著者
井口 篤
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.63-69, 2010

本稿は、西洋中世が現代日本の大衆文化においてどのように表象されているかについて考察する。はじめに、西洋中世に端を発するイメージが今日の世界においても繰り返し現れることに言及する。これは一般的に「中世主義」と呼ばれる文化現象であり、この現象においては、これまでに様々な形のナショナリスト的、宗教的、そして学問的イデオロギーが互いに争うように「ヨーロッパ」という概念を我がものとしようとしてきた。しかし日本はヨーロッパと地政学的に隔絶しており、現在の領土を正当化するために中世ヨーロッパという概念を喚起することはない。にもかかわらず、中世西洋のイメージは戦後日本の大衆文化において頻繁に利用されてきた。本稿は、11 世紀の北欧を描く幸村誠の連載漫画『ヴィンランド・サガ』を分析することにより、日本の大衆文化における中世ヨーロッパの我有化は、現実逃避的とは到底言えないことを示す。作者の幸村にとって、中世ヨーロッパの日本人にとっての他者性はまったく障害ではない。幸村は亡命と帰郷という重要なテーマを作品の中で技巧的に展開することに成功している。この亡命と帰郷というテーマは、人間の一生が神への帰郷であると捉えられていた中世ヨーロッパにおいても重要であった。幸村の作品は一見中世ヨーロッパの社会を忠実に再現しようと試みているだけに見えるが、暴力、信仰の危機、仮借なき搾取に溢れる社会を読者に提供している。
著者
青山 昌文
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.55-61, 2010

役者の演技の在り方については、対立する二つの見解が存在している。より正確に言えば、一つの意見と一つの理論が存在しているのである。その一つの意見によれば、役者は、演じている芝居の登場人物の役のなかに自己を没入させるべきであり、心で演じるべきである。その一つの理論によれば、役者は、演じている芝居の登場人物の役を、意識的・自覚的に演技するべきであり、多大な判断力をもってして、演じるべきである。 『俳優についての逆説』と題された著作において、ディドロは、この理論を見事に確立した。彼は、凡庸な、つまらない大根役者を作るのが、極度の感受性であり、無数の幾らでもいる下手な大根役者を作るのが、ほどほどの感受性であり、卓越した役者を準備するのが、感受性の絶対的欠如である、と述べているのである。 この理論は、ディドロのミーメーシス美学に基づいている。感受性の絶対的欠如の理論は、彼の理想的モデルの美学に根拠をもっているのである。 ディドロは、スタニスラフスキーの先駆者である。但し、そのスタニスラフスキーは、真のスタニスラフスキーであって、ソ連の社会主義リアリズムのスタニスラフスキーではなく、演技の実践についての演劇理論のスタニスラフスキーである。 ディドロ美学は、アリストテレス美学と同じく、創造の美学なのである。
著者
坂井 素思
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.33-40, 2007

この小論では、なぜ日本にコーヒー浸透という現象が起こったのか、あるいは日本人はなぜコーヒーを好きになったのかというテーマを考えてみたい。幕末の開港とともに、日本の税関はそれぞれの港で貿易統計を取るようになった。このため、外国との取引貿易品、なかでもとりわけ農産物は全て記録されることになった。明治の初めから、日本がどれだけのコーヒーの生豆を輸入したのかがほぼ完全に把握できることになる。これで見ると、1920年代から1930年代にかけて輸入量が累積的に多くなるという現象が観察される。この小論では、なぜコーヒーが浸透したのか、という点をめぐって、1920年代から始まるコーヒーブームに焦点を当てて、その理由を考えた。以上の結果、喫茶店によるネットワーク型消費の展開、世界のコーヒー市場の影響、都市化と覚醒文化の進展、などが社会経済要因として挙げられるという結論が得られた。
著者
西川 泰夫
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.26, pp.25-37, 2008

本論では、「心理学」という学問が、わが国に移入され定着するに至る背景やことの経緯を当時の人物の交流関係から再検証するとともに、なお未解決の論点をあらたな資料を基に再検討した。しかしなお、今後に多くの論点が残る。 心理学(新心理学)の導入と定着に日本初の役割を担ったのは、元良勇次郎である。その彼がアメリカ留学に至る間の経緯は、新島襄と津田仙との深い交友関係による直接、間接のつながりに支えられていた。この件を再検証する。 一方、そもそもの「心理学」と言う名称の由来やその語源(原語)に関する論点もなお未解決である。「心理学」という日本語表記と「psychology」という英語表記との結びつきはいかに確立したのか。この件の発端には、西周の大きな関与がある。彼は、ヘーヴンの著作「精神哲学(メンタル・フィロソフィー)」を訳出して「心理学」と題して出版した。他方、西は自著や他の訳書では一貫して、「サイコロジー」に対して「性理学」と訳出していて、心理学とサイコロジーとを直接結びつけてはいない。しかし、性と心は同義語と想定することも可能である。この仮説の再検証に当たっては、西村茂樹の著作や講演内容がヒントとなることが分かった。西村は当時、文部省で編纂課長を務める傍ら、大学に「聖学科」を置くというアイデアを提唱してもいた。また、「性善説」と題する講演で、この「性」という用語の定義内容を確定するために、これを「心」と読み替えて行うと述べている。さらに、彼の著作「心学講義」では、彼の言う「西国の心学」とは「心理学」に他ならないという主張を展開している。こうした見解をもとにあらためて「心理学」という名称の由来と当時の「心理学」の制度的位置づけを検討した。 なお、西村茂樹と津田仙は、幕末の佐倉藩士という共通の出自をもつ。彼らの略伝を示し「心理学」のルーツをめぐる議論に重ね彼らにまつわる広い人脈ならびに相互関係への言及を試みた。千葉県郷土史、近現代史の一断面である。
著者
船津 衛
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.27, pp.63-73, 2009

21世紀はリスク社会であり、そのリスクは内省(reflexivity)によって克服されるといわれる。内省とは人間が自己を振り返ることを表わし、内省によって「問題的状況」が乗り越えられるようになる。A・ギデンズによると、近代社会の内省は社会的実践がその実践に関する情報に照らして常に検討され、改善され、その性格を構成的に変容するという事実のうちに存在する。ハイ・モダニティの時代には「組み込み解消」によって人々が孤立化し、不安定化し、そこにリスクが生じる。そのリスクの解決のために内省が活性化するようになる。ギデンズの見解によれば、リスクの乗り越えのためには専門家システムが必要であり、専門家によるセラピーが大きな役割を果たすようになる。そこから純粋な関係性が生み出され、親密性の変容がもたらされることになる。 このようなギデンズの理論に対して、特殊西欧的であり、認知中心的であり、感情が無視されており、内省の構造的条件について十分な解明がなされていないという批判がある。現代のリスクはさまざまな不平等や格差が存在し、経済的、文化的、社会的なズレ・不一致・対立が広まり、深まってきており、リスクの克服には多くの困難が生じている。ここから、内省について経済的、文化的、社会的な多様性を理解することが必要となり、内省の社会性と創発性についてより具体的に明らかにすべきことになる。 内省は他者とのコミュニケーション過程において行われる。そこにおいて人間は「意味のあるシンボル」を通じて他者と会話するとともに、自己とも会話を行う。他者との会話という外的コミュニケーションが個人のなかに内在化することによって、内的会話としての内的コミュニケーションが発生するようになる。内的コミュニケーションの展開によって新たなものが創発されてくる。それが創発的内省である。 創発的内省の活性化によって、親密性が再構成される。新たに生み出される親密性は人々の間の完全一致や一元化ではなく、自由なネットワークからなる新たな親密性となっている。また、新しい親密性は産業や経済の目的合理性ではなく、コミュニケーション合理性にもとづく親密性となっている。コミュニケーション合理性にもとづく親密性において「本当の自分」を表現することが可能となる。そこにおいて、オルターナティブな親密性として現代的親密性が姿を現すことになる。
著者
石丸 昌彦
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-23, 2009

統合失調症は1%近い発症危険率をもち、世界的に広く認められる代表的な精神疾患である。思春期・青年期に好発し、多彩な精神症状を呈しつつ再燃を繰り返しながら慢性的に経過するもので、クレペリン以来、進行性かつ予後不良の疾患とされてきた。かつて統合失調症には有効な治療法が存在しなかったが、1952年に最初の抗精神病薬であるクロルプロマジンが開発されて以来、薬物療法が長足の進歩を遂げた。その結果、予後は劇的に改善され、既に重症疾患ではなくなったとの認識があるが、わが国では精神科入院者数の60%以上を依然として統合失調症の患者が占めており、その中には少なからぬ社会的入院者が含まれている。 統合失調症の発症機序に関しては、抗精神病薬の作用機序や覚醒剤精神病の知見などにもとづいて、ドーパミン神経伝達の過活動を想定するドーパミン仮説が有力視されてきたが、陰性症状や慢性化した陽性症状には抗精神病薬の効果が乏しいことなどから、同仮説の限界も指摘されている。ドーパミン仮説を補完しより包括的な疾患理解と治療方略を指向するものとして、統合失調症脳内におけるグルタミン酸神経伝達の低活動を想定するグルタミン酸仮説が挙げられる。本稿ではグルタミン酸仮説の根拠を紹介するとともに、統合失調症死後脳におけるグルタミン酸受容体研究の成果を紹介するとともに、その課題と将来性について論じた。また、死後脳研究におけるグルタミン酸受容体増加所見の分布を踏まえ、前頭連合野と頭頂連合野の変調が統合失調症の症状形成に関与することを推定し、「統合失調症の連合野仮説」の可能性について検討した。解決すべき課題は多く残されているものの、今後の研究の方向を決定するうえで「連合野仮説」は有益な示唆を含むものと考えられる。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.210(27)-191(46), 1996
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.30, pp.122-110, 2012

北村季吟(一六二四〜一七〇五)は、生涯に二つの徒然草に関する注釈書を著した。四十四歳の時に刊行した『徒然草文段抄』(一六六七年)は、その後、広く流布した。これは徒然草に関して書かれた膨大な注釈書群の中でも、定番的な地位にあり、近代以後にあっては、欧米の日本学者たちが徒然草を外国語に翻訳する際にも、参照されている。一方、季吟が八十一歳の時に、五代将軍・徳川綱吉に献上した『徒然草拾穂抄』(一七〇四年)は、『徒然草文段抄』の詳細な注釈を、わかりやすく簡略化して、そのエッセンスをすっきりとまとめている。 本稿では、まず、近世前期の徒然草注釈書の中に、『徒然草文段抄』の特徴と個性を明確化する。そのうえで、北村季吟が晩年に到達した徒然草観、ひいては、古典の注釈書のあり方の一端を、『徒然草拾穂抄』の注釈態度の中から見出すことを試みた。 なお、各種の徒然草注釈書における注釈内容を具体的に比較するにあたって、本稿ではひとまず、徒然草の第二十段までを対象とする。その際に、諸注釈書が指摘する徒然草と和歌・物語との関わりに絞って考察した。
著者
大石 和欣
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.23, pp.65-78, 2005

本論考はアンナ・リティシア・バーボールドの政治的・詩的言説に看取できる「公共心」の輪郭を、18世紀後半から19世記前半にかけての歴史的背景の中で画くことを目的とする。バーボールドの「公共心」は、慈善活動や政治運動という領域の中で普遍的善意という道徳的美徳を実行していたユニタリアン文化のなかに深く根ざしているのは間違いない。しかしながら、女性としてバーボールドは、ジョゼフ・プリーストリーやギルバート・ウェイクフイールドのような男性ユニタリアンと同じ立場に立って議論をしたわけでもない。男性的な「理性的非国教徒」と一定の距離を保ちながら文学的・政治的アイデンティティを築き上げなくてはならなかったのである。この「2重の異議者」ともいうべき立場は、彼女を極めて曖昧な存在にしている。慈善に関する言説を吟味すると、非国教徒男性の言説とも、またウィルバーフォースやハンナ・モアといった国教会福音派とも、イデオロギーの点で両義的な位置を保っていることがわかる。スタイルや内容からいって彼らのものと重なるところもあるが、しかし、その根底には女性化したユニタリアン的美徳である公平無私な善意が流れているのである。この論考においては、バーボールドの言説に浸透している曖昧な「公共心」を、まず女性的な感受性言語文化の中で、つぎに慈善、教育、政治活動といったユニタリアン的'philanthropy'の領域で、そして最後に奴隷貿易廃止運動と絡めて吟味することにする。
著者
高橋 和夫
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.23-33, 1997

ペルシア湾情勢の将来を語ることは,専門家のする事ではない.この地域は,予言者の墓場である.いわく,イランの王制は安泰である.いわく,イランの革命政権は短命である.いわく,イラン・イラク戦争がイラクの短期間での圧勝に終わる.などなどである. しかし,その将来を敢えて展望して見ると,不安定な要素が多い.四つの変化の流れが合流してアラビア半島諸国を洗うだろう.それは,人口爆発,石油収入の低下,アメリカ軍の存在が引き起こす民族・宗教感情高まり,そして指導者の世代交代である.またイラクではサッダーム・フセインの独裁が続いている.しかし,この長期不安定政権にもいつかは変化が訪れるであろう. こうして見ると,ペルシア湾岸諸国で一番安定感があるのはイランである.そのイランでは緩慢ながらも革命熱の低下するプロセスが進行してる.革命体制の「進化」が起こりつつある.この進化に注目して,イランとの批判的な対話を進める日本やEUと,イラクとイランの同時封じ込め,いわゆる「二重封じ込め」政策を掲げるアメリカとの間に齟齬が生じている.イランの国内情勢の変化に対応した「進化」が,アメリカのイラン政策にも求められている.
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.132(1)-122(11), 2011

吉田健一には、神戸とその周辺の土地の食べ物や酒について書いたエッセイがある。それらのエッセイの記述の背景には、当地を案内してくれた須磨在住の詩人・竹中郁の存在があった。竹中郁が書いた同様のエッセイと読み比べながら、吉田健一の神戸周辺の「味わいエッセイ」を検証すれば、そこに選ばれている食べ物や店の選択に、竹中郁が大いにかかわっていたことが明らかになる。このことはそのまま、吉田健一の記述に対する注解ともなり、吉田文学をより深く理解するための一助となろう。
著者
柳沼 良知 鈴木 一史 児玉 晴男
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.91-98, 2010

カリフォルニア州では、公立学校での教科書配布に必要な、印刷や製本にかかる多額の費用を削減するため、教科書の電子化とオープンソース化の検討を行っている。また、日本国内でも、「すべての小中学生がデジタル教科書を持つ」という環境の実現を目指す民間主導のコンソーシアムが発足した。このような教科書の電子化は、電子化の方向性から、「書籍の電子化」と「アプリケーションの書籍化」に大別することができる。このため、本稿では、まず、これまでの教科書の電子化の試みを「書籍の電子化」と「アプリケーションの書籍化」に分類し、それぞれの動向について述べる。次に、教科書や映像、それらの検索機能などを組み合わせたプロトタイプシステムの開発について述べ、「書籍の電子化」と「アプリケーションの書籍化」の観点から議論する。
著者
吉岡 一男
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.79-88, 2005

おうし座RV型星は、主極小と副極小を交互にくり返す光度変化が特徴の半規則的な変光星である。この変光星は、光度曲線をもとにRVa型とRVb型に細分類されており、RVb型が脈動周期に重なって長周期の光度変化を示すのに対して、RVa型はそのような長周期変化を示さない。またこの変光星は可視域のスペクトルをもとに、酸素過剰なAグループと炭素過剰なB,Cグループに細分類されている。われわれは、国立天文台の堂平観測観測所と岡山天体物理観測所の91cm反射望遠鏡に偏光分光装置(HBS)を取り付けて、明るい5個のおうし座RV型星の偏光分光観測を行った。そして次の結果を得た。(1)ふたご座SS星といっかくじゅう座U星とおうし座RV星では、偏光度の波長依存性に時間変動が見られる。とくにふたご座SS星の時間変動は、この星には星周圏ダスト層がないとの、われわれのMCP観測から得られた結果を覆す。(2)上記の時間変動の多くには脈動の位相との相関が見られないが、長周期光度変化と相関がありそうな星がある。(3)いっかくじゅう座U星のいくつかの観測では、その偏光度にいくつかの波長でピークが見られ、ピークの波長が放射の吸収帯に一致している。この結果を確認するために、さらなる観測を要する。(4)おうし座RV星以外では、偏光位置角に波長依存性は見られない。おうし座RV星では、長周期光度変化の増光期に5500Å付近よりも短波長域で偏光位置角が波長とともに減少している。この波長依存性は、たて座R星の過去の偏光分光観測で観測されたものと似ている。
著者
吉岡 一男
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.127-136, 2007

おうし座RV型星は、主極小と副極小を交互にくり返す光度変化に特徴がある半規則的な変光星である。この変光星は、光度曲線をもとにRVa型とRVb型に細分類されており、RVb型が脈動周期に重なって長周期の光度変化を示すのに対して、RVa型はそのような長周期変化を示さない。またこの変光星は可視域のスペクトルをもとに、酸素過剰なAグループと炭素過剰なBグループとCグループに細分類されている。われわれは、国立天文台の堂平観測所と岡山天体物理観測所の91cm反射望遠鏡に偏光分光測光装置(HBS)を取り付けて、明るい5個のおうし座RV型星の偏光分光観測を行った。そして、それぞれの星に対して星間偏光を差し引いて固有偏光を求め、次の結果を得た。ふたご座SS星といっかくじゅう座U星とおうし座RV星では、固有偏光度の波長依存性に時間変動が見られる。上記の時間変動の多くには脈動の位相との相関が見られないが、長周期光度変化と相関がありそうな星がある。いっかくじゅう座U星のいくつかの観測では、その固有偏光度にいくつかの波長でピークが見られ、ピークの波長が放射の吸収帯に一致している。ふたご座SS星とヘルクレス座AC星とおうし座RV星では、固有偏光位置角にも波長依存性が見られる。とくにおうし座RV星では、長周期光度変化の増光期に5500Å付近よりも短波長側で固有偏光位置角が波長とともに減少している。この波長依存性は、たて座R星の過去の偏光分光観測で観測されたものに似ている。
著者
橋本 裕蔵
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.35-59, 1997

死刑廃止論が盛んである.実務では,最高裁判所がいわゆる保険金詐取目的殺人等被告事件に関する平成8年9月20日の第二小法廷判決(白建土木3億円保険金殺人事件上告審判決)で共謀共同正犯として第一審及び控訴審で死刑判決を受けた被告人のうち一名につき死刑判決を破棄し無期懲役刑を言い渡して自判し(判時1581号33頁),東京高等裁判所は平成9年5月12日,強制猥褻等の非行により初等少年院送致を受け2年間収容され,その後,別罪の有罪判決の執行猶予中に強姦致傷の犯行に及び刑に服した前歴を持つ被告人が,その後犯した2件の強盗強姦,強盗強姦殺人で第一審裁判所において死刑を言い渡された事件においてこの死刑判決を破棄し無期懲役刑を言い渡している(判時1613号150頁). わが国の死刑制度は寛刑の傾向にある.しかし,この傾向は,単なる寛刑傾向と評するには無理がある.上記東京高裁の事例は凄惨を極める. 他方,死刑廃止論は世界の「潮流」を背景に盛んにその主張を展開している.しかし,その死刑廃止論は「死刑」それ自体の廃止論であり,わが国の死刑制度を前提としてはいない.だが,死刑存廃の問は主権行使と文化の問に直結する. わが国の法状況を前提に,現在展開されている死刑廃止論を批判的に検討し,果たして,死刑はわが国において本当に廃止されなければならないのかどうか.この点を検討する.
著者
蘇 雲山 河合 明宣
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.75-91, 2009

国際保護鳥トキの保護及びトキ野生復帰(再導入)は、日本と中国だけではなく、近年、韓国でも取り上げられ、注目されている。2008年、韓国で野生復帰を視野にトキのケージ飼育が開始された。日本では、2008年第一次10羽放鳥、2009年の第二次で20羽放鳥された。トキはコウノトリ属の大型水鳥である。兵庫県豊岡市では野生コウノトリは一度絶滅したが、ハバロフスクから受贈したコウノトリの人工飼育が成功し、2005年に2羽放鳥した。その後、毎年の放鳥が続き、2007年には野外繁殖で初めての雛が誕生した。さらに2009年10月31日に2羽が放鳥され、約40羽が市内の水田、湿地、河川敷に定着し、生息を続けている。 トキ及びコウノトリの保護と野生復帰(再導入)は、農業環境の問題だけではなく、社会システムの再構築や地域の産業(特に農業)構造の調整が必要不可欠である。そのため、トキ保護及び再導入事業は、地域社会全体の合意により地域住民の参加の下で行なわれなければならない。 本稿は、トキの再導入が開始された、野生トキの生息地であった3カ国の中で野生復帰事業が先行する中国を中心に、次の課題を比較の観点から検討する。(1)3力国において、トキ再導入のために生息地である河川及び水田の生態環境の修復がどのようになされているのか。その主体と施策の異同を比較検討する。(2)主要な生息地である、里地・里山管理がどう変わったのか。農業政策と自然環境保護政策との関係を比較検討したい。
著者
吉岡 一男
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.65-84, 1986

成長曲線法は,モデル大気法とともに,恒星の大気の分光分析の方法としてよく用いられる.この方法では,恒星の吸収線の励起ポテンシャルや測定された等価幅の値などをもとに描かれた経験成長曲線と最もよく一致する理論成長曲線を選び出すことにより,その恒星の大気の励起温度などの物理量を求めている.従来,この両曲線の一致は目測でなされていたので,得られた結果に個人差があり,また,誤差の客観的な見積りが困難だった.この欠点をなくすためにコンピューターを用いた解析もいくつか試みられてきている. 本研究では,過去になされた計算機による方法を改良し,マイコン用に変換したプログラムを用いた二つのタイプの成長曲線解析法が開発された.そして,BaII星の一つであるやぎ座ζ星に対して,過去にコンピューターを用いて相対成長曲線法でなされたのと同じデータを用いて,本研究で開発された二つの方法で解析がなされ,過去の結果と比べられた.その結果,一方の方法の優位性が示されたが,同時に,結果が理論成長曲線の選択に非常に大きく依存する場合のあることがわかった.
著者
和田 久徳
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-14, 1987
著者
宮澤 康人
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.33-56, 2003

キリスト教は「父性的原理(paternal principle)」をもつ宗教であると一般的に言われている。ところがもう一方で、キリスト教は、聖母マリア信仰が強いことでも知られる。カトリック教会に必ず置かれている聖母像を見た人は、キリスト教は、本当は「マリア教」ではなかったのかという思いを抱くことがあるはずだ。聖母信仰がもし「母性原理(maternal principle)」を意味するとしたら、そこには葛藤が生まれるのではないだろうか注2)。葛藤は、第一に、三位一体の教義のなかにマリアは含まれていないにもかかわらず、マリアをテオトコス(Theotokos)、すなわち神の子の母、と位置づけるときに表れる。第二に、マリアの夫であり、イエスの「父」であるヨセフを、天上の父との関係でどう意味づけるか、という問題として表れる。この二つの葛藤が交錯するところに、「二つの三位一体」という崇敬の対象があるように思われる。「二つの三位一体」とは、父と子と聖霊という「天上の三位一体(trinidad del cielo)」に対応して、地上における、イエスと母マリア、父ヨセフの家族、すなわち聖家族を、「地上の三位一体(trinidad de la tierra)」と名付け、その二つをセットにしたものを指す。これは、15世紀ころから聖職者たちによって提唱され、16、17世紀には、スペインの、とくにアンダルシーア地方でたくさん図像化された。けれども、18世紀には、「地上の三位一体」という言い方が、一般信徒の誤解を招くという理由で異端審問所から警告を受けることになる。それにもかかわらず、「二つの三位一体」の図像は、アンダルシーアの教会に現在でも残されているだけではない。ラテンアメリカの教会では、18世紀以降から現在に至るまで盛んに制作され崇敬され続けている。以上のようなことは、どのような文脈の中で、どのようにして起こったのであろうか。本論文は、この問題に主として図像資料を使ってアプローチする試みである。それによって、文字資料だけに頼る概念的な理解とは違う面が見えてくることを期待している。
著者
渡邊 二郎
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.47-77, 2001

シェリングは、18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したドイツ観念論の哲学者であるが、先行のフィヒテに対しては自然哲学を、後続のヘーゲルに対しては積極哲学を提唱した点で、独自性をもつ。それは結局、自然の根源性と、論理で割り切れない歴史の不透明な現実とを、強調したことにほかならない。その自然観と歴史観は、21世紀を迎えた私たちに対しても大きな示唆を与える。なぜなら、現代は、自然の生態系との共生なくしては文明社会の存立が危ぶまれる時代であり、また、その地球上の共同社会のうちに未曾有の紛争や軋轢が生じている激動の時代、すなわち人類の歴史の行方が到底定かには見通せない時代だからである。シェリングは、終生、自然と歴史という二つの大きな問題場面を共に視野のなかに収めながら、包括的な思想体系を樹立することに精魂を傾けた哲学者であった。その点は、彼の諸著作に即して具に立証されうる。その際、とくに注意すべきなのは、自然のなかから人間が生まれ、その人間において自由と精神が出現し、こうして一方で、人間は、自然の頂点に立つとともに、他方で、宇宙の場を住処としており、人間は、精神と歴史という新しい過程の出発点に立つ者として、重い責務を背負っているとシェリングの見なしている点である。シェリングの自然哲学のうちには、生きた自然の強調、自然と精神の同根性への着眼、自然の自己組織性の指摘、自然の内的構成の原理的把握、物質の重視といった思想が認められ、きわめて現代性に富む考え方が提起されている。とりわけ、注意すべきなのは、万物を生み出す根源的な働きが、物質のうちに存在根拠を置くという仕方で具体的に展開すると見なされている点である。ただし、最初に現存するものとしてその物質のうちから、さらにより高次のあり方が自然の過程として順次展開されてゆくとシェリングは見ており、けっしてたんなる機械論的唯物論を説いたのではないことは付言するまでもない。自然のうちから、やがて人間が現れる。人間において、とりわけ重要なのは、人間が、その自由と精神の活動を、共同社会において、実践的行為によって展開してゆくとき、そこに、自他の自由を互いに尊重し合う世界市民的な法体制が、人類の歴史を通じて、ほんとうに実現されるか否かにあるとシェリングが考えている点である。しかし、歴史とは、いかにそこで人間が確信にみちて行為しても、けっして思い通りにはならないところにその本質があるとシェリングは見なしている。そこには、自由と必然性との葛藤という悲劇的なものが潜み、それを調停する絶対者を知りえないのが人間の運命であるとシェリングは考えている。したがって、人間がなしうることは、ひとえに、歴史のうちに摂理があることをひたすら信じて、苦難のなかを理想に向けて努力し精進するという過程だけなのである。こうした悲劇的な人間観が、初期から晩年に至るまで、シェリング哲学の根底に伏在していると見てよい。