著者
佐藤 未央子 サトウ ミオコ Satoh Mioko
出版者
同志社大学国文学会
雑誌
同志社国文学 (ISSN:03898717)
巻号頁・発行日
no.80, pp.38-52, 2014-03

谷崎の映画テクストをもとに、明治四十四年から大正五年に谷崎が受容した映画の概要と評価を確認し、いかなる要素が作品に抽出されているか分析した。映画の倒錯性、非現実性を好んだ谷崎は、映画タイトルを用いた修辞によって作品世界に同様の性質を付与していた。また谷崎の映画テクストにおいて特徴的な要素である俳優に対するまなざしは、この時期既に萌芽していた。更に、谷崎の映画受容とその記録からは、第一次世界大戦前におけるヨーロッパ映画の隆盛を看取できた。
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.49-62, 2014-11-15

映画界の隆盛を背景に、「青塚氏の話」は映画製作と受容をめぐる人々の欲望をアクチュアルに批評した。本作において映画は、監督の中田、観客の男を繋ぐ媒介となりながら、女優由良子の<性>を前景化し、視覚的快楽を提供するメディアとして描かれた。一九二〇年代半ばから内面性の表現が重視され始めていた映画は、原初的な記録媒体あるいは<見世物>に押し戻されているのである。男が一人快楽を貪るさまは、受容者による製作者からの所有権奪取を示唆していた。本作では映画の流通過程における主体性が問われ、谷崎が映画に見出した「民衆芸術」性が仮託されていたと考えられる。谷崎の<映画小説>群に通底する批評意識を、「青塚氏の話」からも看取できた。
著者
佐藤 未央子
出版者
同志社大学
雑誌
同志社国文学 (ISSN:03898717)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.72-85, 2011-12

谷崎潤一郎の映画体験は、作家論のなかで考察されてきたが、作品における映画的要素の分析は、解明の余地を残している。本稿は「アヹ・マリア」(大正十二年一月)に着目し、作中におけるセシル・B・デミル映画を、同時代資料を基に分析した。デミル映画は、主人公エモリの女性嗜好を変化させる機能を果たすことを検証した。これは谷崎の主題変化をも示唆しており、「アヹ・マリア」はその作品史において重要であると結論づけた。
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.136-151, 2016

<p>映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。</p>
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.136-151, 2016-05-15 (Released:2017-05-15)

映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。
著者
佐藤 未央子 サトウ ミオコ Sato Mioko
出版者
同志社大学国文学会
雑誌
同志社国文学 (ISSN:03898717)
巻号頁・発行日
no.82, pp.89-103, 2015-03

大正中期における谷崎潤一郎の映画受容を分析するにあたり、本稿では「痴人の愛」(大正十三年~大正十四年)に焦点を当てた。ナオミが二重写しにされたさまざまな女優とその評価や位置付けについて、関連資料を用いて具体的に考察し、小説における当時の文脈を復元した。また映画観客としてのナオミの主体性や、「痴人の愛」が映画界に対して二重に同時代性を持つことを論じた。
著者
佐藤 未央子 Mioko Satoh
出版者
同志社大学国文学会
雑誌
同志社国文学 (ISSN:03898717)
巻号頁・発行日
no.90, pp.71-84, 2019-03

1920年代後半における谷崎潤一郎の小説や映画批評では、ドイツの俳優エミール・ヤニングス主演映画やアメリカの児童向け映画、ミス・アメリカを題材にした娯楽映画、ドキュメンタリー映画など、言及されるジャンルが多岐にわたっていた。また小説内には、映画館やテクニカラー(フィルムの部分彩色)といった、当時の映画文化が鏤められていることを確認した。