- 著者
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芝 健介
- 出版者
- 東京女子大学
- 雑誌
- 東京女子大学比較文化研究所紀要 (ISSN:05638186)
- 巻号頁・発行日
- vol.62, pp.67-88, 2001
1995年にドイツの代表的週刊誌『シュピーゲル』は、そのニュルンベルク裁判50周年特集号に「勝者の裁き」という見出しをつけた。すでに1985年の40周年特集号で同誌は、カイテルやリッベントロップ、フリック等、死刑判決を受けた被告の、刑執行直後の遺体写真をセンセーショナルにとりあげ、「時代の犠牲者」というメッセージを暗示していた。こうした見方、扱い方は、日本ではさらに激しく表示され、1996年の東京裁判50周年のシンポジウム(『争論・東京裁判とは何だったのか』築地書館、1997年参照)では、ナチ体制の犯罪、わけてもホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)が、日本の「通常の」戦争犯罪と比較し、類をみぬ犯罪であったにもかかわらず、ニュルンベルク裁判よりも厳しい判決が東京裁判では下された、というイメージが参加者の想起するところにはかならないことも判明した。いずれにしても、裁判への強い関心とはうらはらに史上未曾有の大規模な戦犯裁判自体の意義は、おしのけられがちで、歴史のテーマとしても貶価されがちだったことは否めない。最近まで、ニュルンベルク裁判と東京裁判との比較も、本格的系統的におこなわれるようなことはほとんどなく、なされても副次的なこころみにすぎなかったのが実情である。東京裁判はニュルンベルク裁判をモデルとしながらも、それとは重大な相違を帰結することになった。小稿では、ヨーロッパと「極東」の両戦犯裁判の間に横たわるこの重大な差異についてさまざまな角度から特徴づけることを念頭におきながら、(1)戦犯裁判の成立過程(裁判憲章と構成)、(2)連合国の戦犯追及政策への枢軸側の対応、(3)なぜ多くの犠牲者の問題がなおざりにされたのか、わけても「アジア」の民衆被害者の貶価の問題、(4)判決と裁判証拠・ドキュメント史料の4点にわたって比較検討吟味した。小稿は、比較文化研究所総合研究プロジェクト・近現代における戦争終結過程の研究(松沢哲成教授主宰)に参加した筆者のささやかな成果であるが、2000年5月17日夕、ボーフム(ルール大学)でおこなったドイツ語の講演を基本的に再録したもので、このようなテーマで話す貴重な機会を筆者にお与え下さったノルベルト・フライ教授Professor Dr・Norbert Frei, Neuere und Neueste Geschichte an der Ruhr-Universitat Bochumに心から感謝申し上げる。また同大学日本学科のレギーネ・マティーアス教授Professorin Dr. Regine Mathiasはじめ、鋭い質問を投げかけ、熱心に耳を傾けて下さった方がたにも感謝申し上げたい。なお付表Anhang Aは、ニュルンベルク国際軍事裁判と12のニュルンベルク継続裁判の計199名の被告に対する判決一覧で、継続裁判で首席検察官をつとめたテーラー准将の、今ではなかなか入手しがたくなった著書Telford Taylor, Die Nurnberger Prozesse, Zurich 1951,S. 160-166.から再録させていただいたが、たとえば最初のへルマン・ヴイルへルム・ゲーリングの場合、ゲーリングが日本流にいえば姓Familiennameであるから、本来ならばGoring, Hermann Wilhelmとコンマを挿んで(フォンを称号にしている人の場合、たとえばヨアヒム・フォン・リッベントロップの場合も同様にvon Ribbentrop, Joachimと)表記しなければならない。しかし原頁尊重からオリジナルのままとしたので御注意いただきたい。Anhang Bは、東京裁判25名の被告に対する判決一覧で、折しもドイツ滞在中だった筆者作成のものであるが、関東(Kwantung)軍、張鼓峰(Changkufeng)事件、ノモンハン(Nomonhan)事件等の欧文表記法について東京から懇切に御教示いただいた松沢哲成教授にも感謝申し上げたい。