著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.151-163, 2016-03

これまで、関ヶ原の戦い(1)における徳川家康方、石田三成方双方の軍勢の布陣については、明治26年(1893)刊行の参謀本部編纂『日本戦史 関原役(附表・附図)』(2)収載の布陣図が近年まで踏襲されてきた。しかし、拙著『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(3)でその信憑性に疑義を呈したほか、直近では高橋陽介『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(4)、乃至政彦『戦国の陣形』(5)によって、石田三成の笹尾山布陣が明確に否定されるなど、根本的に再検討が必要になってきている。 また、桐野作人『関ヶ原 島津退き口』(6)では、前掲・参謀本部編纂『日本戦史 関原役(附表・附図)』(7)収載の布陣図について、石田三成方軍勢が横一戦に布陣しているように描かれている点に疑義を呈している(8)。 そもそも、「現在の関ヶ原合戦の陣跡地の場所は、神谷道一氏著による『関原合戦図志』(明治25(1892)年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し、現地事情を様々に考慮しながら決めたそうです。」(9)という指摘があることから、現在の関ヶ原の戦いにおける諸将の陣跡地比定が慶長5年(1600)当時の一次史料によるものではなく、その信憑性という点で大いに疑義があるため、今後、再検討の余地が大幅にあることは自明である。 こうした点を考慮すると、関ヶ原の戦いにおける徳川家康方、石田三成方双方の軍勢の布陣については、ゼロベースで考え直す必要が出てきたことになる。よって、本稿では、石田三成方軍勢の布陣について若干の考察を加えることにしたい。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.53-83, 2005-03

挿図あり
著者
稙田 誠
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.23-42, 2016-03

中世社会において、宗教の果たした役割の大なることは周知に属するであろう。神仏の力(神威)が人々を規定していたこと、広く認められる通りである。しかし、このように通常説かれる一般認識とは正反対に見える事象―神威を疑い、これに抗う態度や言動―が諸史料に散見されること、少しく中世史料を繙かれた方であれば、容易に想起し得ると思われる。中世を生きた人々が宗教に盲従していたわけではないことについては、かねてより指摘されてきた。例えば、中世文学・芸能史料(狂言等)を素材に、神威からの解放・脱却の言説を掬い上げようとする一連の試みは、その代表的成果といえる。近年の中世宗教史研究においても、理論・実証共に優れた瞠目すべき研究が現れている。筆者も、神仏と人々との角逐の実態について、その先鋭的な実例として神社仏閣焼き討ち、或いは墓の破壊・冒涜行為を取り上げ、不十分ながら考察を試みた。とはいえ、神威否定・誹謗の実態については、未だ未解明の部分が多いのが実情である。これを単なる「例外」と見なすことなく、まっとうな研究課題として俎上に載せることは、中世宗教史・心性史を掘り下げる際の有効な一手段となり得るのではないだろうか。 本稿では以上のような問題意識に立った上で、参籠祈願の場にスポットを当ててみたい。参籠祈願とは一般に「神社や仏堂などへ参り、一定の期間昼も夜もそこに引き籠って神仏に祈願すること」と理解される。祈願の内容は、治病・立身出世・敵討ち成就といった現世利益から浄土往生に至るまで様々である。人々は一心不乱に祈りを捧げたのであるが、そこはある種の喧噪と不穏な空気が渦巻く空間でもあった。というのも、参籠祈願の場は、神仏と人々が直接交感できると信じられたからであり、双方の距離が日常では想定し得えないほどに縮まったのである。斯様な宗教装置としての性格故、双方の間に深刻な矛盾を生じさせることも間々あった。具体的には、人々が自己の祈願を強引に叶えさせるため、神仏を恫喝するという事態が観察されるのである。神威を頼りに参じ、神仏の御前にひれ伏したはずの人々が、一転それに抗う態度を取り得た要因は如何なるものであったか。本稿は、斯様な場面を注視する作業を通じ、神仏と中世人の位相(神仏尊崇と神威超克の矛盾)を探る試みである。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.76-106, 2016-03

関ヶ原の戦いに関する諸史料を検討する場合、関ヶ原の戦いに関係した部将が発給した書状などの一次史料(同時代史料)の内容検討が重要であるが、それと同時に、当時、在京していた公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係の記載について検討することも重要である。よって、本稿ではこうした視点から慶長5年3月から同年12月までの公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載を筆者(白峰)が現代語訳して時系列データベースとしてまとめ、それを見ていくうえでポイントとなる箇所について、若干の説明を小論として加えた。
著者
中川 祐志
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.42, pp.1-12, 2012-03
著者
中川 佳奈
出版者
別府大学
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.A50-A63, 2006-03
著者
河野 房男
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.9, pp.p1-38, 1978-02
著者
福永 素久
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.1-17, 2016-03

大坂の陣(1614 ~ 15年)は、徳川VS豊臣の対立構造以外にも、徳川幕府の権威が西国まで及ぶための戦争であったことが、最近の研究で見えてきている(笠谷20071)。冬と夏に分かれ、大坂城周辺以外にも摂津・河内・和泉の広い範囲で行われた一連の戦闘が、幕藩体制を確立する上で1つの重要な事件であった事はいうまでもない。 一連の戦闘のうち、著名なもので真田丸の攻防がある。真田丸と言えば、慶長19年(1614)冬の陣の時、大坂城の南側を守る丸馬出し状2の出丸と築かれた事は知られている(第1図)。通説では真田信繁(幸村)が構築し、自分たちより倍以上の徳川軍に対抗したという事は有名であろう。この出丸は冬の陣終了後、まもなく破却された。しかし信繁の活躍が江戸時代以降、軍記物・時代劇・まんが・アニメ等を通して脚色され、真田幸村としてのヒーロー像を語る上で、真田丸は欠かせない要素になっている。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.18-72, 2016-03

関ヶ原の戦いに至る政治的経過において、慶長5年(1600)7月に石田三成と毛利輝元を中心とした石田・毛利連合政権が成立し、豊臣秀頼を直接推戴して豊臣公儀として政権が形成されたことを拙稿「慶長5年7月~同年9月における石田・毛利連合政権の形成について」(1)においてすでに指摘した。 この時期の石田三成、毛利輝元などの動向については、石田・毛利連合政権というとらえ方はしていないものの、すでに布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討-慶長五年七月十七日前後-」(この論考は「研究ノート」であるため、以下、布谷ノートと略称する)(2)、同「関ヶ原合戦と二大老・四奉行」(この論考は「論文」であるため、以下、布谷論文と略称する)(3)において検討がされている。 布谷氏が指摘した具体的な論点については後述するが、石田・毛利連合政権の当該期(慶長5年7月~同年9月)における具体的な動向を知るためには発給書状の検討が必要不可欠であり、その意味で本稿では、石田・毛利連合政権によって発給された書状を時系列データベース化することにより(4)、そこから読み取ることができる諸点について考察する。 また、阿部哲人「慶長五年の戦局における上杉景勝」(5)は、慶長5年の関ヶ原の戦いに至る政治的・軍事的過程における上杉景勝の役割・位置付けについて諸史料を綿密に検討して、新しい見解を提示している。阿部氏が指摘した具体的な論点については後述するが、こうした阿部氏の新見解も踏まえて、豊臣公儀としての石田・毛利連合政権の歴史的意義についても考察したい。

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著者
神戸 輝夫
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p95-128, 1990-06
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.45, pp.37-54, 2015-03

拙稿「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠に関するイエズス会宣教師の認識について(その1)」(『別府大学大学院紀要』17号、別府大学、2015年)より続く。『十六・七世紀イエズス会日本報告集』に収録された各年報には、各年次における日本の政治状況を分析した記載箇所があり、それをもとに当時の最高権力者であった織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠の各時代における政治権力の推移を通時的に見通すことができる。よって、本稿では『十六・七世紀イエズス会日本報告集』に記載された内容の検討をもとに、織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠に関するイエズス会宣教師の認識について考察する。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.45, pp.55-73, 2015-03

拙稿「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察(その1)-関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況-」(別府大学大学院紀要17号、別府大学会、2015年)より続く。これまで関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況については、日本国内の史料(日本側の史料)により検討されてきたが、イエズス会宣教師が当該期の日本国内の政治状況などを報じた『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には、関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況などが詳しく記されているので、本稿では『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の記載内容の検討をもとに、関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況について考察する。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.45, pp.17-36, 2015-03

拙稿「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察(その1)」(『別府大学紀要』56号、別府大学会、2015年)より続く。慶長3年8月の豊臣秀吉の死去以降、五大老(徳川家康・前田利家〔利家死去後は前田利長〕・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)・五奉行(石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家・浅野長政)の集団指導体制によって政権運営がおこなわれたことは周知である。これまでの研究史では、五大老・五奉行について日本側資料をもとに考察されてきたが、本稿では『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載を検討することにより、新しい視点を提示しようと試みるものである。
著者
白峰 旬
出版者
別府大学史学研究会
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
no.46, pp.107-128, 2016-03 (Released:2016-08-04)

首帳とは「戦場で討ち取った敵の首と、それを討ち取った人の名前とを記す帳簿」(1)である。本稿で扱う『関原首帳(福嶋家)』は、関ヶ原の戦いにおいて、福島正則隊が討ち取った敵の首の数と討ち取った福嶋家家臣の名前を記載したものである。『関原首帳(福嶋家)』は東京大学史料編纂所ホームページの所蔵史料目録データベース(2)において『史料稿本 四十三』に収録されているが、活字化されていないためか、これまでの関ヶ原の戦いに関する研究史において、『関原首帳(福嶋家)』について論及した研究は管見の限り見られないので、本稿では、この『関原首帳(福嶋家)』の内容を検討することにしたい。 同様の史料としては、関ヶ原の戦いにおける細川家の「首注文」があり(3)、その内容については拙著『新解釈 関ヶ原合戦の真実-脚色された天下分け目の戦い』(4)において検討をおこなった。 なお、合戦における首取りの慣行については、すでに鈴木眞哉『刀と首取り-戦国合戦異説』(5)において論及されており、首取りがおこなわれた理由として「当時の武士たちにとっては、それが即功名につながっていたから」であり、「首取りは、このように誰でも、比較的容易に立てることのできる功名であったから、功名の代名詞のようになった」と指摘されている。