著者
渡邊 瑛季
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p> Ⅰ はじめに</p><p></p><p> 非大都市や選手輩出地を対象としたスポーツイベント開催によるレガシー研究は日本では少ない状況である。本研究は,国際大会や国内上位大会の開催に伴うスピードスケート選手輩出地におけるレガシーを,北海道十勝地方を対象にして考察する。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅱ 十勝におけるスピードスケート文化</p><p></p><p> 十勝では,1950年代から冬の体力づくりの一環として学校体育でスピードスケートが指導されてきた。現在でも小学生だけで約1,000人が競技に取り組むスピードスケート盛行地域である。冬季には学校の校庭や各市町村の運動公園などにスケートリンクが造成され,十勝関係者の競技結果は地元新聞紙面をにぎわすなど,スピードスケートは十勝の冬の風物詩である。中学,高校の全国大会では,十勝の学校が上位入賞の常連校であり,競技レベルは非常に高い。清水宏保氏や髙木菜那・美帆選手など五輪メダリストも輩出してきた。よって,十勝ではスピードスケートは世界に通用するスポーツとして認識されている。</p><p></p><p> 勝利志向に特徴づけられるスケート文化の存在の一方で,十勝でのワールドカップ(W杯)などの国際大会の回数は,2007年まで3回のみであった。高校卒業後は,ほとんどの選手がスケート部のある関東甲信の大学や実業団に進む。十勝での選手の引受先も少なかったため,十勝は有望選手の輩出地といえる。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅲ 屋内スピードスケート場の建設による国際大会の増加</p><p></p><p> 十勝のスケート関係者は,夏季にも使用可能な屋内のスピードスケート場の設置を長く懇願していた。また,長野五輪で帯広市出身の清水宏保氏がスピードスケート競技では日本初となる金メダルを獲得した。こうした背景から,1999年に帯広市長を会長とする「北海道立屋内スピードスケート場十勝圏誘致促進期成会」が発足し,屋内スピードスケート場建設の機運が高まり始めた。しかし,北海道の財政難により2004年には帯広市が建設主体になった。2006年の帯広市長選では総事業費約60億円とされたスケート場の建設が争点になったものの,地元経済界の後押しもあり,推進派が再選された。その結果,2009年8月に日本で2例目の屋内スピードスケート場である「帯広の森屋内スピードスケート場(明治北海道十勝オーバル)」が帯広市郊外に開設された。地元選手の練習場所でもあるほか,W杯やアジア冬季競技大会などの国際大会が約2年に1度,全国規模の国内上位大会が毎年数回開催されるようになった。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅳ 国際大会によるレガシーとしてのスケート文化の強化</p><p></p><p>帯広市での国際大会や国内上位大会を直接観戦する住民が増えている。十勝の小中高生選手は,世界や国内を転戦する自身の学校やチーム出身の一流選手のレースを観戦し,レース後に交流する機会も時折ある。これは,全国制覇を志向する選手が,十勝出身の一流選手を目標的存在として認識する契機となり,また競技力向上への意識を高めることにつながっている。</p><p></p><p>また,主に帯広市に本社を置く企業の経営者が,国際大会や国内上位大会で活躍する十勝や北海道出身選手の姿を見て,子どもの頃と比べた成長に感銘を受け,スポンサーになったり,スケート場内に企業広告を掲示したりするケースが多数みられる。個人競技であるがゆえ社名がメディアで報じられやすく企業の宣伝などに寄与すること,また経営者がスピードスケート経験者であって,競技への理解があることが主な背景にある。国際大会や国内上位大会に伴うこれらの変化は,十勝関係の選手の競技力を育成面・資金面で向上させることに寄与している。</p><p></p><p> </p><p></p><p>Ⅴ おわりに</p><p></p><p>十勝はスピードスケート選手の輩出地と,国際大会や国内上位大会の開催地とが重なる場所である。出身地での一流選手の活躍が大会で住民に可視化されることは,勝利志向に特徴づけられるスケートの文化的価値の強化というレガシーを形成した。</p>
著者
渡邊 瑛季
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100089, 2016 (Released:2016-11-09)

Ⅰ 序論 1980年代後半以降,スポーツツーリズムを取り入れ,地域振興を目指す自治体が先進国を中心に増加している.欧米では,スポーツツーリズムを都市経営戦略として位置づけている例があり(工藤 2009),日本でも1990年代以降,地方行政の施策でスポーツ観光が推進されるようになった(花島ほか 2009; 須山 2010).その多くは,スポーツ合宿誘致やスポーツイベントの開催である. 日本のスポーツ合宿地は,長野県,山梨県など首都圏外縁部に1950年代後半以降立地してきた.一方,1980年代後半以降,宮崎県,北海道,沖縄県など大都市圏から離れた地域にもスポーツ合宿地があらわれた.首都圏外縁部の合宿地に関する地理学的研究はあるが,新たな合宿地に関する研究は限られており,合宿の誘致における行政の主導的役割(須山 2010)の指摘にすぎない. 本研究では,研究事例が無い北海道オホーツク地域を対象に,1980年代後半以降発展してきた新しいスポーツ合宿地の形成過程を明らかにする.研究方法は,ゲストが初めて来訪する際に,ゲストとホストを結びつけた主体である媒介機能と,ホストである宿泊施設の合宿への対応および経営への影響の分析である.Ⅱ オホーツク地域におけるスポーツ合宿受入の端緒 オホーツク地域における夏季のスポーツ合宿は,1985年に明治大学ラグビー部が北見市で合宿を行ったことにはじまる.これは,北見市の誘致活動に加え,北見市出身の同部OBの人脈によるものであった.当時,大学・社会人ラグビー部の多くは長野県菅平高原で夏季合宿を行っていたが,1980年代に高校生チームが増加したことで,1面のグラウンドを複数のチームが同時に使用するなどの状況が生じたため,貸切利用を好む大学・社会人チームの中には合宿地を変更するものが現れた.オホーツク地域には2015年度には284チーム,8,661人(実人数)が訪れた.道外からのゲストの多くは関東地方からの実業団や強豪大学であり,彼らは航空券など高額な合宿費用を負担できる.種目別にはラグビー(3,057人),野球(1,715人),陸上(1,287人)の順に多く,道内と道外チームの人数割合はほぼ半数ずつであった.Ⅲ 媒介機能からみたスポーツ合宿の受入パターン オホーツク地域に来訪するゲストである合宿者と,ホストである宿泊施設を結びつける媒介機能は,行政(受入市町),他チームの指導者が挙げられる.行政の窓口は観光ではなく,スポーツ施設を管理している社会教育関係の部署に置かれていることが多い.網走市の場合,2014年度に合宿を行った49チームのうち,網走市で初めて合宿をした年に,市に問い合わせて宿泊施設を手配したゲストは46ある.このうち他チームの指導者に網走市を紹介された例が8含まれる.一方,市を介さず直接宿泊施設を手配したゲストは3にすぎない.この傾向は,他の自治体でも同様である.これは,行政が合宿誘致事業を先駆的に実施していて,ゲストは行政に合宿申込をすれば,宿泊施設とスポーツ施設の手配が同時にできることが背景にある.練習場所であるスポーツ施設は,公共施設であるため使用には行政に申請する必要がある.Ⅳ 宿泊施設の受入対応および経営への影響 ゲストが宿泊する宿泊施設は,温泉付き大型ホテル,ビジネスホテル,旅館,公営施設など多岐にわたり,受入希望がある宿泊施設に対し,行政がスポーツ施設の利用状況を考慮してゲストを振り分けている.合宿2年目以降は,行政を介さず宿泊施設にゲストが直接予約を行うようになり,合宿地として定着することが多い.オホーツク地域は,流氷,網走監獄,知床などの観光資源がある.しかし,夏季における宿泊者数は1990年代以降,旅行会社による団体旅行が縮小したことで減少しており,この影響を受けた網走市の宿泊施設では,スポーツ合宿の受入が夏季の重要な経営基盤となっている.津別町でも道東では規模が大きく,11月初旬から営業を開始し,スキージャンプ選手などの合宿を受け入れていた津別スキー場が2007年に閉鎖されたことで,宿泊需要が減少した.そのため,夏季のスポーツ合宿は,宿泊施設だけでなく,町内の食材卸・販売店にとっても大口需要となっている.Ⅴ 結論 オホーツク地域では,スポーツ施設の利用と宿泊施設の手配の決定権を行政が握って主導することでスポーツ合宿を受け入れてきた.スポーツ合宿は,宿泊施設の経営に重要で,それ以前のツーリズムに代わるオルタナティブツーリズムとなっている.(本研究は,公益財団法人ヤマハ発動機スポーツ振興財団2015年度スポーツチャレンジ研究助成「日本におけるスポーツツーリズムの空間的構造の解明」(研究代表者:渡邊瑛季)による研究助成の成果の一部である.)