著者
村井 尚子
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.191-202, 2013-01-31

教育学研究においては、ケアと正義を対比させる文脈でケアリング論の検討が行われてきている。本稿では、ケアという語を実践的な行為として捉えるケアリング論とは方向性を違え、まずはケアという語の語源を辿った。ケアは元々は気にかかる、気がかりという意味合いを強くもつもので、ハイデガーの存在論の中心的概念であるSorgeを手がかりに考えることで、我々の生の有り様が照らし出されてくる。気がかりとしてのケアは、親であることの副作用ではなく、気にかけていること自体が親であるという生活そのものであると言える。言い換えれば、気がかりは親であることの原料であり、子どもの生へと自身の生を寄り添わせる接着剤の役割を果たす。子どもの側から見れば、ケアしてくれる=気にかけてくれる存在が、子どもが育っていくためには不可欠なのである。この気がかりは、親であるかぎりずっと続く慢性の病とも言える。つねに気にかけ続けることは、痛みを伴うものでもあるが、子どもを希望として経験することもまた、親であること、ケアすることの原料だとも言えるのである。
著者
村井 尚子
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.73-83, 2012-01

ユトレヒト学派の現象学研究の流れを継承するオランダの教育学者トン・ベークマンは、天賦の才を備えた学者にのみ可能であった現象学の方法を教育学を学ぶ学生にも可能にするために、「現象学の民主化」という試みを行っていた。本稿では、「現象学の遂行」と名づけられたユトレヒト大学での授業において彼とその共同研究者らが実施していた現象学的な記述の分析の手順について、論文「現象学的記述の分析」を参照しながら考察する。また、その手順に従って筆者のゼミで実施した「暗闇の中での恐怖」に関する状況分析について報告を行う。彼の提起した現象学的記述の方法は、哲学的な厳密性に関しては議論の余地があるものの、教師を目指す学生や教育を研究するものが子どもを理解し行為を方向づけるための重要な方策となるものと考える。
著者
村井 尚子 ムライ ナオコ Naoko MURAI
出版者
大阪樟蔭女子大学学術研究会
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.175-185, 2016-01

本研究は、子どもにとっての「家」のもつ意味を現象学的人間学的な手法をおよびリアリスティック・アプロー チを用いた授業を展開することで、学生とともに探究する試みを扱ったものである。現象学的人間学の方法は、1950 年代のオランダユトレヒト学派によって用いられるようになり、現代カナダの現象学的教育学者マックス・ヴァン= マーネンによって深化されることで各国の教師教育の現場で活用されるようになっている。さらに、リアリスティッ ク・アプローチは、現代オランダの教育学者F・コルトハーヘンによって、学び続ける教師を養成するための教師教 育の手法として開発された。筆者はこれらの手法を参考にしながら、学生と共に創るワークショップ型の授業を実施 し、家のイメージの抽出、絵本や映画における家の意味についての考察、学生自身のお留守番の経験を振り返るといっ た方法を用いて、様々な角度から子どもにとっての「家」の有り様を明らかにした。この授業を通じて、学生達は、 家族が子どもの成育に与える影響を自ら体感的に理解し、家庭の有り様と子どもとの関係に感受性豊かに気づき、教 師・保育者として子どもの育ちの基盤を支えていくことの意義を看取したと言える。
著者
村井 尚子 ムライ ナオコ Naoko MURAI
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.5, pp.175-183, 2015-01-31

省察的実践家概念は教師の専門性を基礎づける概念として教育学研究において一定の位置づけを得ている。しかし、その鍵概念となる省察の意味するところについては、これまであまり詳しく検討されてこなかった。本稿ではまず、ショーンが『省察的実践とは何か』の中で用いている行為の中の省察を3つの意味で用いていることを明らかにする。第一にショーンは、行為の中の省察の前提となる行為を、数か月といった比較的長い期間を指すものとして用いている。次に、行為のただ中における省察について述べるが、言語を媒介とするこの省察は、わずかな瞬間であっても行為を中断することを前提とし、その中断自体の有用性が主張されている。しかしヴァン=マーネンによれば、教室で教師が子どもと対峙している状況においては、立ち止まって考える猶予はなく、常に真正な態度で子どもとパーソナルな関係を保っていることが求められる。そのような状況において我々は、教師として子どもにとって善いと思われることをほとんど熟考したり計画したりしないままに判断し行っている。ここで要求されるのが教育的タクトなのである。教育的タクトは、言語を媒介しない直観ともいえるショーンの3つ目の省察に近いと考えられるが、それが「教育的」である限り、何よりも子どもの善に向けて行われなければならないという意味で、通常の省察とは異なるものである。教育的タクトは、行為の中の省察に近いものではあるが、それは行為に先立って行われる省察、行為の後に回顧的な仕方で行われる省察を繰り返すことによって培われていく。しかもその省察が、省察の仕方そのものを省察するという現象学的な仕方においても行われることが重要なのである。The idea of ""reflective practitioner" is considered as a basic concept underlying the professionalism of teachers. However, the meaning of reflection has not been examined closely until now, even though it is a key term of ""reflective practitioner". Donald Schön uses the idea of reflection in action for three meanings. First, a practitioner's reflection in action may not be very rapid. The action present may stretch even weeks or months. Second, Schön describes the reflection in the midst of action. He insists that even when the action present is brief, performers can sometimes train themselves to think about their actions. However, according to van Manen, when we interact with students we must maintain an authentic presence and personal relationship for them. So we do not have enough time to stop and think as a teacher in the classroom. We should do the right thing for the child without reflecting in a deliberative or planning manner. He argues that in such a situation pedagogical tact is required. Schön also mentions the third type reflection which is implicit. This type of reflection is considered to be similar to pedagogical tact. However it must be pedagogical, be oriented to the good for children. In order to enhance the pedagogical tact, it is useful for teachers and training teachers to conduct the anticipate reflection and recollective reflection time and time again. And it is important that these reflection should be phenomenological.
著者
村井 尚子
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.203-212, 2013-01-31

親や教師として我々は、なぜ子どもをケアするだろうか。ヴァン=マーネンはそれは非媒介的で直接的な出会いによるとし、その契機をレヴィナスの「顔」の到来という理論によって読み解く。レヴィナスによれば、他者との出会いとは、その人の「顔」を見ること、私を呼ぶその人の声を聞くことである。そのことによって私は、不可避的に応答することを迫られる。つまりケアする責任を感じるのである。しかしデリダによれば我々は、いっときには一つのこと、一人の他者のことしかケア(気にかけることが)できない。他の多くのケアを必要としている他者への責任を担えないという事実は、我々に倫理的痛みをもたらす。しかし、ヴァン=マーネンはその痛みこそを大切にする。教師は特定の生徒の「顔」に向き合っていると感じ、その生徒について気にかけているからこそ、自分が責任を負っている多くの、ときに「顔のない」他の生徒すべてに対して繊細でいられるのである。