著者
小菅 健一
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-14, 2006

〈ことば〉="言語"の持っている〈イメージ〉喚起力という、"映像"性をめぐる表現ということで、《言語映像》論と措定して、言語芸術である文学作品の読みの活性化を計るために、活用していくのだが、〈ことば〉を〈ことば〉で読み解いていく限界があるので、その理論を相対化しつつ、相乗効果を発揮させる新たな視座として、"映像"が持っている"言語"的な表現を《映像言語》論として、それぞれの表現特性や両者の相関性の分析を基本にして、言語芸術と視覚芸術の関係(コラボレーション、オリジナルとコピー)において見出すことの出来る、可能性と限界を明らかにした。そして、《言語映像》と《映像言語》において論じる"映像"が、位相の異なるものであるということから、同じパラダイムで論じるための枠組みの再構築ということで、第三の"映像"として、アニメーションの画の存在に着目して、小説・実写映画・アニメーション映画をめぐる"映像"の相関性の考察に踏み込み、ジャンルを横断して三つのメディアを自由自在に使い分けている表現者として、押井守という存在に辿り着くことで、《言語映像》と《映像言語》の次の段階へ向けての前提作業を行なった。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.27-38, 2012

アニメーション映画と実写映画という視覚芸術、小説という言語芸術のジャンルを超えたユニークな表現活動を繰り広げている、映画監督の押井守の制作・創作の表現原理の問題を解き明かしていくために、押井論の前稿である「《言語映像》と《映像言語》による表現論の結節点ー押井守論の前提としてー」の表現論の考察を踏まえた上で、アニメーション映画・実写映画・小説の三つの領域の存在を確認して、統一した表現原理を措定するために、「押井守」的な表現を実体化する必要性に逢着して、その第一歩として、取り敢えず、同じジャンルに属するアニメーション映画と実写映画に目を向けて、両方を同じ「映画」と捉えることによって展開していく問題の考察と今後の課題を提示した論文である。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-12, 1997-12-10

村上春樹の処女作である「風の歌を聴け」の総合的な作品論を展開していくために、これまで、考察の前提条件、つまり、作業仮説として、作品全体の性格や位置付けを包括的に捉えるために、前々稿として、第1章を論の中心に据えて、そこに呈示されている<文章>・"空自"・<リスト>というキーワードに注目して、表現論的な視点から、作品の正確な措定を試み、前稿として、「風の歌を聴け」という<物語>の語り手であるとともに、主人公でもある<僕>の初期設定の問題ということで、幼年時代に自閉症気味で非常に内向的な性格であったという、生い立ちに関するエビソードをめぐって、作品における<僕>という存在の性格設定の持っている様々な意味を考察、そして、本稿は、それらを踏まえて、<僕>と<鼠>の交友関係を中心に、ジェイや左手の小指がない<彼女>を相対化の視座として、他者との関わりにおいて顕著になってくる、<僕>の存在としての問題点を、関係性の枠組みから明らかにしていこうとしたものである。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.43-57, 1995-12-10

本稿は、「美しい日本の私-その序説」というノーベル文学賞の受賞記念講演を、新しい"小説論"のためのマニフェストとして論じた昨年度の紀要に掲載した「『美しい日本の私-その序説』論- 説論としての読みをめぐって-」をネガとして考えて、実践としてのポジにあたる作品としての「美の存在と発見」というコンセプトで論じていったものである。本来、理論書的なイメージとは、ほど遠いという印象が強い「美の存在と発見」を、作品に内在されている可能性や有効性を好意的に評価して分析を加えたものである。様々な具体例の背景にある論理性の部分を考察した結果、表現者が固定観念や先入観を排除して表現対象と無為自然に向かい合うことによって、そこに既に存在しているもの=<有>の中に内包されている様々な<美>を(再)発見することで、それらを一つの作品=<有>として構成していくことに、新たな創作行為としての意義が十分にあるのだという主張を導き出すことで、既存の<ことば>の持っている潜在的な力を明らかにしている。そして、川端康成の創作意識における「源氏物語」の存在の大きさに言及して、理論書としての限界も明確にしている。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.53-66, 1994-12-10

本稿は、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成の記念講演である「美しい日本の私」という小品の存在を、日本の伝統的な文化や自分の作品などを紹介するための単なるエッセイとしてではなく、既成の小説の概念に対して疑義を呈して、新たな小説論を展開していくためのマニフェストの役割を果たす作品として位置づけて、考察を繰り広げたものである。内容の構成としては、表現対象(小説素材)にあたる四季を代表する自然景物の指摘をめぐる"一対一"対応的な<ことば>の存在の問題を前提にして、表現主体と表現対象の問に横たわっている、本来ならば、絶対に乗り越えることのできない距離(優劣関係)を完全に無化して同一の地平に等置することによって、より豊かな表現(作品)を目指していこうとする、<万物一如思想>の理論体系に裏付けられた堅固な創作意識の確立の問題へと論を進めて、実際の作品構築において、選択された表現対象に必然的に付与される<ことば>の"象徴"作用に、表現主体がすべて身を委ねていく創作行為の提唱へと結びつけていくことを意図した作品であると捉えて、理論書として読み解いていくことの必要性を述べたものである。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-16, 2001-06-30

物語作家としての力量に定評のある井伏鱒二にとっては、戦後の代表作の一つに挙げられる「遥拝隊長」という、第二次世界大戦を題材にした小説を、現代の客観的な視点から、精緻に読解・分析していくことで、この作品に込められた井伏の人生観や社会観の問題点を考察していった論文である。当時、偏狭な軍国主義に支配されていた日本が、国民一人一人の利益や幸福などをいっさい考慮することなく、勝手に起こしてしまった〈戦争)という圧倒的な暴力行為が持っている、愚かさや悲惨さ、そして、理不尽さといった非人道的な側面を、戦場で偶然に引き起こされた悲劇的な事故が原因になって、足が不自由になってしまうとともに精神に異常をきたしてしまった、主人公の"遥拝隊長"という浮名のついた熱烈な愛国主義者である岡崎悠一という一般庶民が、自分の生まれ故郷の笹山部落において、他の住民たちを巻き込んで繰り広げた様々な行動がもたらす喜劇的な事件やエビソードを、一つ一つじっくりと見ていきながら、作品全体を通して、それらに形象化されている〈運命〉というキーワードを抽出することで、現代の生活においても十分に通用する普遍的なテーマであることを確認したものである。
著者
奥村 弘一 菅 健一
出版者
公益社団法人 化学工学会
雑誌
化学工学論文集 (ISSN:0386216X)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.147-154, 1985-03-10 (Released:2009-11-12)
参考文献数
23
被引用文献数
1 2

グルコアミラーゼによるアミロペクチン分解反応に対する反応機構を検討し, 定式化した.アミロペクチンの構造分析の結果より, 房状モデルに基づいた簡単なモデル構造を決定した.また, グルコアミラーゼによるアミロペクチンの非還元末端からのexo型分解反応に対して, 分岐点の分解パターンを考慮に入れたMichaelis-Menten型の反応機構を考えた.上述の簡単なモデル基質構造および反応機構から, グルコアミラーゼによるアミロペクチン分解反応に対する反応速度式を得た.反応速度式中の速度パラメータ(Michaelis定数Km,iおよび分子活性k0,1)はアミロースの分解反応に対して得られた結果に基づいて実験式により定式化した.グルコアミラーゼによるアミロペクチン分解反応における反応率および分岐結合(α-1,6結合)濃度の経時変化に対して, 前述の反応速度式による計算結果は実験結果とかなり良く一致した.
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.89-101, 1996-12-10

川端康成には本人が処女作と規定している作品が、「十六歳の日記」・「ちよ」・「招魂祭一景」の三つある。それぞれの特徴や作品相互の関係、さらには、<処女作群>としての存在意義を考察していきたいのだが、本稿では、純粋な創作活動の上で最も早い時期に書かれていて、表出(表現)行為における川端康成の問題意識が顕著に表われた、「十六歳の日記」を取り上げて、"日記"や"小説"という表現形態や作品構成の問題、その延長線上にある、《作品》概念の問題などを論じていくことによって、人間が自己の体験した様々な出来事を書いていくという行為自体を考察したものである。特に、焦点を絞って分析したことは、印象深い体験を作品化したにもかかわらず、まったく記憶に残らないということが、どういうことを意味しているのかを、表現主体である<私>という存在の内部世界において繰り広げられる、対象物の受容と定着、描出に関する基本的なメカニズムの問題である。
著者
栢分 英助 前田 嘉道 菅 健一
出版者
公益社団法人日本生物工学会
雑誌
醗酵工学会誌 : hakkokogaku kaishi (ISSN:03856151)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.99-104, 1989-03-25

To obtain basec information on the anaerobic digestion of cellulose, the digestion kinetics of cellulose was studied in continuous culture using an artificial wastewter containing cellulose powder. Cellulose was found to undergo relatively slow degradation, which seemed to be the rate-determining step in the overall digestion process. The maximum specific growth rate (μ_m) and the saturation constant (K_s) obtained form continuous cultures were 0.213 (1/day) and 554 (mg cellulose/l) for the acid-former, and 0.528 (1/day) and 261 (mg volatile fatty acid/l) for the methane-former, respectively. The concentrations of the acid-and methane-formers in the reactor were also estimated using these kinetic coefficients.