著者
竹村 和子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.172-188, 2004-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
30

本論は, 本質主義と構築主義の二項対立を脱構築し, 現在の性制度に政治的介入をする可能性を探ろうとしたものである.社会構築主義は社会を本質化する傾向があるという前提のもとに, 本質主義そのものを従来の捉え方から置換しようとする動きが最近見られることを, まず指摘する.次に, マルクス主義的な文学批評家のガヤトリ・スピヴァックと, 精神分析的な政治学者のドゥルシア・コーネルによる, リュス・イリガライ再読に焦点を当てる.脱構築的視点をもつ両者は, 本質主義的と言われてきたイリガライの著作の文学性に着目し, 生物学的身体に還元しない〈女性的なもの〉を示す修辞が, 政治的介入をもたらす変革的契機となると主張する.この性的差異の「再=形象化」は, ふたたび解剖学的還元主義に立ち戻るリスクを背負うものの, またコーネルによるスピヴァック批判はあるものの, 近年のグローバル化によってさらに巧妙に沈黙化させられている女の状況に迫ろうとする試みではある.しかし, 行為遂行性を主軸に性的差異の「脱=形象化」を試みる構築主義者と同様に, この立場は, 修辞的介入そのものが孕む現実的な暴力性を看過しがちである.結論として, 暴力が自己形成における欲望のシナリオのなかに所与のものとして刻まれ, またそれが外的な性配置のなかに相変わらず自然化されて投影される痕跡を分析することの必要性を強調している.