著者
石澤 一志 酒井 茂幸 武井 和人 日高 愛子 山本 啓介
出版者
研究と資料の会
雑誌
研究と資料 (ISSN:03898121)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.17-53, 2015-07

『研究と資料』第73輯(2015・7)より転載。宮内庁書陵部図書寮文庫蔵の以下の歌会資料の釈文と略解題を収める。 1三条西家着到百首和歌(五〇三-二五三) 2伏見宮家五十首和歌 明応五・一〇(伏-一七) 3続三十首和歌 大永元・一一(伏-二四) 4伏見宮家続百首和歌 大永三・五(伏-二五) 5三十三首釈教和歌(伏-五三三) 6伏見宮家百首和歌 冬恋雑(伏-五四五) 7点取和歌冬伏十見首殿(伏-五七九)
著者
武井 和人 酒井 茂幸
出版者
研究と資料の会
雑誌
研究と資料 (ISSN:03898121)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.1-26, 2013-07 (Released:2013-09-06)

「研究と資料」第69輯(2013・7) より転載
著者
石澤 一志 酒井 茂幸 武井 和人 日高 愛子
出版者
研究と資料の会
雑誌
研究と資料 (ISSN:03898121)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.37-63, 2016-07

『研究と資料』第75輯(2016・07)より転載。宮内庁書陵部図書寮文庫蔵『禁裏御会和歌』(五〇一・二九〇)に収載される以下の歌会資料の釈文(一部影印)と略解題。1永享十年二月二十八日内裏和歌御会2永享十年四月十日禁裏月次当座御会(初度)3永享十年四月十六日内裏月次当座御会(月次御哥第二度)4永享十年四月二十八日内裏月次当座御会(月次御哥第三度)5永享十年五月十日内裏月次当座御会6永享十年五月十九日内裏月次当座御会
著者
酒井 茂幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.130, pp.239-258, 2006-03-25

国立歴史民俗博物館蔵田中穣氏旧蔵『広幢集』(以下『広幢集』と略称)は、稿者により近時全文翻刻が公表された新出資料である。その資料的価値は、従来未詳であった、広幢の晩年の伝記的事蹟が明らかになるとともに、『広幢集』に記載のある兼載・心敬・顕天・用林顕材・岩城由隆・兼純との交流関係や相互の人的ネットワークが新たに判明するところに存する。本稿では、まず、これら六人の人物について『広幢集』の和歌の解釈をもとに、従来知られていた史(資)料と照合し、広幢を取り巻く地域社会の政治的・宗教的思潮の一端を叙述し、広幢を岩城の禅長寺出身の数寄の隠遁者と推定した。また、兼純の項において、岩城に拠点を置き、京都との往復によりその道の第一人者へ師事し、岩城氏ら在地の国人領主や戦国大名の扶助を受ける行動様式を、同時代の宗長・宗牧との差異性から指摘し、同様な行動様式が、兼純から長珊へと受け継がれていることを論述した。『広幢集』の特色に道歌や哀傷歌・追善歌等が多いことが挙げられるが、これは集中にも記される母の死を契機とした事象で、最晩年に至って広幢は禅僧への回帰を余儀なくされたのである。連歌師の家としての猪苗代家の源流は、広幢であり、その和歌・連歌の世界における活躍は、『広幢集』に描かれるとおりである。しかし、兼載が堯恵から古今伝授を受けており、兼純に『古今集』の講釈をする資格があったのに対して、広幢は誰からも古今伝授を受けていなかったため、兼純に古今伝授ができず、和歌の家、猪苗代家の創始者とはなり得なかった。古今伝授の師資相承に広幢の名が見えず、猪苗代家の系図からも広幢の名が消えていった。兼純が広幢から受け継ぎ、長柵に伝えた連歌師の一行動様式を掘り起こしたのが本稿である。
著者
酒井 茂幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.136, pp.115-134, 2007-03-30

本稿は、近時、伝存が明らかになった、国立歴史民俗博物館蔵田中穣氏旧蔵『鷹歌等』所収「住吉 玉津島 高野山へ賢良御参詣時於路次人々」(内題、本稿では「賢良高野山参詣路次和歌」と仮称)を中心に、能登守護畠山氏の義忠(法名賢良)の主催した歌会の作者圏を調査し、歌会に集った公・武・僧の歌人達の階層や構成を探究したものである。田中本『鷹歌等』は、未整理の歌稿を書き抜いた歌群中に正徹の新出歌が一〇首含まれるなど、正徹関係の資料が多い。しかし、正徹の他撰家集『草根集』の編纂に近い段階の歌稿の抜書の転写であり、扱いには注意を要する。「賢良高野山参詣路次和歌」も、そうした一連の資料群に含まれるが、外部徴証から成立年次は文安三年(一四四六)を軸とする前後三、四年と推定される。本歌会の出詠者が正徹と堯孝の門弟格の歌僧に限られるのは特筆される。賢良が主催した歌会で独立した伝本が残るのは、他に『畠山匠作亭詩歌』と『瀟湘八景歌』があるが、いずれも歌道家や守護大名を中核に作者が構成されている。『畠山匠作亭詩歌』を基準に、義忠(賢良)の主催した歌会の出詠者を、『草根集』や『堯孝法印日記』などをもとに比較すると、幕府に直勤した奉公衆・御供衆などの武士階層が出家遁世し歌人として活躍しているケースも見出される。これは、専門歌人の門弟筋に限られた「賢良高野山参詣路次和歌」とも異なる人的構成である。『畠山匠作亭詩歌』と『瀟湘八景歌』からは、賢良の五山僧との親密な交友圏が知られ、賢良は歌人と五山僧が一堂に会する雅会の後援者的役割を担っていたと推測される。『草根集』には、歌会催行記事が確かに目立つが、漢詩と和歌がセットとなった雅会も催されている。賢良主催の歌会では、階層や歌道流派を超えた文芸の「場」が機能していたのである。
著者
酒井 茂幸
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要. 文学研究篇 (ISSN:18802230)
巻号頁・発行日
no.43, pp.273-296, 2017-03

本稿では延宝八年(一六八〇)から天和三年(一六八三)の後西院から霊元天皇・近衛基凞への古今伝受について、『基凞公記』の別記・陽明文庫蔵『伝授日記』の解読を中心に据えて、流れを整理し、かつそれぞれの場面における様相を御所伝受の通史を視野に収め検討する。まず、霊元天皇から所望が提起され、後西院が後水尾院に相談し諒解が得られた。続いて「三十首和歌」が詠進され、いよいよ後西院による講釈が、延宝八年五月六日から始まる。一度徳川家綱の薨去のため延宝八年五月一一日に講釈が中断し、約三年後の天和三年四月二日に再開される。後西院の講釈は天和三年四月一四日に終り、一六日になり切紙伝受、誓状の提出、証明状の下賜と進んだ。切紙伝受の模様は、天正二年(一五七四)の古今伝受以来と同様に、人麻呂の画像を架けその前に設えた白机に三種の神器を置き神事として行われた。ただ、寛文四年(一六六四)の古今伝受以来三種の神器の玉が香箱になっている。東山御文庫蔵『後西天皇古今伝授御証明状』に拠ると、この四月一六日の霊元天皇への切紙伝受では、後水尾院相伝・宸翰の切紙二四通と後西院宸翰『伝心抄』の進上が伝受の対象となった。一方、基凞への切紙伝受では後西院宸翰の切紙が伝受されたようであり、陽明文庫に後西院宸翰の切紙が所蔵されている。なお、二二日に小御所において竟宴和歌御会が催されていることも注意される。This paper is a detailed reading of one section of Konoe Motohiro's (1648-1722) diary, entitled Denju niiki (Diary of the secret transmission), currently part of the Yōmei Collection. Retired Emperor Go-Sai (1637-1685, r. 1654-1663) spent a total of four years, from 1680 to 1683, passing on his lineage of the secret transmission-a collection of esoteric interpretations -of the Kokin wakashū (Anthology of Japanese poems old and new, 905) to Emperor Reigen (1654-1732, r. 1663-1687) and Konoe Motohiro. In this paper, I will look closely at Konoe's diary in hopes of reconstructing the various stages of this transmission, as well as the different venues within the palace in which it took place.In the first place, it was Emperor Reigen who initiated the process by appealing to Retired Emperor Go-Sai, who, having in turn consulted with Retired Emperor Go-Mizunoo (1596-1680, r. 1611-1629), gained permission to begin the secret transmission. Then, the thirty poems around which this secret transmission revolves were recited, after which, on the sixth day of the fifth month in the eighth year of Enpō (1680), Retired Emperor Go-Sai began his exoteric explanation. The death of Tokugawa Ietsuna (1641-1680, shogun from 1651-1680) less than a week put a temporary halt to these lectures. They were eventually resumed some three years later, in 1683, on the second day of the fourth month. Retired Emperor Go-Sai concluded his lectures on fourteenth day of that same month, whereupon his two disciples were made to vow never to reveal the transmission to the uninitiated. They were both given certificates which proved their newly attained place in the lineage of the secret transmission.
著者
酒井 茂幸
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要 = The Bulletin of The National Institure of Japanese Literature (ISSN:18802230)
巻号頁・発行日
no.42, pp.119-149, 2016-03-12

稿者はこれまで、中世から近世に至る、禁裏・仙洞御文庫における蔵書形成の歴史を明らかにする目録学的研究を行ってきた。本稿では宮内庁書陵部蔵『歌書目録』収載の定数歌・歌会の蔵書群を主に取り上げ、霊元院の仙洞の読書を支えた歌書の書写や収蔵について考察する。宮内庁書陵部蔵『歌書目録』収載の定数歌・歌会の中には、久保木秀夫によって万治四年(一六六一)の禁裏火災により焼失した伝本の副本と認定された三四点が含まれる。今回の調査ではこれを上回る五一点が該当することが確認された。すると、霊元院の仙洞御所の御文庫は、後西天皇の禁裏文庫をそのまま引き継いでいることになる。そして、同目録収載の定数歌・歌会には、『新類題和歌集』の編纂時に霊元院とその近臣により歌頭に付された藍色菱形不審紙が三五点に見出される。目録収載の一群の蔵書は、享保年間(一七一六~一七三六) (正確には崩御の一七年)まで霊元院仙洞の御文庫に所蔵されていたことが判明する。院の側近であった烏丸光栄の日記『光栄卿記』に拠ると、享保期には霊元院の仙洞御所において、『新類題和歌集』編纂に際しての「抜書」や「校合」の作業とは関わりのない場面で歌書の献上や書写が行われている。それらの記事からは、院がより書写が古く由来が確かな伝本を探求し、また近世写本の校合による本文研究を行っていたことが知られる。The catalog scholarly study by which a draft person makes the history of ownership formation in an imperial court senhorao library to the modernized world clear from the Middle Ages up to now, I went visit. An ownership group of a fixed number song tanka party of the Imperial Household Agency note Sasakibe warehouse "Utakaki catalog" listing is taken up mainly by writing and it's considered about a copying and keeping of Utakaki who supported reading of senhora in Reigen in.Fixed number song of the Imperial Household Agency note Sasakibe warehouse "Utagaki catalog" listing A duplicate of the handed-down manuscript burned away by imperial court fire in 1661 (1661) and authorized 34 points are included by Mr. Hideo Kuboki in the tanka party. It was confirmed that 51 points which exceed this in this investigation are relevant. Then a library in Sento-gosho in Reigen in will take an imperial court library of Gosai emperor over just as it is. And fixed number song of the said catalog listing The blue rhombic doubtful paper put by the trusted vassal to Kato with Reigen in at the time of compilation of "new similar problem anthology of waka poems" is found by 35 points in a tanka party. It's revealed that you possessed ownership of a group of catalog listing in a library in Reigen insenhora to the Kyoho year (1716-1736) (correctly, 17 years of demise).When it depends on diary of Karasuma Koei which was a staff of in "honor Lord account", extraction on the occasion of "a new similar problem, anthology of waka poems" compilation and work of proofreading are the situation which has no concerning in Sento-gosho in Reigen in in a Kyoho period, and Utakaki's presentation and copying are performed. It's learned from those articles a copying was older and origin searched for a certain handed-down manuscript, and that in was doing a body study by proofreading of a modern period manuscript again.
著者
石澤 一志 酒井 茂幸 武井 和人 日高 愛子
出版者
研究と資料の会
雑誌
研究と資料 (ISSN:03898121)
巻号頁・発行日
no.74, pp.11-33, 2015-12 (Released:2015-12-30)

『研究と資料』第74輯(2015・12)より転載。 宮内庁書陵部図書寮文庫蔵の以下の歌会資料の釈文と略解題を収める。1応永十九年正月十八日広橋家月次始歌会【底本】宮内庁書陵部図書寮文庫蔵『禁裏御会和歌』(五〇一・八〇六)2応永十九年十二月九日仙洞三席御会【底本】宮内庁書陵部図書寮文庫蔵『詩謌晴御会』(二一〇・七一五)