著者
阿南 透
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.223-252, 2018-02-28

本稿は,高度成長期における都市祭礼の変化を,地域社会との関係に注目しながら比較し,変化の特徴を明らかにするものである。具体的には,青森ねぶた祭(青森県青森市),野田七夕まつり(千葉県野田市),となみ夜高まつり(富山県砺波市)を例とする。青森ねぶた祭では,1960年代に地域ねぶたが減少するが,1970年代には公共団体や全国企業が加わって台数が増加し,観光化が進んだ。そして各地への遠征や文化財指定へとつながった。野田七夕まつりなどの都市部の七夕まつりは,1951〜1955年に各地の商店街に普及するが,1965〜1970年頃に中止が目立った。野田でも1972年にパレードを導入し,市民祭に近づけることで存続を図った。となみ夜高まつりなど富山県の「喧嘩祭」は,1960年頃に警察やPTAなどから批判されて中断し,60年代後半に復活した。このように,高度成長期前期には,どの祭礼にも衰退や中断,重要な変更がみられた。一方,後期には,祭礼が復興し発展したことが明らかになった。変化の要因として,前期の衰退には,経済効率第一の風潮のほか,新生活運動も関与していた可能性がある。後期の復興には,石油ショック以後の安定成長期の「文化の時代」に,祭礼が文化として扱われ,文化財指定を受ける「文化化」,祭礼が観光資源になる「観光化」,行政などが予算を立案し,業務として運営する「組織化」,さらに事故のない祭礼を目指す「健全化」などの特徴が見られる。
著者
阿南 透
出版者
慶應義塾大学大学院社会学研究科
雑誌
慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要 (ISSN:0912456X)
巻号頁・発行日
no.26, pp.p23-32, 1986

論文1. はじめに2. 時代祭3. 名古屋まつり・郷土英傑行列4. 信玄公祭り・甲州軍団出陣5. まとめ
著者
阿南 透
出版者
日本観光研究学会
雑誌
観光研究 (ISSN:13420208)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.51-60, 2011-03-31

This article treats at a making process of a set of "the three big festivals in Tohoku (northeast district)" in Japan. Although these festivals (Aomori Nebuta Festival, Akita Kanto Festival and Sendai Tanabata Festival) are unrelated mutually, a newspaper reported an article of "the special summer festivals of Tohoku" in 1956. This report made the distribution of the use of the word of "the three big festivals in Tohoku". The tour plan that looking around three festivals was first made in 1962. The executive committees changed the festivals into the direction to suite for sightseeing. This success not only caused the immediate increase of the visitor, but also activated the cultural tourism in the area.
著者
阿南 透 谷部 真吾 中里 亮平
出版者
江戸川大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011-04-28

日本の都市祭礼を対象に、祭礼の中で起こる事故や暴力の解決法とその変化について、8つの祭礼を例に研究した。以前は祭礼における暴力が当然視され、当事者によって解決する慣例が存在したが、戦後は警察と行政の関与を招いた。このため多くの祭礼は暴力を抑制する方向に変化したが、一部の祭礼は、高度成長期以後、場所と時間とルールを決めて対戦する「競技化」の方向に変化したことが明らかになった。
著者
阿南 透
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.263-299, 2003-03

本論文は、青森市で毎年八月二日から七日まで開催される「青森ねぶた祭」を取り上げ、それが現在のような大規模な都市祭礼になっていった過程を考察する。現在の青森ねぶた祭は、巨大な人形型の燈籠、囃子、ハネトと呼ばれる踊子、この三つのセットで構成された集団が合同で運行する行事である。国の重要無形民俗文化財に指定されているものの、特定社寺と結びついた宗教行事ではなく、起源や由来も定かではない。ねぶたに類する行事は青森県内をはじめ東日本各地に見られ、青森市のねぶたも戦前まではそうした各地の行事と大差ないものであった。現在のような様式が成立したのは戦後のことと考えられる。本論文は、その成立過程とその後の変容を、ねぶた本体(燈籠)、祭りの組織、運行形態の三点から明らかにする。まずねぶた本体は、道路幅や歩道橋の高さといった、青森市街地の形状により大きさの上限が決まり、ねぶた師と呼ばれる制作者の創意工夫で一九七二年頃に現在の様式が確立した。次に祭りの組織については、経費の高額化に伴い、ねぶたを運行する団体が地域から行政・企業へ移行し、主催者と対等の発言権を有するに至った。そして運行形態については、有料観覧席の設置など観光客対策、国道の使用時間制限、さらには急増するハネトとその逸脱行為が、運行コースや運行台数を規定した。このような戦後の変化は五つの時期に区分できる。すなわち、一九四七年の本格復活から六一年までの第一期は、戦争による中断からの復興の時期である。一九六二年から六七年までの第二期は、観光化の開始と大型化の時期である。そして一九六八年から七九年の第三期に、青森ねぶた祭が確立し、一つのピークを迎える。一九八〇年から九六年の第四期は、若者の逸脱行為が目立ち始める転換期である。そして一九九六年の暴力事件をきっかけとして、一九九七年からの第五期は、逸脱行為への対応に追われる変容期に入り、現在も試行錯誤が続いているのである。This paper addresses the "Aomori Nebuta Matsuri (Aomori Nebuta Festival)", held in Aomori every year from the 2nd through the 7th of August, and considers the process by which it developed into the large-scale urban festival it is today.Currently, the Aomori Nebuta Festival is an event consisting of the collective effort of a group of people that consists of the following set of three elements: huge doll-shaped lanterns, musical accompaniment, and dancers called "haneto". Although the festival is designated as an important intangible folk cultural property, it is not a religious event connected to any particular temple or shrine and the origins and history of the festival remain uncertain. Similar events are found in Aomori prefecture as well as throughout eastern Japan, and before WWⅡ the Nebuta Festival of Aomori City was not much different from such festivals of other regions. The present style of the Aomori City Nebuta Festival was most likely established after the war. This paper examines the process through which the festival was established and the transformations later undergone by the festival from the following three points: the nebuta itself (lanterns), the organization running the festival, and management conditions.First of all, with regard to the nebuta itself, the upper limits as to size were determined based on the form of the urban districts of Aomori, with such factors as the width of the streets and the height of the pedestrian overpass being a consideration. The present style of the nebuta was established between 1967 and 1972 through the ingenuity of the creators, called "nebuta-shi". Next, with regard to running the festival, rising expenses brought about a shift from the local organizations to administrative bodies and corporations, giving the organization an equal voice as the sponsors. Lastly, regarding management conditions, provisions for tourists such as setting up seats for viewing the festival to rent, and time restrictions on the use of national roads, as well as increasing incidences of inappropriate behavior by the "haneto" all were taken into account in determining the route of the festival and the number of nebuta.If we take an overall look at the developments from after WWⅡ, the history of the festival can be divided into five periods. The first period from 1947 when the festival was first truly revived to 1961 was the period of reestablishing the festival after a ten-year gap due to the war. The second period from 1962 to 1967, was the period for the beginning of the making of the festival as a tourist attraction and enlarging the scale of the festival. The third period between 1968 and 1979 was the period in which the "Aomori Nebuta Matsuri" was fully established and was at its peak. The fourth period from 1980 to 1996, was a transition period, with a rapid rise in the number of "haneto" and an increase in inappropriate behavior by the young people participating in the festival. Finally, the fifth period, which began in 1997 in response to the outbreak of violence in 1996, is a period of transformation where people are busy looking for countermeasures for inappropriate behavior and this state of trial-and-error still continues today.
著者
小坂 勝昭 斗鬼 正一 阿南 透 宇野 正人 越智 昇
出版者
江戸川大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1993

平成6年2-3月、5月、7〜8月と数次にわたる現地調査を実施した。調査対象地は島根県隠岐郡西ノ島町浦郷地区を中心に、必要に応じて西郷町、五箇村、島前中ノ島の海士町も併せて調査対象とした。調査手法は徹底した「聴き取り、面接法」をとり、部落のキ-・パースンから情報収集し、それらを基礎に分析枠組を構想した。これまでおこなった調査研究の内容は(1)隠岐諸島の社会史研究、(2)各研究分担者の研究領域に従い、文化人類学的、社会学的、文化史的、宗教社会学的な研究をおしすすめてきた。具体的には、(1)隠岐の近代化の進行の中で、マスコミ情報の与えてきた影響とともに近代以降の第三次産業の発展、とりわけ観光産業の振興は隠岐の発展と産業化に影響を与えてきたが、とくに若者人口の流出(向都現象)に典型的にみられる人口流出の増加とともに観光客の流入増などが全体としての人的交流の著るしい増加を結果した。とくに観光地化にともなう隠岐社会の変動の分析をおこなった。(2)隠岐の過疎化対策としての若者宿の新築と地域振興に及ぼす効果の測定、町起こし運動としての隠岐全国トライアル大会」の町の活性化に及ぼした影響と効果分析。(3)隠岐諸島の種々の祭札や宗教的行事の社会的機能を宗教社会学的、文化人類学的な観点から明らかにすること。(4)町村合併にともなう部落組織の変容、及び便益の配分をめぐる政治的勢力関係の分析、(5)明治維新時の文化変動ともいうべき宗教改革(廃仏毀釈)の影響、以上のような問題意識にもとづき研究をすすめてきた。そして研究成果の一部として、越智、小坂、斗鬼、阿南の共著として「隠岐諸島の社会変動に及ぼした諸要因-隠岐郡西ノ島町の調査研究ノートから-」を著わした。この論文は江戸川大学紀要「情報と社会」NO.5.1995.(2月20発行)に発表された。(13-35頁。)
著者
阿南 透
出版者
江戸川大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、近代日本の都市祭礼について、変遷を時系列に沿って分析していく試みである。特に明治期から昭和戦前期までに作られた祭礼や、一回限りの奉祝行事・記念祭、さらには祭礼に類似したスポーツイベントを対象として、成立事情や変化、内容の特徴を考察し、近代日本の社会変動と文化変容にも関連づけて理解を試みた。本研究の成果は次のとおりである。1.昭和初期に新しい祭礼が続出するが、京都の「染織祭」、神戸の「みなとの祭」、大阪の「商工祭」など京阪神の大規模な祭礼の例を紹介し、成立事情と内容の特徴をまとめた。2.昭和大礼における市民による奉祝行事について、京都府の例を紹介するとともに、警察の警備記録から全体像を推測し、その祝祭性を明らかにした。3.近代に成立した北海道における神社祭礼について、札幌祭を例に成立史を描き出し、祭礼が必要とされた事情を推測した。4.地域の大規模な年中行事となっているスポーツイベントについて、祭礼との類似性を、戦前期の釧路市民大運動会を例に明らかにした。5.戦後に発展した青森ねぶた祭と仙台七夕まつりについて、戦前と戦後の相違点を比較した。その上で、仙台七夕まつりに関して、戦前の復活期の様相を詳細に跡付けた結果、復活した年が通説よりも1年早いことが明らかになった。6.これらの個別事例の成果を通じて、近代の祭礼の成立と展開について、特徴を試論としてまとめた。