 (二七六頁) と言うのも、本書が専門家に留まらず広い読者に向けて書かれたからだけでなく、文字に生きたひとびとへの共感があるからであろう。また、本書のねらいについて森田氏は次のように言う。「本書では、文字をめぐるさまざまな思索と経験について書かれたテクストを取り上げ、できる限りその思索と経験を忠実に追体験してみることに努めてみたい」 (iV頁) 。そして、読者は森田氏に誘われてさまざまな物語を追体験することになる。フランシス・コッポラ監督の映画『アウトサイダー』に描かれたジョニーとダラスの死に立ち会い、パリの裏町を舞台にした映画から、親になかば捨てられたユダヤ人少年モモとトルコ移民の老人イブラヒムとの交流を見守る。二人の「文盲」、一八世紀フランスの羊飼いデュヴァルと二〇世紀イタリアの羊飼いガヴィーノの自伝。ドラッグとセックスの日常を生きる若者を描いた小説『レス・ザン・ゼロ』の主人公クレイの救い。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、固有名を持つ個人の多様な生が文字をめぐる人生として確認されるのである。こうした人生の追体験を縦糸にして、さまざまなリテラシー観、啓示・啓蒙・聾教育・国民形成における文字思想の検討を横糸として本書は編まれている。
著者
丸山 恭司
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.96, pp.115-131, 2007-11-10 (Released:2010-01-22)
参考文献数
17

It is said that Ludwig Wittgenstein is one of the most important linguistic philosophers in the twentieth century. Indeed, his contribution to the “Linguistic Turn” is prominent. His interest, however, is not in language itself but in the emancipation of his students and readers from pictures that have held them captive. The purpose of this paper is to understand the point of Wittgenstein's philosophy by considering how he frees them in teaching philosophy.The paper firstly argues that Wittgenstein's philosophy is likely to be misunder-stood even by major Wittgensteinian scholars, and that his philosophy should be characterized as edifying philosophy, one that Richard Rorty distinguishes from systematic philosophy.The paper then discusses the purpose of Wittgenstein's philosophy and his philosophical methods. While he held a consistent concept of philosophy from the early to the later periods, he changed his view on philosophical methods. The paper finds a connection between two periods by elaborating on the “elucidating” function of his philosophy, and his idea of an “overview” as a philosophical technique. It shows that Wittgenstein's philosophy is motivated by his pedagogical concerns about the emancipation of his students and readers from their conceptual captivity that causes philosophical confusions.Finally this paper examines closely Wittgenstein's practice of teaching philosophy. It reconstructs his teaching in his class by using his students' memoirs, and analyses his Philosophical Investigations in terms of the idea of teaching as a philosophical technique of emancipation. His teaching in the classroom and his writings have some common features such as a dialogical style, presenting imaginary examples one after another, and encouraging students or readers to think by themselves. It is concluded that readers of Wittgenstein are expected to see beyond his teaching by learning from him how to emancipate themselves.
著者
丸山 恭司
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.86, pp.32-36, 2002-11-10 (Released:2009-09-04)

教育哲学者国際連絡会 (the International Network of Philosophers of Education : 以下、INPE) 第八回大会が「教育哲学のさまざまな顔 : 伝統、問題、挑戦」というテーマで二〇〇二年八月八日から一一日までの四日間ノルウェーのオスロにて開催された。二年に一度のINPE大会に以前から参加したいと考えていた。今回ようやくその希望がかない、はじめて参加することができた。以下はその報告である。
著者
丸山 恭司
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2001, no.84, pp.38-53, 2001-11-10 (Released:2010-05-07)
参考文献数
26

Teaching is somehow a difficult activity. Teacher's voice does not always reach learners. They may misunderstand or even not understand their teacher at all.The purpose of this paper is to explicate the logical, structural origin of the difficulty of teaching and to show that the difficulty is not always caused by insufficient abilities of individual teachers. I argue that 'otherness' and 'transcendency' as properties of teaching bring about the difficulty of teaching, but also that, since they are implied in teaching logically, the difficulty is unavoidable.First, I criticize a tendency of applying the general theory of the Other to education because the general theory overlooks the nature of otherness in education. The other in education is better characterized in terms of a stranger rather than of an absolute Other who cannot be comprehended. Because of the qualitative difference between teacher and learner with regard to what is to be taught, the teacher turns out to be the other as a stranger to the learner and vice versa. This qualitative difference is essential to teaching. Without the difference, teaching would turn into telling. Then, by examining the use of the word 'tranzendental' in Wittgenstein's Tractatus logico-philosophicus, I show that the transcendency of the unsayable, or the impossibility of its access through language, is also essential to teaching.Failure in teaching occurs in spite of any effort by teachers because otherness and transcendency are logically implied in teaching. It is an ethical stance of teachers, thus, to be involved in teaching after recognizing the logical inevitability of the difficulty of teaching.
著者
丸山 恭司
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1992, no.65, pp.41-54, 1992-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
27

The purpose of this paper is to clarify the pedagogical meaning of Wittgenstein's language theory. To this end, the attempt was made in this paper to arrive at a correct understanding of the language game, and from there to interpret the language game as an educational theory. The following points are raised : In the first section, in order to facilitate the attempt of interpreting the language game as an educational theory, the life of Wittgenstein is summarized under the aspect of education.The second section clarifies how Wittgenstein himself understood the meaning of the 'language game' when he intrduced it. The language game refers to ordinary verbal activity in real life and in this context initial language activity is described as language game.The third section explains what kind of problems Wittgenstein wanted to attack with his 'language game'. The aim was to criticize the tendency of connecting the verbal image of the equivalence theory, particularly in regard to the meaning of words, with a psychological element.In the fourth section the problem of 'understanding' and 'knowledge' in the developing of the education language game is raised. It turns out that these are not to be reduced to substantial phenomena but to be understood out of the situation of the language game as the use of words, and it turns out also that the knowledge through such use of words as such is not justified but nevertheless forms valid knowledge. This interpretation was established as the pedagogical meaning of the language game theory.
著者
丸山 恭司
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-12, 2002

ポストコロニアリズムの問題提起は、学習者をある権力構造へと組み入れようとする志向が教育的意図のうちに潜んでいることを教えてくれる。これを教育のコロニアリズムと呼ぼう。本論の課題は、ポストコロニアリズムの問題提起を整理し、教育のコロニアリズムを乗り越えるために、悲劇性と他者性という二つの特性から教育を読み解くことである。