著者
足立 重和
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.10, pp.42-58, 2004-11-30
被引用文献数
1

現在,全国各地において,民俗芸能といった伝統文化を観光資源化しようとする動きは,地域づくりの主流になった感がある。しかし,観光化された伝統文化は,観光客の期待にこたえた文化形態であるため,地元住民からすれば違和感をともなうものになってしまう。筆者が調査してきた,岐阜県郡上市八幡町の「郡上おどり」もそのような状況にあり,地元住民は自分たちの盆踊りを踊らなくなってしまった。だが現在,一部の地元住民たちは,観光化とは異なった方向で「郡上おどり」を受け継ごうとしていた。本稿は,「郡上おどり」の事例研究を通じて,観光化とは異なった伝統文化の継承とはいったいどのようなものであるのか,を明らかにするものである。一部の地元住民による,観光化とは異なる伝統文化の継承とは,次のようなものである。まず,住民たちは,観光化以前の"たのしみある"盆踊りの情景をなつかしむというありふれた日常的実践をくりかえす。このような主体を,本稿では「ノスタルジック・セルフ」と呼ぶ。この「ノスタルジック・セルフ」が,歓談のなかで"たのしみある昔の姿"を追求し,その"たのしみ"に向かって現にある盆踊りに様々な工夫を凝らしていくことこそ,本稿でいう伝統文化の継承にほかならない。このノスタルジックな主体性に裏づけられた伝統文化の継承は,現在の観光化と文化財保存の文脈のなかで画一化する伝統文化の乗り越えにつながっていくのである。
著者
足立 重和
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.42-58, 2004-11-30 (Released:2019-01-22)

現在,全国各地において,民俗芸能といった伝統文化を観光資源化しようとする動きは,地域づくりの主流になった感がある。しかし,観光化された伝統文化は,観光客の期待にこたえた文化形態であるため,地元住民からすれば違和感をともなうものになってしまう。筆者が調査してきた,岐阜県郡上市八幡町の「郡上おどり」もそのような状況にあり,地元住民は自分たちの盆踊りを踊らなくなってしまった。だが現在,一部の地元住民たちは,観光化とは異なった方向で「郡上おどり」を受け継ごうとしていた。本稿は,「郡上おどり」の事例研究を通じて,観光化とは異なった伝統文化の継承とはいったいどのようなものであるのか,を明らかにするものである。一部の地元住民による,観光化とは異なる伝統文化の継承とは,次のようなものである。まず,住民たちは,観光化以前の“たのしみある”盆踊りの情景をなつかしむというありふれた日常的実践をくりかえす。このような主体を,本稿では「ノスタルジック・セルフ」と呼ぶ。この「ノスタルジック・セルフ」が,歓談のなかで“たのしみある昔の姿”を追求し,その“たのしみ”に向かって現にある盆踊りに様々な工夫を凝らしていくことこそ,本稿でいう伝統文化の継承にほかならない。このノスタルジックな主体性に裏づけられた伝統文化の継承は,現在の観光化と文化財保存の文脈のなかで画一化する伝統文化の乗り越えにつながっていくのである。
著者
足立重和
出版者
有斐閣
雑誌
加害 被害と解決過程
巻号頁・発行日
2001
被引用文献数
1
著者
足立 重和
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.6-19, 2017-12-20 (Released:2020-11-17)
参考文献数
26
被引用文献数
1

現代において「環境」という視点はあまりにも自明なことであり,言説レベルでは多くが語られている。だがその一方で,自然利用のアンダーユースによる獣害問題,高度な科学技術による人工化した食の問題など,現在の人と自然の距離は,かつてに比べて疎遠になっていたり,いびつであったりするのではないだろうか。そこで問われるべきは,「人と自然のインタラクション」である。そこで本稿は,このテーマに即してこれまでの環境社会学を概観した後,近年の文化人類学における人と動物のインタラクション研究や郡上八幡でのフィールドデータをたぐり寄せながら,今後の環境社会学が探求すべき人と自然のインタラクションとはどのようなものか,その一端を示してみた。より直接的かつ対面的なインタラクションに注目していえるのは,(1) 自然は,積極的に“人に働きかける”というインタラクションの一方の重要な項=行為者である,(2)人と自然のあいだになんらかの競合やトラブルが生じたとき,人間は,インタラクションの性格上,相手の出方を見越して手を打たなければならない,という点である。そのうえで,これらの延長線上には,人工的環境に馴らされたわれわれが漠然といだく自然観を鍛え上げるだけでなく,自然環境の豊かさを取り戻す際には,「自然の視点」を人間の内側に取り込んだうえで,あくまでも人間の暮らしを考える,という人間と自然が入れ子になった政策論がみえてきた。
著者
足立 重和
出版者
愛知教育大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2001

今年度は、岐阜県郡上郡八幡町における「郡上おどり」の現状を事例にしつつ、伝統文化を「所有」するということは一体どのような現象なのか、その一端を明らかにしていきたい。昨年の報告書にて研究代表者が議論したことは、ある盆踊りが「郡上おどり」と名づけられた瞬間に生じる規範的な期待であった。具体的に言えば、「郡上おどりは誰のものなのか」が問題になったとき、「地元住民」は、踊り能力の有無にかかわらず、「郡上おどり」という名づけに付着した"郡上"という固有名詞に着目して、「郡上おどりは郡上八幡人のもの」という"思考のエコノミー"を行使するのである。このような規範的な期待のおかげで、地元住民は、いくら踊りを踊らなくても、踊りを崩して踊っても、それらの実践が「地元らしさ」「土臭さ」という表象を可能にさせてしまうがゆえに、郡上おどりの所有権を楽々と主張することができた。ただ、この戦略は、いわゆる「よそ者」に対しては通じるが、同じ「郡上八幡人」のあいだでの所有権争いになったときには、通じない。そこで、地元住民どうしは、自分たちを改めて「郡上八幡人」だと自己規定したうえで、自分たちの踊りには「風情がある」と語りつつ、絶えず差異化をはかろうとする。つまり、これらの事実から言えるのは、伝統文化の「所有」とは、常にある文化形態の担い方を他の担い方と同じ地平(=客観的な基準)で評価されることに対して拒絶していくことであり、そのような拒絶を通じて「自分たちがイニシアティブを保持している」ことを示すということである。そういった意味で、伝統文化の「所有」とは、何らかの実体を保持することではなく、たえず何らかの実体を保持しているかのように"示す"ことなのである。