- 著者
-
小路田 泰直
- 出版者
- 奈良女子大学
- 雑誌
- 一般研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1994
近代国家において首都の役割は、世界市場の中にあって国民社会を枠づける国民文化を創造することであるが、後進国日本においては、東京がその役割を果たすことは容易なことではなかった。圧倒的な西洋文明の影響の中で、国民のアイデンティティーの核になる文化を創造することがいかに困難であったかは容易に想像できる。だから東京は単独で首都としての機能を果たすことはできなかった。京都という国枠文化の中心をもう一つつくりだし、京都との役割分担によって首都としての機能を果たそうとした。そこに東京と京都を二つの核とした、近代日本文化の構造が生まれた。その構造の中でいかなる近代日本文化が育まれていったのか、それを両都の象徴空間のあり方を手がかりに探ろうとしたのが、本年度の私の研究であった。廃仏〓釈の段階では、仏教伝来以後の日本文化はいったん否定されたが、その背景になった国学的文化観では、近代日本に必要な日本文化は生み出せなかった。伝来した外来文化を常に日本化して受け入れる、その文化受容の柔軟性にこそ日本文化の特質を見いだした、岡倉天心的文化観の確立が不可欠であった。そこで明治政府はその文化観を確立するために、帝国博物館をはじめ様々な象徴空間を造り上げていったが、その最大の象徴空間が、まさに長年にわたる外来文化の蓄積地京都であった。だから明治政府は、京都を日本文化の中心として演出することに全力をあげた。そしてその演出の帰結が、遷都1100年祭であった。以上が研究のおおよその結論である。