著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03-31

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.29-45, 2019-09-20

倭と栄山江流域の交流史を考える場合,文献的に問題となるのは,まず全羅南道および耽羅の百済への服属時期を確定することが必要と思われる。そのうえで北九州系および畿内系などに細分化される倭人の移住集団の活動内容の分析が必要となる。さらには加耶地域への移住集団との対比も必要となる。以下ではこの問題を考える素材として『日本書紀』欽明紀に散見する倭系百済官僚を中心に検討した。現在,栄山江流域の前方後円墳被葬者についての諸説は,大きくは在地首長あるいは土着勢力とする説,倭人あるいは倭系の人物を被葬者とする説に分かれている。本稿では在地的な首長系列とは異なる地点に突如出現する点を重視して,後者の可能性を指摘した。結論として,憶測を述べるならば五世紀後半以降の一時期に限定される栄山江流域の前方後円墳被葬者像として,百済王族たる地名王・侯の配下で,県城以下クラスの支配を任された,北九州を含む倭系豪族と想定した。彼らはやがて,百済の都に集められて官僚化し,倭国との外交折衝などに重用されたために,一時的な現象として古墳は消滅したのではないか。栄山江流域にのみ前方後円墳が集中する理由や,移住の詳細なプロセスなどについては不明であり,今後も検討する必要がある。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-17, 2003-10-31

本稿の目的は、近現代における女帝否認論の主要な根拠とされている「男系主義は日本古来の伝統」あるいは「日本における女帝の即位は特殊」という通説を古代史の立場から再検討することにある。女帝即位の要件として、即位年齢・資質・宮経営・経済的基盤・大王の嫡妻=大后制などの要素を再検討したうえで、性差や王権構造を組み込んだ女帝論が現在求められている。令制以前には現キサキと元キサキの区別が存在せず、そのうちで最上位の者を示す称号が「大后(オオキサキ)」であった。現大王即位による生母への追号が例外なく「皇太后(オオキサキ)」とされるのは、単なる令制の『日本書紀』への反映ではなく、実子の即位が最有力化の大きな条件であったからである。実子の即位により尊号は変化するものであり、『古事記伝』以来の嫡妻=大后から大御母への拡大という通説は疑問となる。ただし、大王と同じく大后の身分は終身であり、その死により入れ替わるので、元キサキが死没すれば現キサキのなかから大后(嫡妻)が二次的に出現する可能性は存在した。実子の即位という結果を重視して嫡妻の地位が遡って明確にされたのであり、欽明朝以降、生母・嫡子の関係が一つの血筋に限定化することによって王族の観念が歴史的に発生した。大后(現大王の実母)または皇祖母(皇統譜上の母)という王族内部における女性尊長としての立場と、キサキ宮経営の実績により、執政能力が群臣に承認されれば、次期大王の指名や一時的な大王代行を経ることにより、女帝の即位は、有力な王族たる大兄・皇弟が若年の場合より優先された。結論として「女帝中継ぎ説」の根拠は薄弱であり、「皇位継承上困難な事情」とは男性による即位ができないという以上の説明しかなされていない。性差や王権構造を組み込んだ女帝論ではなかった。草壁-文武-聖武と持統-元明-元正の即位は宣命や律令により同じレベルで正統化されており、父子継承のみを強調するのは一面的な評価と考えられる。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。This article reviews and briefly examines the history of research on the three books of Baekje: Kudara Honki (Original Records of Baekje) , Kudara Ki (Records of Baekje) , and Kudara Shinsen (the New Selection of Baekje) . Taking various arguments into consideration, this article indicates that the three books consisted of old and new elements because they were born out of a dilemma; they were based on the original books written from the self-centered viewpoint of Baekje but edited by Baekje exiles as historical materials for the compilation of Nihon Shoki ( the Chronicles of Japan) in a favorable manner for Japan in the beginning of the eighth century. The editors of Nihon Shoki altered the times of events by modifying the Chinese zodiac calendar when using Kudara Ki to write a legend of the origin of Japan; however, as typically represented by inconsistency of the name of Japan, such as called "Kikoku" in Kudara Ki, " (Oh-) yamato" in Kudara Shinsen, and "Nihon" in Kudara Honki, it is considered that in principle, the quotations in the notes of Nihon Shoki from the three books were hardly embellished. All of the three books were history books dated with imperial era names and the Chinese zodiac calendar system and were aimed to delineate the background of the family and profession of each Baekje clan surviving after the fall of their dynasty. In Kudara Ki, the ideal of King Song Myong period, in the sixth century, described by Kudara Honki was mirrored in the King Chogo period, and historical legitimacy was explained to Japan from the viewpoint of Baekje with an eye on its northern enemy, Goguryeo. At first, Kudara Honki was written to describe the history of the dynastic ancestors of the Kudara-no-Konikishi clan exiled from Baekje. Then, Kudara Ki was created for the purpose of providing historical legitimacy to the domination of Mimana, as well as depicting exchanges between Baekje and Wakoku (Japan) . Last, Kudara Shinsen was compiled to summarize the common perspective of numerous Baekje clans who claimed the collateral descent of the Baekje Dynasty by detailing the eras from ⑦ King Biyu to ⑪ King Muryeong, whose lineage had not been clear. Though the three books were edited one by one, they were systematically compiled for the same purpose. Inconsistencies in expression among the three books were corrected from the viewpoint of compatibility with Nihon Shoki by using terms to describe the diplomatic relationships at the times of events more clearly. In particular, the word "Kikoku" was used to describe the relationship between Baekje and Wakoku not as a tributary or completely equal relationship but as the "third slantedrelationship."Our former article indicated that a variety of groups fighting against Baekje were collectively called as the "Japanese Mimana Government" and argued that Nihon Shoki had incorporated the perspective of Baekje that was inconsistent with that of the editors of the chronicle. This is considered because the perspective regarding the Japanese Mimana Government was affected by the insistence derived from the original materials of Kudara Honki, which was compiled from the self-centered viewpoint of Baekje.
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.79-104, 2009-03-31

安閑・宣化期に集中的に屯倉記事が記載されている点については,那津官家へ諸国の屯倉の穀を運んだとの記載を重視するならば,当該期における対外的緊張がその背景に想定され,屯倉と舂米部のセットにより兵粮米を用意し,「那津官家」を中心とする北九州の諸屯倉に集積する体制を構想した。先進的と評価されてきた白猪・児島屯倉における「田戸」は,編戸・造籍により戸別に編成された田部ではなく,成人男子の課役負担者を集計するのみであり,「田部丁籍(名籍)」も一旦作成されると十年以上更新されない単発的なリストであった。「田戸」・「田部丁籍(名籍)」などの表現はそのままでは信頼できず,通説的な律令制的籍帳支配を前提とする評価は疑問である。孝徳期の改革は,行政区画の設定よりも重層化した徴税単位の設定に重点があり,国造のもとで官家を拠点とする統一的,直接的な税の貢納および人の徴発を構想した。国造(国造制)だけでなく制度的に異なる伴造(部民制)・県稲置(屯倉・県制)が歴史的に「官家」(在地における貢納奉仕の拠点)を領したと認識され,その実績が評造や五十戸造といった新たな官家候補者の選定の前提になった。「譜第」意識の連続性において品部や屯倉の廃止命令は,国造を除く伴造や県稲置にとっては大きな転換点として認識された。ミヤケの伝承のうちには郡司の「譜第」に関係した伝承や註記が存在した。「皇太子奏請文」は「改新之詔」の原則に従って,王土王民的な建前から王族による大王への定量的な課役負担を新たに開始する宣言として解釈される。仕丁以外の王族が所有した旧部民たる民部(入部)や家人的奴婢たる家部(所封民)の実質は王子宮内部のツカサの運営費として温存され,基本的に天武四年の部曲廃止まで存続する。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p3-22, 1993-02

皇子宮とは、古代において大王宮以外に営まれた王族の宮のうち皇子が居住主体である宮を示す。本稿では、この皇子宮の経営主にはどのような王族が、どのような条件でなり得たのかを考察の目的とした。その結果、皇子宮の経営主体は大兄制と密接な関係にあるが、必ずしも大兄に限定されないことが確認できた。皇子宮の経営は、王位継承資格を有する王族内の有力者が担当し、とりわけ同母兄弟中の長子である大兄が経営主体になることが多かったが、それ以外にも、庶弟のなかで人格資質において卓越した人物が特に「皇弟(スメイロド)」と称されて、その経営権が承認されていた。穴穂部皇子・泊瀬仲王・軽皇子・大海人皇子・弓削皇子などがその実例と考えられる。「皇弟」は天皇の弟を示すという通説的解釈が存在するが、実際の用例を検討するならば、通説のように同母兄が大王位にある場合に用いられる例は意外に少なく、穴穂部皇子や弓削皇子など大兄以外の有力な皇子に対する称号として用いられるのが一般的であった。「皇弟(スメイロド)」の用字が天皇号の使用以前に遡れないとするならば、本来的には「大兄」の称号に対応して「大弟(オホイロド)」と称されていたことが推定される。ただし、大王と同じ世代のイロド皇子がすべて「皇弟」と称されたわけではないことに留意すべきであり、大兄でなくても、人格・資質において卓越した皇子が第二子以下に存在した場合に限り、こうした称号が補完的に用いられたと考えられる。「大兄の原理」のみにより王位継承は決定されるわけではなく、「皇弟の原理」とでも称すべき異母兄弟間の継承や人格・資質をも問題にする副次的・補完的な継承原理は「大兄の時代」とされる継体朝以降も底流として存在したことが推測されるのである。The term, "Prince's Palace" is used to mean a royal palace which is the main residence of a prince and run separate to the imperial palace, in ancient times. This paper aims to examine what kind of royal person was able to become the head of a prince's palace, and under what conditions.As a result, it was confirmed that the head of a prince's palace was not necessarily limited to the eldest brother, though there was a close connection with the eldest-prince system. An influential member of royalty with the right of succession to the throne was in charge of the management of the prince's palace. The eldest prince, that is the eldest of brothers born from the same mother, became the head in most cases. However, the right to manage the palace was often authorized to a brother born from a different mother, but gifted with excellent character and talent. Such a brother was given the special title of "Imperial Brother (Sumeirodo)". Princes Anahobe-no-miko, Hatsuse-no-Naka-no-ō, Karu-no-miko, Ōama-no-miko, and Yuge-no-miko are considered to be examples of such princes. There exists a conventional understanding that "Sumeirodo" meant a brother of the Emperor. However, an examination of examples of usage shows that there were in fact few Imperial Brothers whose brother born from the same mother was on the throne, as the conventional theory supposes. The term was generally used as a title for influential princes, such as Anahobe-no-miko and Yuge-no-miko, who were not the eldest of brothers. If we assume that the usage of "Sumeirodo" cannot date back to before the use of the title of "Tennō" (Emperor), it may be supposed that these princes were originally called "Ōirodo", as opposed to the title of "eldest brother".However, we should note the fact that not all Irodo princes of the same generation as the Emperor were called "Sumeirodo". It may be considered that only when there was a prince of outstanding character and talent among the second and subsequent brothers, the title of "Sumeirodo" was used supplementary. The succession to the throne was not determined only by the "principle of the eldest brother". It is supposed that there underlay a secondary and supplementary principle of succession, which may be called the "principle of Sumeirodo". It allowed for the possibility of succession from among brothers born from different mothers and took into account the character and talent of the successor, even after the Keitai era, which is regarded as the "age of the eldest brother".
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.3-22, 1993-02-26

皇子宮とは、古代において大王宮以外に営まれた王族の宮のうち皇子が居住主体である宮を示す。本稿では、この皇子宮の経営主にはどのような王族が、どのような条件でなり得たのかを考察の目的とした。その結果、皇子宮の経営主体は大兄制と密接な関係にあるが、必ずしも大兄に限定されないことが確認できた。皇子宮の経営は、王位継承資格を有する王族内の有力者が担当し、とりわけ同母兄弟中の長子である大兄が経営主体になることが多かったが、それ以外にも、庶弟のなかで人格資質において卓越した人物が特に「皇弟(スメイロド)」と称されて、その経営権が承認されていた。穴穂部皇子・泊瀬仲王・軽皇子・大海人皇子・弓削皇子などがその実例と考えられる。「皇弟」は天皇の弟を示すという通説的解釈が存在するが、実際の用例を検討するならば、通説のように同母兄が大王位にある場合に用いられる例は意外に少なく、穴穂部皇子や弓削皇子など大兄以外の有力な皇子に対する称号として用いられるのが一般的であった。「皇弟(スメイロド)」の用字が天皇号の使用以前に遡れないとするならば、本来的には「大兄」の称号に対応して「大弟(オホイロド)」と称されていたことが推定される。ただし、大王と同じ世代のイロド皇子がすべて「皇弟」と称されたわけではないことに留意すべきであり、大兄でなくても、人格・資質において卓越した皇子が第二子以下に存在した場合に限り、こうした称号が補完的に用いられたと考えられる。「大兄の原理」のみにより王位継承は決定されるわけではなく、「皇弟の原理」とでも称すべき異母兄弟間の継承や人格・資質をも問題にする副次的・補完的な継承原理は「大兄の時代」とされる継体朝以降も底流として存在したことが推測されるのである。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.200, pp.37-60, 2016-01-31

難波は古代都城の歴史において外交・交通・交易などの拠点となり,副都として機能していた。外交路線の対立(韓政)により蘇我氏滅亡が滅亡し,難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が大郡などを改造して造られた。先進的な大規模朝堂院空間を有しながら,孝徳期の難波遷都から半世紀の間は同様な施設が飛鳥や近江に確認されない点がこれまで大きな疑問とされてきた。藤原宮の朝堂院までは,こうした施設は飛鳥に造られず,この間に外交使節の飛鳥への入京が途絶える。これに対して,藤原宮の大極殿・朝堂の完成とともに外国使者が飛鳥へ入京するようになったことは表裏の関係にあると考えられる。こうした問題関心から,筑紫の小郡・大郡とともに,難波の施設は,唐・新羅に対する外交的な拠点として重視されたことを論じた。前提として,古人大兄「謀反」事件の処理や東国国司の再審査などの分析により,孝徳期の外交路線が隋帝国の出現により分裂的であり,中大兄・斉明(親百済)と孝徳・蘇我石川麻呂(親唐・新羅)という対立関係にあることを論証した。律令制下の都城中枢が前代的要素の止揚と総合であるとすれば,日常政務・節会・即位・外交・服属などの施設が統合されて大極殿・朝堂区画が藤原京段階で一応の完成を果たしたとの見通しができる。難波宮の巨大朝堂区画は通説のように日常の政務・儀礼空間というよりは,外交儀礼の場に特化して早熟的に発達したため,エビノコ郭や飛鳥寺西の広場などと相互補完的に機能し,大津宮や浄御原宮には朝堂空間としては直接継承されなかったと考えられる。藤原宮の朝堂・大極殿は,7世紀において飛鳥寺西の広場や難波宮朝堂(難波大郡・小郡・難波館)さらには筑紫大郡・小郡・筑紫館などで分節的に果たしていた服属儀礼・外交儀礼・饗宴・即位などの役割を集約したものであると結論した。