著者
高橋 理喜男
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.10-17,21, 1963-01-30 (Released:2011-07-19)
被引用文献数
1 2

The 5th Industrial Exhibition of Japan was held in Osaka city in 1903. The City Government, that was obliged to prepare a large site for the Exhibiton, acquired an of about 30 ha. at a great cost, partly by means of compulsive purchase-the application of Land Expropriation Law-on condition that a large city park should be established there after its closing. That is the origin of Tennoji Park of today. Of course all the site was not used for a park area. It was decided to rent its western part (some 10 ha.) in 1911, in order to have the financial basis indispensable to maintenance and management of established parks.The area let out on lease was generally called “Sakugaichi”i. e. “the Outside Area of Tennoji Park” for the reason of being separated with a fence from the inside area-the actual park area. Soon thereafter Sakugaichi and its vicinities were developed as a kind of amusement centre, and became famous by the name of “Shinsekai”, literally “New World”.At the ending of Taisho era was completed the first and most ambitious Park Planning Scheme, which was involved in the 2nd Town Planning of Osaka a few years later. So the Government tried to sell the rented area to tenants in 1937, for getting a financial source available for execution of proposed parks and playgrounds. Their opposition against disposal, however, was so violent that the accumulation of the park constrution fund got deadlocked.In the meantime the fund problem was fortunate enough to be solved in the form of adding a item of “Park Working” to “Working Expenses for Town Plahning, Special Account”. Because, by all means, the Government had to promote the park planning in memory of the year 2600 of Imperial era, that had been agreed in the Osaka City Council. Consequently the leased area still remains unsettled in the middst of Osaka City. It is very regrettable, for the above mentioned policy has already finished its historical role, which might have been inevitable and important before.
著者
高橋 理喜男
出版者
公益社団法人 日本造園学会
雑誌
ランドスケープ研究 (ISSN:13408984)
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.413-416, 1996-03-28 (Released:2011-07-19)
参考文献数
15
被引用文献数
3

明治初年に計画された札幌は, 格子状の街区パターンをもち, その中に広幅員の大通 (火防線) を設定した。それが現在の大通公園である。この大通計画の目的は二つあった。市街地を大きく官地と民地に分け, 両者の空間的分離を図ること。同時に, 民地から頻発する火災による官地への延焼防止の役割を担わせることにあった。この大通火防線の計画は, 都市火災の予防という観点から, 近代的都市計画としての評価を受けてきたけれども, 支配, 被支配の構造が色濃くあらわれている近世城下町的な都市計画の論理を踏襲していることは, 角館や大野の事例からも明らかである。
著者
高橋 理喜男
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.2-8, 1974-03-20 (Released:2011-07-19)
参考文献数
28
被引用文献数
5

The development of municipal parks in Japan commenced in 1873, when the Decree of DajOkan (the Central Government) for establishing parks as recreational place was published. It can be easily imaged that the new government was terribly rushed with a great many difficulties both in domestic and diplomatic fields and could not afford to be deeply concerned in such a “trivial” matter as recreaton for people. Consequently, it is natural to recognize some alien influences, direct or indirect, upon the preparation of the said Decree.The Decree called forth echoes all over the country and numerous parks were born in a mere ten years. Most of them, however, were based on traditional recreation places having scenic deauty and on grounds of shrines and temples or changed from castle sites. And there were some cases that could not obtain wide favor among people owing to being far from the urban area.
著者
高橋 理喜男 前中 久行
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.24-37, 1977-02-20
被引用文献数
2 3

自然環境の管理保全の目標に適合したレクリエーション利用の適正密度基準を求めるため,奈良公園若草山の自然草地を研究対象として,レクリエーション利用密度と草地植生の群落的形質との生態的関連性を解析した。もっとも利用者の集中する春秋2季のうち,1973年1月初旬の休日2日間をえらび,地上各出入口において,30分単位で入退山者数を記録するとともに,合計6回にわたって,草地における滞留者の分布状態を空中写真によって捉えた。その結果を25mメッシュに切った1/2500の地形図上に,各撮影時刻毎にメッシュ当り利用密度分布図を作成した。利用密度と植生タイプとの関連性を,空間的広がりの中で考察していくためには,利用密度階級によって分けたメッシュ群が,ある程度安定した恒常性をもっていることが条件となる。その点を「平均相対利用密度」を用いて検証を試みた結果,空からの調査回数が少いため若干のフレを伴っているけれども,恒常性の条件をほぼ満たしていると判断された。一方,春と秋の2回にわたって植物社会学的植生調査を実施し,草地の群落的組成を明らかにするとともに,その空間的配分を示す植生図を作成した。さらに利用密度との比較検討ができるように,1つは相観タイプにより,もう1つは群落タイプによって,それぞれメッシュ単位から成る植生図に編成した。相観タイプについては,ススキ優占草地とシバ優雨草地とがメッシュ内に占める被度の割合に応じて,ススキ型,シバ型それぞれ3種類と裸地化型の計7タイプを設定した。また群落タイプの方は,ススキ群落を除外し,ススキ群落からシバ群落への移行帯を特微づけているチカラシバ型と,シバ草地を形成しているネズミノオ型,典型シバ型,ギョウギシバ型の4タイプに分けた。そこで,年間を通じて,入山者の最も多いクラスに属する11月3日の,しかも最高滞留者数を記録した13時の5,512人を基準にして,前述の「平均相対利用密度」階級を具体的な利用密度階級に換算して植生タイプとの比較を試みた。その結果,ha当り20人以下の利用密度にとどめておく限り,ススキ草原としての景観的存続は保証され,400人ぐらいまでなら,ススキ優占がつづく。しかし,500人を境として,シバ型へ転向し,900人を超えると典型的シバ草原が成立する。さらに,1,300人以上になると,激しい踏圧によって裸地化の前駆相ともいえるギョウギシバ型がとって代ることになる。
著者
高橋 理喜男
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.26, no.4, pp.17-23, 1963-03-30
被引用文献数
2 2

Die Planung der Spielplatze in Osaka fing aus Anlass von einem unvorhergesehenen Unfall an. Das war "Die Anordnung des vom Schadenfeuer betroffenen Teils in dem Kita-Bezirk" im Jahre 1909, die vorwiegend aus dem Plan von Strassen und Spielplatze bestand. Der Plan war so epochemachend, dass ein gewisser Fremder ihn sehr eifrig unterstutzte, und dennoch wurde seine Ausfuhrung aus dem falschen Grunde gehindert, dass Spielplatze sich nur in einem besonderen Bezirk sammeln. Die zweite Planung, zum Andenken der Thronbesteigung entworfen, durchgang zu Beginn der Taischo-Zeit(1961), und sieben Spielplatze wurden sich gerecht auf der ganzen Stadt verteilt, und auch jeder in der Nahe der Schule. Nach einigen Jahren (1921) wurden vier Volksbibliotheken neben den Spielplatze angelegt. Geschichtlich ist diese Verbindung, nach meiner Meinung, das seltsame und bemerkenswerte Beispiel, darauf die westliche Zivilisation einwirkt.
著者
高橋 理喜男
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 : journal of the Japanese Institute of Landscape Architecture (ISSN:13408984)
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.413-416, 1997-03-28
被引用文献数
3

明治初年に計画された札幌は,格子状の街区パターンをもち,その中に広幅員の大通(火防線)を設定した。それが現在の大通公園である。この大通計画の目的は二つあった。市街地を大きく官地と民地に分け,両者の空間的分離を図ること。同時に,民地から頻発する火災による官地への延焼防止の役割を担わせることにあった。この大通火防縮の計画は,都市火災の予防という観点から,近代的都市計画としての評価を受けてきたけれども,支配,被支配の構造が色濃くあらわれている近世城下町的な都市計画の論理を踏襲していることは,角館や大野の事例からも明らかである。
著者
高橋 理喜男 大沢 孝也 赤土 攻 菅原 岩雄
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.14-18, 1968-12-29

1.植物に対する大気汚染の影響を調査する一方法として、1966年に大阪地方の樹木の葉中硫黄音量と大気中のSO_2濃度との関係を調べた。2.調査地点として大阪市内に7ケ所、市外に5ケ所を選定し、各地点でサクラ、イチョウ、サンゴジュ、クス、クロマツの葉を5月、9月の2回(サンゴジュでは12月を加えて3回)にわたつて採集し、葉中硫黄含量を測定した。3.時間の経過につれて、各樹種とも葉中に硫黄が蓄積されたが、そのていどは大阪市内(大気汚染地区)の方が市外よりも著しかつた。4.調査地域を大阪市内、大阪市外とに分けて、それぞれの葉中硫黄含量の平均値を比較すると、どの樹種についても、前者の方が高かつた。5.大阪市内で、とくにSO_2濃度の高いと思われる地点の葉中硫黄含量は著しく高く「津守処理場」ではイチョウ(9月)が1.5%をこえた。しかし汚染度が低い郊外地、たとえば河内長野市では、すべての長種について低い値を記録した。6.以上の結果から、葉中硫黄含量は大気中のSO_2濃度とかなり密接な関連があるものと考えられる。また大気汚染度の高い大阪市内などでは、SO_2を主体とする大気汚染による植物の生育障害に注意する必要があると思われる。
著者
高橋 理喜男
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.2-8, 1975-03-20
被引用文献数
2 5

本邦における公園の発祥の原点となった明治6年の太政官布達によると,公園設置の要件として2つ挙げている。1つは地盤が官有地であること,もう1つは「群集遊観ノ場所」であること,この2つである。前者についていえば,すでに封建的土地所有形態の解体によって,社寺境内地や名勝地や城地を公園の候補地として具申することはきわめて容易であったとみてよい。一方,後者についても,江戸時代以来,庶民的戸外レクリェーション地のゆたかな蓄積が,とくに城下町を中心とする都市型にみられた。したがって,この布達は以上のような社会的歴史的趨勢をふまえたものであることは否定できない。しかし内外ともに多難な局面に立たされていた新政府の側に,こと民衆のレクリェーションにまで思いをめぐらすほどの政治的ゆとりがあったとは到底考えられない。とすれば,布達の背後に,何らかの形で,外国の強い影響の介在を認めざるを得ないと思う。ここに分達の本質を見出すことができる。すなわち,公園という新しい西欧的概念と,伝統的レクリェーション遺産という古い実在との癒着,これが布達の本質的性格であると規定することができる。ところで,外国の影響がどのような経路でこの布達に関与したかは判っていない。通説として,ボードウィンの建白説と,居留地外人の公園要求論があるが,いずれも具体性に乏しく,またいくつかの弱点も指摘できる。したがって,その実証に関しては今後の究明に残された課題である。太政官布達の反響は,当時の混沌とした社会情勢にもかかわらず,意外に早く全国的にあらわれた。西南の役が終結した明治10年までの僅か5年間の間に,開設公園数67ヵ所に達し,そのあとの10年間における開設数を遥かに上回る結果を示した。しかしながら,布達は「群集遊観ノ場所」としている以外に選定の規準を示していなかったため,さまざまの公園が輩出した。それらは立地条件によって,日常生活圏内にある真正の都市公園的タイプと,その圏外に出る郊外公園的タイプに分けることができる。前者は金沢兼六公園などに典型的にみられる如く,庶民の利用度も高く,公園の整備にもそれ相応の努力がみられた。それに反して,交通の便も悪い郊外公園的タイプとなると,人の足も遠く,ただ名称のみにとどまる公園も少なくなかったようである。これらの公園が脚光を浴びるようになるのは,都市化の進展が活発になる明治後期頃からである。このように,実体の伴わない公園が多数出現したのは,布達の本質とする「資源依存性(Resource-based)」に根ざしており,都市公園本来の「利用者指向性(User-oriented)」を明確に打ち出さなかったことによる。そこに太政官布達の歴史的限界があったと思う。それが永年にわたって,わが国の都市公園の在り方を規定しつづけてきたのである。