著者
市村 高男 松田 直則
出版者
高知大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

土佐国幡多荘は、16世紀末から約1世紀の間、京都下りの公家一条氏が支配していた。本研究では、一条氏が幡多へ下向した理由、そこでの役割を考えるため、文献史学と考古学の両面から基礎資料の収集と検討を進めた。今回、幡多地域出土の遺物については、あまり報告書に収録できなかったが、中世城郭跡を中心とした一条氏・幡多地域の考古学的考察の中で活用している。文書・記録などの文献史料については可能な限り報告書に収録し、研究者が共有できるようにした。これらの史料や遺跡・遺物の調査・検討を通じて、次のようなことが明らかになった。(1)一条氏は土佐に在住したまま公卿に列した希有な存在であり、恒常的に京都の公家社会と交流する一方、16世紀前半から地域の領主や地侍を家臣団に編成し、支配領域の拡大を試みるなど戦国大名化への動きを見せた。(2)一条氏は本願寺や堺の商人と結んで大船を建造し、遠隔地交易への強い関心を示していた。この事実は、一条氏の贈答品に南方の産物が多く見られること、幡多地域から多量の貿易陶磁器が出土すること、一条氏が加久見氏(海賊)と婚姻関係を結んでいたことなどと合わせて、同氏が対外交易に関与していたことを暗示する。一条氏が京都から幡多に下向し、そのままこの土地に住み着いた理由もこの辺にあると考えられる。(3)一条氏は戦国前半期から幡多地域に多くの城郭を築いているが、その技術がやがて長宗我部氏に継承・発展されるなど、想像以上に土佐の社会や文化に大きな影響を与えていた。以上のように、一条氏や幡多地域の役割は正しく評価されるべきであり、土佐国を越えた視点で見直していく必要がある。
著者
市村 高男
出版者
高知大学大学院黒潮圏海洋科学研究科
雑誌
黒潮圏科学 (ISSN:1882823X)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.174-187, 2013-03

鹿児島県三島村は、薩摩半島の南西海上に浮かぶ離島であり、竹島・硫黄島・黒島の三つの島からなる。これらの三つの島はトカラ列島とともに、中世日本の西の境界領域であった。この点に着目し、私は三つの島の文書・遺物の調査と遺跡の調査を実施した。本稿は、それらの成果を報告し、西の境界領域研究の新たな発展の基礎を固めた。また、本研究と黒潮トライアングルとの関係についても言及した。この研究によって、私は次ぎの点を明らかにした。まず第1に、三つの島の歴史的変遷を明らかにした。三つの島は、12世紀後半、13世紀末~14世紀前半、15世紀後半~16世紀後半に大きな画期があり、第3の画期が近世の島社会の出発点となった。第2に、硫黄島の三回目の変化は、島外からの新たな移住者である長浜家や岩切家らの活動によってもたらされた。長浜家は海の有力な商人であり、岩切家は硫黄採掘に関わる技術者であった。やがて長浜家は硫黄島の支配権を掌握し、君臨した。 第3に、竹島・硫黄島・黒島やトカラ列島がある海域は、多くの部分が黒潮の流れに洗われており、そこに点在する島は、航海する船の寄港地として重要な役割を果たしていた。島津氏や種子島氏らは、島の支配と商船の支配を一体的に考えていた。この海域の島々は、九州と沖縄との間の航海において、不可欠の存在であった。 第4に、この研究がフィールドとした島々や海域は、大半が黒潮トライアングルと重なっている。そこは人やモノの行き交う場であり、日本と琉球のせめぎ合いの場でもあった。それゆえ、この海域や島々の研究は、人文科学から黒潮トライアングルを考えることと深く関連する。自然科学と人文科学・社会科学との協働による研究の進展が望まれる。
著者
市村 高男
出版者
高知大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究は、土佐国幡多荘が四国随一の貿易陶磁器出土地である点に着目し、その荘園領主一条氏による海外貿易の可能性を探り、合わせて中世日本における幡多地域の歴史的な役割について考察した。その基本的な作業として、一条氏の外戚となった加久見氏の屋敷跡の発掘調査を実施し、建物跡や中国産陶磁器や国産の陶器・土器など多数の遺物を検出、土佐でも有数の存在であったことを確認した。加久見氏屋敷跡は、城跡や菩提寺・家臣団屋敷などを伴う小世界の中心であり、川を媒介に港湾・港町とも直結する海の領主の本拠に相応しいものであった。一条氏は、こうした海の領主たちを広く組織し、海上における彼らの日常的な活動を取り込むことによって、広域的な交易活動に参画していた。一条氏は実際に唐船を建造しており、しばしば舶来品を朝廷や京都の一条氏へ贈るなど、海外貿易に関与していた様子を明確に示している。畿内の一角からブランド石材で作られた多数の石造物が搬入されていたことも明らかになってきた。幡多地域で多量の中国産等の陶磁器類が出土するのも、一条氏の広域的な交易活動によるものと考えてよさそうである。また、一条氏は、防長の大内氏、豊後の大友氏、日向の伊東氏と婚姻関係を結び、豊後水道から瀬戸内海にかけての航路の安全を確保し、この航路を頻繁に使用していた様子も確認できる。さらに本願寺や紀州の雑賀門徒とも結んで紀淡海峡から太平洋を通って幡多や九州へ通じる航路も確保していた。土佐国幡多荘は、瀬戸内海・豊後水道ルートと太平洋ルートとが合流するところに位置しているが、それによってこの地域の海運上の位置が決定的に高まることになった。一条氏が幡多荘を重視したのはこのような理由によるものであった。