著者
永谷 健
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.47-59, 2023-03-31

近代日本において殖産興業を先導した経済エリートは、多様な公職に就任するとともに特徴的なハイカルチャーを生み出すなど、政治的・文化的に独特な存在感を示した。彼らがエリート的な地位を占めた過程には、二つの差異化が重要な意味を持つ。「実業」の模範者として自己を正当化する過程、そして、エリート文化の指標となる象徴財を獲得する過程である。前者は、封建的な賤商意識からの離脱を志向するものである。明治期半ばには、勉学(とりわけ「虚学」)や学校教育とは異なり、また、非道徳的な「虚業」とも異なる実地の民業が「実業」として正当化される。彼らはそうした思想的な趨勢に倣いながら、明治後期において新聞・雑誌で自らを道徳的な「実業家」として語った。また、後者は、明治初年に上流社会で流行した能楽や茶事を自己の地位にふさわしい文化的アイテムとして彼らが積極的に取り入れ、趣味のネットワークを形成した過程である。二つの差異化の過程は、勉学・学校教育の貶価や伝統文化への傾倒という点で、プレモダンへの志向という特徴を共に持つ。次世代の実業家も反知性主義や伝統主義を表明することが多く、そのことは昭和初期という社会の変革期に至って、再び経済エリートの社会的な立ち位置を複雑なものとした可能性がある。
著者
永谷 健 Nagatani Ken
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-39, 2022-03-31

所得や富の格差が拡大した局面を示している点で、昭和戦前期は現代日本のゆくえを考察するヒントを提供してくれる。格差の拡大に関わる当時の社会変化でとくに注目すべきは、経済主体が自由に営利活動を行える状況が一変し、国益至上主義を具現化する総動員体制が急速に構築されていった点である。この変化がなぜ比較的スムーズに実現したのかを説明するには、営利主義の代表的な実践者であった経済エリートを取り巻く当時の社会状況を検討する必要がある。彼らが明治以来の営利主義のポリシーを手放して、抵抗しつつも経済統制を受け容れたことは、軍閥・右翼の圧力や当時の国益至上主義による思想的感化などによってこれまで説明されてきた。ただ、これらの説明は営利主義から国益至上主義への反転を十分に説明するものではない。この劇的な変化については、次の諸点を含む説明が必要であろう。(1)当時は営利活動を行う経済エリートへの批判が著しく、それは温情主義批判や三井のドル買い批判に見られるように、反エリート主義を内容とするものであった。(2)同じ反エリート主義は血盟団員の供述からも確認できる。(3)三井財閥が行った「転向」の初期のポリシーは反エリート主義に対する「宥め」であり、それはエリートと大衆のボーダーレス化を狙うものであった。(4)諸財閥が「転向」に同調するなか、そのポリシーは国益主義へと傾斜していった。(5)こうした傾斜は、明治以来の観念的な「国家的貢献」の実質化として理解することができ、国益至上主義の拡大を促す結果となった。
著者
永谷 健 NAGATANI Ken
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.87-101, 2014

貧富の格差が社会問題としてクローズアップされた大正期半ば以降、実業エリート層と他の階層のあいだの感情的な軋蝶が激化している。注目すべきは、実業エリート層自身による言動や彼らに関する言説が蓄積されるなかで、富裕なエリート層の階層としての社会的意義がこの時期に急変した点である。実業エリートたちに関連する記事が多数掲載されている3誌(『実業之日本』『中央公論』『太陽』)の記事内容を検討すると、第1回国際労働会議の議案(労働時間や最低就労年齢など)に対する実業エリートたちの対応が契機となって、彼らへの批判的思潮が急速に活性化したことがわかる。批判の論点は、彼らの前近代的な労働者観、および、温情主義への固執による労働条件の国際標準からの撤退である。先の時代、すなわち第一次大戦中とその後の数年間にあっては、経済的な拡張主義の高揚のなかで、彼らは文明国への先導者、そして事業上の「リスク・テイカー」として捉えられることが多く、また、彼ら自身もしばしばそのように自己定義を行っていた。したがって、国際労働会議をめぐる一連の事態は、国際標準への彼らの党派的な対応に対する"興醒め感"と彼らへの否定的な社会的評価を招いた。また、拡張主義を背景に発足した日本工業倶楽部へと実業エリート層の意思表明機関が一元化したことも、彼らへの批判が激化した一因となった。
著者
永谷 健
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.97-115,209, 1990-10-31 (Released:2017-02-15)

Es sind Anzeichen heutzutage dafür vorhanden, daß Simmel neu bewertet wird. Aber es gibt wenige Arbeiten, die den modernen Stil seinen Texten innewohnend entziffern wollen. Diese stellt seine soziologischen Ausdrücke auf die richitige Entfernung ein, und macht seine Erkenntnishaltung klar, die die Wirklichkeit als eine Modalität, in der einige Realitäten oder Leitsätze sich kompliziert kreuzen, beschreibt. Dabei ist es bedeutungsvoll, auf seine soziologische analytische Vorrichitung, die >Reihe< zu achten. Er beschreibt oft soziale Beziehungen als Zustand, der sich von der >Kausalreihe< oder >teleologischer Reihe< leiten läßt. Die >Kausalreihe< ist die Ursache-Wirkung Kette, die >teleologische Reihe< die Zweck-Mittel Kette. Und er findet einen Sinn der Modernisierung im Verlauf, in dem die >Kausalreihen< zu den >teleologischen Reihen< neu zusammengesetzt werden. Noch dazu auf dem Umweg seiner formalen Soziologie macht er die Welt, die die teleologische Welt neu gestaltet, ausfindig. Das ist die >Geselligkeit<. Die sozialen Beziehungen, die Simmel schildert, wandeln sich von der kausalen Welt zu der teleologischen Welt, und letztens zu der geselligen Welt. In diesem Wandel zeigt er mannigfaltige soziologische Probleme.
著者
永谷 健 NAGATANI Ken
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences, Department of Humanities : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.1-12, 2018

日本で企業経営者や起業家が啓蒙家や教育者の一面を持つのは、明治以降の産業化で当時の実業家たちが社会的なプレゼンスを著しく高めたことに始まる。その直接的な契機は、明治30年代半ばの成功ブームであろう。明治期をつうじて、彼らには「奸商」や「御用商人」といった悪評がついてまわったが、成功ブーム以降、彼らは模範的な成功者として扱われ始めた。成功ブーム自体は、日清戦争の戦勝ブーム後に到来した恐慌や時事新報が掲載した資産家一覧がもたらしたセンセーションなどを背景として生じた。その初期においては、書籍や雑誌で海外の富豪の伝記や言行録が積極的に紹介されていた。また、『実業之日本』は成功雑誌へと誌面を改めることで成功ブームの中心的な媒体となり、日本の「成功実業家」の事績を数多く紹介した。さらに、明治38年ごろから、同誌や一部の総合雑誌で、彼ら自身が語る論説やエッセイが大量に掲載され始めた。これには、「高等遊民」の増加が社会問題となった当時の社会状況が深く関係している。メディアの要請に応えて、成功実業家は若者の学歴志向や俸給生活志向を矯正し、彼らを「独立自営」へと導く啓蒙家として振る舞い始めた。そのなかで彼らは、自己の経歴や事績を正当化していった。