著者
今井 信雄
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.89-104,175, 2002-10-31 (Released:2016-05-25)

The great Hanshin earthquake disaster took place on January 17, 1995, and inflicted severe damage upon the society of the affected area. The damages were various in kind but the experience of the earthquake disaster no longer exists in its original form. Rather, the experience of the earthquake disaster is arranged as " a memory of the earthquake disaster " among the people of the area.and they create " the meaning " of it. This paper considers the many monuments and cenotaphs that have been placed in the stricken area and clarifies how the experience of the earthquake disaster is memorialized and creates meaning. I analyze the system of memory and the meaning of the earthquake disaster from four phases by considering 116 monuments. The four phases are the "death of face to face relationships", the "death of non-face to face relationships", the "life of face to face relationships", and the "life of non-face to face relationships". Each of the four phases creates a different system of meaning in society. The epitaphs shows that many monuments consist of a combination of the four phases, and these monuments make up new system of the meaning. If the system of the meaning differs from monument to monument, memories of the earthquake also vary.As Maurice Halbwachs has noted.the frame of the group is composed from many layers, and the meaning is also being made many layers. A frame and its contents compose the memory of the group. "The frame" of the group in the upper layer is a part of the system of meaning in society. In other words, piles of layers have taken away the variety of memories or meanings about the great Hanshin earthquake disaster.
著者
今井 信雄 前田 至剛
出版者
学校法人 関西学院大学先端社会研究所
雑誌
関西学院大学先端社会研究所紀要 (ISSN:18837042)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.27-41, 2010 (Released:2020-03-31)

本稿は都市の空間構造の変容について、旧日本軍の軍用地を核として歴史的に跡づけ、その社会学的な意義を指摘するものである。それら「軍都の空間」が、都市の空間形成(地方都市のみならず大都市圏においても)にとって決定的であったというのが、中心的な枠組みである。本稿では、旧日本軍が占有していた「軍用地」を持つ地域として三重県と群馬県を取り上げる。そして、三重県の地方都市、群馬県の地方都市において、軍都の空間がどのように都市形成の核となってきたのかを素描する。 アメリカの都市社会学を範として発展してきた日本の都市社会学は、できるだけその理論に適合的な事例を取り上げ、理論を組み立ててきた。戦勝国のアメリカでは、軍用地の非軍用施設への転用という事態が行われなかったのであり、日本の社会学は軍施設の転用という都市形成の重大な契機を見落としてきてしまったのだろう。本稿では、軍都の空間の変容をみていくことで、日本における新しい都市空間の社会学を構想するものである。
著者
今井 信雄
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.412-429, 2001-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
19
被引用文献数
1

阪神・淡路大震災以後, 被災地には「震災を記念するモニュメント」が数多く建てられている.記念行為が「ひとつの世界」との結びつきを再確認したいという要求をあらわすものであるならば, それぞれのモニュメントも何らかの「ひとつの世界」を想定していると考えられる。それぞれのモニュメントの指向を分析してみると, 実際は設立主体の組織としての性格に大きく影響されるものであった.設立主体の違いが, モニュメントの性格を決定づけていたのだ.震災のモニュメントは, 設立主体が組織として担っている「職務」の範囲内にあるかにみえた.けれども, 組織を越えて, ふたつのリアリティがモニュメントとしてあらわれていた.まず, 身近な人の死を追悼するモニュメントの型式があった.言葉は少なく, ただ死を死としてのみ受け取る心性のあらわれであった.次に, 「わたしたち」という言葉が数多くみられたモニュメントがあった.「わたしたち」という言葉は, 均質な空間を前提にしたリアリティのあらわれとして考えられるであろう.どちらも, 組織を越えてモニュメントを特徴づける型式として存在していたのだが, ふたつのリアリティが重なるモニュメントはみられなかった.ふたつのリアリティはまったく異なる機制によって成り立っていることが明らかになったのである.
著者
荻野 昌弘 古川 彰 松田 素二 山 泰幸 打樋 啓史 今井 信雄 亀井 伸孝
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

本研究は、太平洋戦争とその敗戦が戦後の日本社会およびアジア太平洋地域の形成に与えた影響における「負」の側面と、忌まわしい記憶として現在も残る戦争の記憶とを一括して「負」の遺産と捉え、調査研究することを目的としている。この目的のため、太平洋戦争時における日本国内および旧植民地、および中国大陸、太平洋諸地域など関連地域に関する調査を実施し、戦争に関する関連研究機関との協力関係の構築、図書館、博物館など資料の所在確認と基礎的データの収集に努めた。本研究の成果は次の三つの点にある。1戦後の日本社会の変容と太平洋戦争との関係-戦争が戦後の日本社会にいかなる影響を与えたのかという点に関して、空間利用という観点から分析した。具体的には、旧軍用地や戦争被害に遭った地域などがいかに変容したか、それが戦後日本の社会の構造変動にいかなる影響を及ぼしたかを考察した。このアプローチは、日本のみならず、太平洋戦争や第二次世界大戦に関係した地域,国家全体にも応用可能である。2戦争に関連した地域と観光開発-1のアプローチから、かつて戦場であった太平洋の地域を捉えると、その一部が、観光地になっていることが明らかとなった。かつての戦場は、いまや観光開発の対象であり、またグアムやサイパン、パラオのように、観光地としてしか認識されていない地域も存在する点に十分に留意する必要がある。3戦争が生み出した文化-太平洋戦争開戦から一年は、日本軍が勝利を収めていた。したがって、1942年の段階では、日本は一種の沸騰状態にあった。こうしたなか、思想や文化の領域においても,アメリカに対する勝利の事実抜きにしては、考えられなかったような新たな試みが生まれる。