- 著者
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白峰 旬
- 出版者
- 別府大学史学研究会
- 雑誌
- 史学論叢 (ISSN:03868923)
- 巻号頁・発行日
- no.46, pp.18-72, 2016-03
関ヶ原の戦いに至る政治的経過において、慶長5年(1600)7月に石田三成と毛利輝元を中心とした石田・毛利連合政権が成立し、豊臣秀頼を直接推戴して豊臣公儀として政権が形成されたことを拙稿「慶長5年7月~同年9月における石田・毛利連合政権の形成について」(1)においてすでに指摘した。 この時期の石田三成、毛利輝元などの動向については、石田・毛利連合政権というとらえ方はしていないものの、すでに布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討-慶長五年七月十七日前後-」(この論考は「研究ノート」であるため、以下、布谷ノートと略称する)(2)、同「関ヶ原合戦と二大老・四奉行」(この論考は「論文」であるため、以下、布谷論文と略称する)(3)において検討がされている。 布谷氏が指摘した具体的な論点については後述するが、石田・毛利連合政権の当該期(慶長5年7月~同年9月)における具体的な動向を知るためには発給書状の検討が必要不可欠であり、その意味で本稿では、石田・毛利連合政権によって発給された書状を時系列データベース化することにより(4)、そこから読み取ることができる諸点について考察する。 また、阿部哲人「慶長五年の戦局における上杉景勝」(5)は、慶長5年の関ヶ原の戦いに至る政治的・軍事的過程における上杉景勝の役割・位置付けについて諸史料を綿密に検討して、新しい見解を提示している。阿部氏が指摘した具体的な論点については後述するが、こうした阿部氏の新見解も踏まえて、豊臣公儀としての石田・毛利連合政権の歴史的意義についても考察したい。