著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.45, pp.55-73, 2015-03

拙稿「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察(その1)-関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況-」(別府大学大学院紀要17号、別府大学会、2015年)より続く。これまで関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況については、日本国内の史料(日本側の史料)により検討されてきたが、イエズス会宣教師が当該期の日本国内の政治状況などを報じた『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には、関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況などが詳しく記されているので、本稿では『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の記載内容の検討をもとに、関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況について考察する。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.45, pp.17-36, 2015-03

拙稿「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察(その1)」(『別府大学紀要』56号、別府大学会、2015年)より続く。慶長3年8月の豊臣秀吉の死去以降、五大老(徳川家康・前田利家〔利家死去後は前田利長〕・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)・五奉行(石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家・浅野長政)の集団指導体制によって政権運営がおこなわれたことは周知である。これまでの研究史では、五大老・五奉行について日本側資料をもとに考察されてきたが、本稿では『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載を検討することにより、新しい視点を提示しようと試みるものである。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.107-128, 2016-03 (Released:2016-08-04)

首帳とは「戦場で討ち取った敵の首と、それを討ち取った人の名前とを記す帳簿」(1)である。本稿で扱う『関原首帳(福嶋家)』は、関ヶ原の戦いにおいて、福島正則隊が討ち取った敵の首の数と討ち取った福嶋家家臣の名前を記載したものである。『関原首帳(福嶋家)』は東京大学史料編纂所ホームページの所蔵史料目録データベース(2)において『史料稿本 四十三』に収録されているが、活字化されていないためか、これまでの関ヶ原の戦いに関する研究史において、『関原首帳(福嶋家)』について論及した研究は管見の限り見られないので、本稿では、この『関原首帳(福嶋家)』の内容を検討することにしたい。 同様の史料としては、関ヶ原の戦いにおける細川家の「首注文」があり(3)、その内容については拙著『新解釈 関ヶ原合戦の真実-脚色された天下分け目の戦い』(4)において検討をおこなった。 なお、合戦における首取りの慣行については、すでに鈴木眞哉『刀と首取り-戦国合戦異説』(5)において論及されており、首取りがおこなわれた理由として「当時の武士たちにとっては、それが即功名につながっていたから」であり、「首取りは、このように誰でも、比較的容易に立てることのできる功名であったから、功名の代名詞のようになった」と指摘されている。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学会
雑誌
別府大学紀要 (ISSN:02864983)
巻号頁・発行日
no.53, pp.65-77, 2012-02

慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに至る政治的・軍事的動向を把握するうえで、同年6月~9月における徳川家康の軍事行動について検討することは重要であり、必要不可欠な考察であると言えよう。本稿では、当該期に家康が発給した多くの書状を中心にその内容分析をおこない、昨年(2011年)3月に刊行された『愛知県史』資料編13、織豊3の所収史料など新出史料の分析もおこない、新知見を得ることを目指すものである。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学大学院文学研究科
雑誌
別府大学大学院紀要 (ISSN:13450530)
巻号頁・発行日
no.14, pp.37-56, 2012-03

※拙稿「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)」(『別府大学紀要』53号、別府大学会、2012年)より続く。慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに至る政治的・軍事的動向を把握するうえで、同年6月~9月における徳川家康の軍事行動について検討することは重要であり、必要不可欠な考察であると言えよう。本稿では、当該期に家康が発給した多くの書状を中心にその内容分析をおこない、昨年(2011年)3月に刊行された『愛知県史』資料編13、織豊3の所収史料など新出史料の分析もおこない、新知見を得ることを目指すものである。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学会
雑誌
別府大学紀要 = Memoirs of Beppu University (ISSN:02864983)
巻号頁・発行日
no.60, pp.151-161, 2019-02

本稿は、慶長5年(1600)10月20日に立花家の軍勢と鍋島家・龍造寺家の軍勢が対戦した江上八院の戦い(江上合戦)において、鍋島家側が作成した頸帳(首帳)の内容について考察した。さらに、鍋島家先手の兵科別編成、この戦いにおける戦闘の具体的状況、『佐賀藩諸家差出戦功書』における記載内容についても論及した。 さらに追記では、江上八院の戦い関係の書状として、これまで関係書籍でよく引用されてきた「(慶長五年)十月廿日付吉村橘左衛門尉宛鍋島直茂書状」において、戦場地名を示す「八郎院」という記載は、「八郎院」ではなく「八之院」が正しいことを指摘した。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.129-150, 2016-03

高橋陽介氏が著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(1)を昨年(2015年)11月に自費出版された。高橋氏からは筆者に対して謹呈送付していただき、感謝している。早速のその内容を拝読したところ、関ヶ原の戦いに関する高橋氏の新説による見解と、筆者(白峰)による私見との間に解釈の相違がある箇所も見られるので、本稿では、そうした点も含めて、高橋氏の新説を検証していきたい。 高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(以下、高橋本と略称する)の内容は、以下のような構成になっている(目次とあとがきは省略する)。1 やはり「問い鉄炮」はなかった(6~9頁)2 一次史料のみによって考えるということ 九月十五日付徳川家康書状を読む(10 ~ 13頁)3 では実際にはどうだったのか 九月十七日付吉川広家書状の別解釈 九月十七日付吉川広家書状の別解釈①(14 ~ 17頁) 九月十七日付吉川広家書状の別解釈②(18 ~ 20頁) 九月十七日付吉川広家書状の別解釈③(21 ~ 23頁) 九月十七日付吉川広家書状の別解釈④(24 ~ 27頁) 九月十七日付吉川広家書状の別解釈⑤(28 ~ 30頁) 九月十七日付吉川広家書状の別解釈⑥(30 ~ 33頁) 九月十七日付吉川広家書状の別解釈⑦(33 ~ 40頁)4 山中における西軍の布陣について(41 ~ 45頁)5 なぜ西軍は関ヶ原へ向かったのか 九月十二日付石田三成書状を再考する 九月十二日付石田三成書状を再考する①(46 ~ 50頁) 九月十二日付石田三成書状を再考する②(50 ~ 53頁) 九月十二日付石田三成書状を再考する③(53 ~ 56頁) 九月十二日付石田三成書状を再考する④(56 ~ 59頁) 九月十二日付石田三成書状を再考する⑤(59 ~ 68頁)6 南宮山からみた東西両軍の布陣 九月十二日付吉川広家書状による裏付け(69 ~ 77頁)7 島津軍の中央突破・「島津退き口」について(78 ~ 82頁) 以下、順を追って、内容を検証していきたい。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学会
雑誌
別府大学大学院紀要 = Bulletin of Beppu University Graduate School (ISSN:13450530)
巻号頁・発行日
no.19, pp.37-47, 2017-03

合戦の際に出される感状や合戦手負注文についての研究史としては、中世から戦国期に関する事例研究は豊富であるが、近世における事例研究はいまだ未開拓の分野であるといえよう。よって、本稿では近世(慶長5年)の事例研究として、慶長5年(1600)10月20日の江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関して考察をおこなう。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学会
雑誌
別府大学紀要 (ISSN:02864983)
巻号頁・発行日
no.55, pp.35-47, 2014-02

〈はじめに~4.7月18日付明行坊・経聞坊宛稲葉通孝書状についての検討〉関ヶ原の戦い福島正則清須城稲葉通孝書状浅野幸長書状筆者は2012年3月に拙稿「フィクションとしての小山評定-家康神話創出の一事例-」(『別府大学大学院紀要』14号)を発表して、従来、"小山評定"は、慶長5年7月25日、徳川家康が上杉討伐のために東下した諸将を小山(下野国、現栃木県小山市)に招集して、上杉討伐の中止と諸将の西上を決定した軍議として通説化して扱われてきた点を批判し、一次史料の詳細な内容検討によりこれまで通説で肯定されてきた"小山評定"が歴史的事実ではなく、フィクションであることを論証した。この前掲拙稿の内容に対して、本多隆成氏は同年10月に同氏の論文「小山評定の再検討」(『織豊期研究』14号)を発表し、詳細な御批判を加えられた。よって、本稿では、本多氏によって前掲拙稿に加えられた批判点を検討して反論するとともに、前掲拙稿で検討できなかった諸点についても本稿では論及して考察した。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学会
雑誌
別府大学大学院紀要 (ISSN:13450530)
巻号頁・発行日
no.18, pp.65-77, 2016-03

『十六・七世紀イエズス会日本報告集』は、イエズス会宣教師が日本における布教活動に関して、その成果を報告したものであるが、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には布教活動とは直接関係のない諸大名の軍役人数(兵力数)の記載について具体的な数字が出てくる箇所がある。これまでの研究史では、このような視点から『十六・七世紀イエズス会日本報告集』を読み解いた研究成果はなかったので、その事例を『十六・七世紀イエズス会日本報告集』から掲出して若干の考察を加えることとする。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.41, pp.39-66, 2011-03