著者
山本 芳美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.43-83, 2021-10-29

本論は、19世紀後半から20世紀初頭における外国旅行者による日本でのイレズミ施術について取り上げる。この時代は、日本においてイレズミに対する法的規制が強化され、警察により取り締まられた時代でもある。しかし、法的規制が課せられた時代においても、日本人対象の施術がひそかに続けられていた。一方、同時期は欧米を中心にイレズミが流行した時期でもある。日本人彫師たちは、長崎、神戸、横浜ばかりでなく、香港、アジア各地の国際港に集まって仕事をしていた。状況を総合すると、日本国内の施術では、外国人客にとっては「受け皿」、彫師にとっては「抜け道」が形成されていたことが強く示唆される。つまりは、日本ならではの観光体験メニューとして、イレズミ体験が存在していたと考えられるのである。 本稿では、こうした視点から、外国人観光客と彫師、それを仲介する人々や場を歴史人類学的に分析する。1870年代以降から1948年までの日本のイレズミと規制についての概略をしめしたうえで、1881(明治14)年に英国二皇孫であるアルベルト・ヴィクトルおよびジョージが来日に際して政府高官に示した施術の希望にどのように対応したのかについて検討する。そして、この二人の施術が、外国人客たちが施術を受ける誘因となった可能性を指摘する。その上で、横浜で活動した彫師、彫千代を例に、日本のイレズミがどのように評価され、どの程度の日数でどのように彫られていたのかを整理する。客の誘致が旅行案内書やホテルのメニューなどの広告でどのようにおこなわれ、どのような勧誘者が関わっていたのかを論じる。 日本みやげのイレズミについての記述は英米圏の新聞、雑誌などに多く残っており、先行研究は英米圏が中心であった。日本人にとってはイレズミが禁止されていた時代でもあり、外国人向けの施術に関する国内外の資料は多くはないが、近年、雑誌や新聞記事のデジタル化が進んだことにより新たな資料が見つかっている。本論ではいくつかの新資料を提示しつつ、論を進めている。
著者
木曽 康郎 森本 将弘 岩田 祐之 山本 芳美 奥田 優 本道 栄一 前田 健
出版者
山口大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2000

本研究は、受胎産物と子宮内膜との相互作用の解析を行い、(i)免疫担当細胞の特異性、(ii)子宮内サイトカインネットワーク、(iii)MHC発現の特殊性、(iv)補体調節因子、等の4点の変化を中心に複雑な母子境界領域の免疫応答機構と胎盤特異的情報との関連を総括的に捉え、胎盤の免疫抑制機構への環境因子の毒性的影響を明らかにし、適切なモデル動物を見いだすことであった。目的達成のため、生殖能力に多少なりとも問題が見られた多種多様なマウスモデルを使用した。これらと内分泌撹乱物質により生殖能力の低下(流産を含む)を見せたマウスと比較検討の結果、胎盤形成期に流産が誘起されたものは、両者の間で驚くべき相似性を見せた。すなわち、胎盤迷路部の発達不全、脱落膜の異常、ラセン動脈の異常、間膜腺の発達不全である。特に、迷路部の非化膿性炎症(胎子間葉組織肥大)、栄養膜巨細胞の分化異常、脱落膜細胞のアポトーシス不全、ラセン動脈血管内皮および中膜の肥厚、子宮NK細胞の異常、であった。これらは内分泌撹乱物質のエストロゲン様活性が局所的に、あるいは限局的に働いた結果と考えられた。一方、サイトカインや成長因子およびそれらのmRNA発現は、むしろ内分泌撹乱物質により生殖能力の低下(流産を含む)を見せたマウスで上昇するなど、まったく異なった。これらは内分泌撹乱物質のエストロゲン様活性が局所的に、あるいは限局的に働いた結果、母子境界領域で重要な免疫応答を担当する細胞(特に子宮NK細胞)にサブセットの変化を含めて、質的変化が誘導されたことを示唆した。今後の課題として、これまでの成果を基に絞り込んだ各因子を、胎盤および子宮内膜の各構成細胞株から作成した再構築組織様塊(オルガノイド)に導入し、これに生理活性を与え、妊娠現象を母子間免疫と胎盤特異情報との相互関連からブレークスルーさせたい。
著者
山本 芳美
出版者
都留文科大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本課題では、19世紀末から20世紀初頭に、欧米や東南アジアに出稼ぎや移民した者を含めた日本人彫師の活動を研究した。各地の研究機関、大学、図書館、博物館などで、新聞や雑誌、古写真、公文書のデータベースや所蔵資料を調べ、香港、シンガポール、フィリピン、タイ、インド、イギリス、アメリカ、カナダで複数の日本人彫師が活動したことを解明した。本研究により、英米に渡った彫師Yoshisuke Horitoyo、香港の野間傳の足跡が判明した。また、船で渡航した当時、客を彫師のもとに効率よく送りこむ、ホテル、古美術商、写真師、彫師間のネットワークが横浜、神戸、長崎に形成されていた可能性も明らかとなった。