著者
菅野 峰明
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.180-194, 1977-04-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
28

About sixty-four per cent of the existing incorporated places in Georgia have circular or arcuate corporate limits. The use of the circular boundary first appeared in northeastern Georgia in the first decade of the nineteenth century. It spread into middle Georgia, western and southern Georgia during the nineteenth century along with population expansion into these areas. The present distribution pattern of the circular and arcuate places was almost completely established by 1920.By 1830, all circular places were located in the Piedmont and they were separated by no more than two intervening counties. These places defined the courthouses as the center of the circular limits. Between 1831 and 1860, circular places spread into the western Piedmont, northwestern and western Georgia. This pattern shows outward spread from northeastern Georgia. Circular boundaries became common among municipalities in the Piedmont. Courthouses accounted for more than fifty per cent of the center points of the circular limits.Between 1861 and 1890, the adoption rate of a circular boundary reached to ninety per cent. Circular places expanded into western Georgia and the Coastal Plain. This process, too, was outward expansion of adoption of circular boundaries. The adoption of circular limits, however, was characterized by small local places. Since Georgia had small minimum population requirement for incorporation, many small places were incorporated during this period. The main function of these places was a commercial center. A small town consisted of a compact commercial core and surrounding residential areas. The length of a radius of a circular limit was arbitrarily set so as to encompass built-up areas and outlying areas. This simple method of fixing a boundary was widely used throughout Georgia between 1861 and 1890.Between 1891 and 1920, circular places spread into the Coastal Plain along with the creation of towns in expanding agricultural lands. As circular boundaries were adopted by local places throughout Georgia, center points of the boundaries were diversified. Between 1861 and 1890, railroad stations were predominant in the central points. After 1891, the use of intersections of major roads, and specified stores as centers of circular limits increased.The use of the circular boundary appears to have been very efficient for small municipalities because circular limits were described only in terms of a fixed center point and arbitrary length of radius without actual field survey.
著者
菅野 峰明
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.79-98, 2009

本稿は1960 年代後半からの経済成長と人口増加というサンベルト現象を経験した南部がその後どのように変化したかを経済,人口,都市,生活の側面から検討したものである。1960 年代から合衆国南部と南西部はサンベルトと呼ばれ,その後の成長が約束されたかのようであった。南部の製造業は躍進し,就業者は増加し,人口流入が続き,まさに太陽の輝いている地域であった。ところが,南部農村部のもっていた低賃金という相対的有利性が崩れ,労働集約的製造業の分工場が閉鎖され,製造業の重要性は低下した。しかし,所得水準の上昇と増加した人口に対応してサービス産業が成長し,サービス産業が集中した都市圏は発展を続けた。また,高齢者人口の増加とリタイアメント・コミュニティの開発によって,医療・社会支援部門の雇用が増加し,南部の産業構成も変化した。
著者
斎藤 功 菅野 峰明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.48-59, 1990-06-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
17
被引用文献数
1 4

武蔵蔵野台地の既存の集落の辺境に開かれた新田集落は,平地林の落ち葉等を活用し,耕種農業,ついで近郊農業を行ってきた。このような地域に新しい主要道路が開通することによって,農家は都市化への急速な対応を迫られるようになった。本稿では小平・田無・東久留米市の境界地帯を事例として,新青梅街道の開通により農民が都市化へいかなる対応をしたかを解明した。 農民の都市化への対応は,一般に通勤兼業が先行する。しかし,農地に執着する農民が,農地を道路や不動産業者に販売した場合,その代金は自宅の新築改築および広い敷地にアパートや貸家を建てて家作経営を行うものが多かった。ついで道路に沿う農地に対しては,道路関連産業の要請により,農地を販売するのではなく賃貸する者も現れた。賃貸の農地は,新車・中古自動車展示場やレストラン,資材置場や倉庫および流通センター等に活用された。 農地を活用した自営的な兼業としては,ゴルフ練習場などのスポージ施設経営が群を抜き,この狭い地域に6つのゴルフ練習場が設立され,わが国最大のゴルフ練習場集中地区となった。ゴルフ練習場ではバッティングセンターやテニスコートぽかりでなく,顧客のためにレストランやゴルフショップを併設する場合が多い。専門度の高いスポーツ施設経営者は,農業経営から離れ産業資本家に脱皮したといえる。 地価の高騰は,一般のサラリーマンに一戸建の家の購入を困難にさせているが,農家が賃貸マンションを建てたりしているので,人口密度は高くなる。しかも,自家用車の所有率が高いため,駐車場需要が高いので駐車場を経営している農家も多い。このように農家では,アパート・マンション・貸家等の家作経営や農地の賃貸など,何らかの農外収入を得ている。しかし,残存した農地では,スーパーマーケットと契約して野菜類を栽培したり,直売している。
著者
菅野 峰明 平井 誠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.80, 2006 (Released:2006-05-18)

1.はじめに アメリカ合衆国のフロリダ州は第二次世界大戦後、北東部や中西部から暖かい気候を求める高齢者の流入が続き、高齢者率の高い州として知られるようになった。フロリダ州において65歳以上の人口が全人口に占める比率は16.8%(2004年)であり、全米の州の中で最も高齢者比率が高い。フロリダ州への1995_から_2000年の国内純人口移動60.7万人のうち、14.9万人が65歳以上の高齢者であり、全体の24.6%を高齢者が占めた。これらの高齢者の流入は、退職した人々が余生を温和な気候の地域で送るため、と説明されてきた。ところが、最近の高齢者の移動を見ると、伝統的に高齢者が定住することの多かった東海岸の南部よりも西海岸に人口移動率の高い郡が見られるようになった.フロリダ半島の西海岸地域には高齢者のための新しく開発されたリタイアメント・コミュニティが多い。そこで、高齢者が居住地としてフロリダ州の西海岸のリタイアメント・コミュニティを選択する要因を明らかにするために2004年9月と2005年9月にフロリダ州タンパ・セントピーターズバーグ都市圏において実地調査を行った。2.リタイアメント・コミュニティ 1960年にアリゾナ州フェニックス市郊外に建設されたサン・シティの成功により、フロリダ州でもリタイアメント・コミュニティが多数建設されるようになった。リタイアメント・コミュニティの規模は数十戸から数千戸まで規模は様々であるが、住民に対するサービスとして、ゴルフコース、テニスコート、屋内外プール、サウナ、エアロビクスの部屋、室内トレーニング場等を備え、さらに日常の生活を支援する建物の中に図書館、インターネットに接続できるコンピュータールームを備えているところもある。新しいリタイアメント・コミュニティはゲーテッド・コミュニティとなっており、防犯態勢が整備されている。 タンパ都市圏内にあるリタイアメント・コミュニティのサン・シティ・センターで付属施設、コミュニティ内のクラブ活動等の調査と住民を対象にしたアンケート調査を行った。サン・シティ・センターは1961年に建設が始まり、現在では7,500世帯、約13,000人が居住している。住民へのアンケートの結果、このリタイアメント・コミュニティを選択した理由として一番多かったのは、温暖な気候(72%)、次いでフロリダのライフスタイル(71%)、犯罪の少なさと安全性(34%)、生活費の安さ(26%)、親類への近さ(24%)と続き、これまで言われてきたことが裏付けられた(第1表)。かつてフロリダ州で高齢者比率が多かったマイアミ大都市圏では高齢者の純移動率が減少に転じてしまった。これは、フロリダ州の南東部から半島西部への高齢者の移動のためである。それはヒスパニック系が増加し、犯罪率の高いマイアミ大都市圏から安全性の高い半島西部のリタイアメント・コミュニティへの移動と関係している。この移動はさらに、大都市圏におけるアパートやコンドミニアムの居住から戸建て中心のリタイアメント・コミュニティへの移動ということにもなる。
著者
高橋 伸夫 菅野 峰明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.111-119, 1988-05-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
49
被引用文献数
4 4

日本の大都市は第二次世界大戦後,大きな変化を遂げてきた。大都市への人口集中とそれに伴う郊外化,通勤圏および都市圏の拡大,そして商業・工業活動の郊外への進出によって,大都市の内部だけではなく,都市圏全域にわたって地域の再編成が行われた。また,近年の経済活動の分散により,大都市圏は多核的な構造に変化しているともいわれている。 本論文は,第二次世界大戦後の日本の大都市地域に生じた顕著な現象に注目しながら,大都市圏の地理学的研究の動向を考察し,そのなかの問題を検討した。 大都市圏研究は,大都市への人口集中による郊外化,つまり大都市周辺部の都市化の研究から始まり,大都市の成長過程や大都市圏の構造などが主な研究テーマとなった。日本には大都市圏を的確にとらえる統計単位がないため,大都市圏を実質的に設定する試みがいくつかなされてきた。アメリカ合衆国のMSAに相当するような統計単位を設定する試案もあったが,まだ広く使用されているわけではない。 近年,日本の大都市圏にみられる現象としてあげられるのは,欧米の先進諸国と同様に,人口と経済活動の分散(郊外化)である。そこで,大都市圏の現象を,人口の郊外化,都市内部から郊外への工場の移転,小売業の郊外化,雇用の分散,人と財の流れと結びつき,オフィス活動,高層建築物と地下街の増加,住宅地域の形成と発展に分け,これらについての研究動向と問題を展望した。 大都市圏における中心都市の相対的地位の低下にもかかわらず,日本の大都市の中心部はオフィス活動を中心とする第三次産業が集中し,都心の衰退という現象はみられない。また,インナーシテイ問題も大きな問題とはなっていない。 大都市圏の近年の構造変化に関する研究には,残された課題が多い。従来の研究においても,大都市圏化や大都市圏の変容を一側面から分析する研究がほとんどであった。大都市圏の変容を推し進めるメカニズムに関する研究,大都市圏を総合的に検討する研究,そしてその変容過程を示す説明的あるいは概念的モデルの検討などは,残された課題の最重要なものの一例であろう。
著者
斎藤 功 菅野 峰明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.48-59, 1990
被引用文献数
4

武蔵蔵野台地の既存の集落の辺境に開かれた新田集落は,平地林の落ち葉等を活用し,耕種農業,ついで近郊農業を行ってきた。このような地域に新しい主要道路が開通することによって,農家は都市化への急速な対応を迫られるようになった。本稿では小平・田無・東久留米市の境界地帯を事例として,新青梅街道の開通により農民が都市化へいかなる対応をしたかを解明した。<br> 農民の都市化への対応は,一般に通勤兼業が先行する。しかし,農地に執着する農民が,農地を道路や不動産業者に販売した場合,その代金は自宅の新築改築および広い敷地にアパートや貸家を建てて家作経営を行うものが多かった。ついで道路に沿う農地に対しては,道路関連産業の要請により,農地を販売するのではなく賃貸する者も現れた。賃貸の農地は,新車・中古自動車展示場やレストラン,資材置場や倉庫および流通センター等に活用された。<br> 農地を活用した自営的な兼業としては,ゴルフ練習場などのスポージ施設経営が群を抜き,この狭い地域に6つのゴルフ練習場が設立され,わが国最大のゴルフ練習場集中地区となった。ゴルフ練習場ではバッティングセンターやテニスコートぽかりでなく,顧客のためにレストランやゴルフショップを併設する場合が多い。専門度の高いスポーツ施設経営者は,農業経営から離れ産業資本家に脱皮したといえる。<br> 地価の高騰は,一般のサラリーマンに一戸建の家の購入を困難にさせているが,農家が賃貸マンションを建てたりしているので,人口密度は高くなる。しかも,自家用車の所有率が高いため,駐車場需要が高いので駐車場を経営している農家も多い。このように農家では,アパート・マンション・貸家等の家作経営や農地の賃貸など,何らかの農外収入を得ている。しかし,残存した農地では,スーパーマーケットと契約して野菜類を栽培したり,直売している。