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甲州流軍学の築城術は、 甲陽軍鑑の品第42に記述あり https://t.co/FWrEFYVBYf https://t.co/o7JjfqbBq0
勝頼様と馬 https://t.co/2hyUOUomHa 右の後(天正三年四月十二日)勝頼公御馬を出され諏訪明神へ御社参有に、亀の甲の御槍折れ候、其後高遠へ御着有に堅固なる橋折れて御小人衆一両人死す。勝頼公御馬上手にてまします故、蹴立てめし候、御馬の後ろの左足橋の崩れへちとかかりたるは、
あぶながりつるに御堅固なり、めでたしと申者もあり、堅固なる如ㇾ此なるは物怪なりと呟くもあり、已上 https://t.co/aizxqBqkRu (長篠の戦い)勝頼公の御馬をとめられ候其節御馬草臥て動かざるに、初鹿野伝右衛門御馬に声をかけ追候へ共、むかしが今にいたる迄、武田大将のをくれ軍に馬進まぬ物也、
「甲陽軍鑑」品54  (;゚д゚)ゴクリ…謙信公が使っていた物…… https://t.co/HyDDvSHzo8 景勝より御曹子信勝公へ御音信に謙信もてあそび、城ぜめのあやつり・からくり物・敵味方二千ばかりの人数ある一間四方の城がたちを進上申され候、
「甲陽軍鑑」品57 https://t.co/9BReUKZR48 駿州先方侍、勝頼公へ向って申は、駿河氏真は信玄公の御旗先を見て、とき山家へ逃げ込み給ふ、それを笑ひ給ひて信長の旗先少しも見へざるに、件如郡内へあしあしにて御退ある事、今川氏真十双倍、武田勝頼公御なりは見苦しく候と申て高笑ひ仕り候、
「甲陽軍鑑」品55 https://t.co/r9KklwG0Bk 長坂長閑申すは、長篠において左様に敵をあなどり候故、御如オなきをくれ其を取給ふと申すに付て長篠と有る儀を聞召、其儀に任せ河なりに御馬を立られ候へば、日九つ時より雨降、富士川出て越す事ならざるに、
「甲陽軍鑑」品53 https://t.co/fnhLzccV9v 信玄公は他国の大将衆物いはれたる事、或ひは萬づ其作法聞給ひ、戦此方の勝利をなさるべき思案工夫専らあそばす故、永禄元年午の春、越後謙信、犀川雪白水にて大きに出たるに、無理に謙信、馬を乗込、人数をころし、しかも良き侍・覚えの武士、川にて死候て
おっと、『甲陽軍鑑』16品へのリンクを張り間違えた。 『甲斐志料集成』9巻 昭和9年9月10日印刷 9月15日発行 https://t.co/5YH0ZkZjOX "硯に耳のあかを入れ墨にすりまぜ書く物なり、此子細は人の血にて矢印落ちぬ故なり、是により耳撹き硯の道具に入るなり、置き様は絵図にあらはすなり、其時右筆は
見過ごしていた…… https://t.co/UwmOpreanp 一勝頼公御料人を穴山殿御子息勝千世殿へ御約束なれども、長坂長閑・跡部大炊介・大龍寺の麟岳和尚へ典厩音物をつかひなさるる故、穴山勝千世殿とは御相生あしきとて典厩の次郎殿をむこになさるべきと有故、穴山殿御前殊の外御腹立は御尤もの事にて候、
https://t.co/1M9SbkVlCj 穴山梅雪の御前勝頼公姉子なれども、子息勝千世殿を勝頼公むこにきらわれたると有、御恨みにて古府中より下山へのき給ふ、下山へ東道三十里行ば穴山殿知行なる故造作なく引とり申候。 (・_・D フムフム 血の繋がっている姉が怒っている理由として書かれていますね https://t.co/71O9owIo7R
「甲陽軍鑑」 https://t.co/UwmOpreanp 天正十壬午年正月六日の夜、阿部加賀守方へ木曽の御こしぞひ、茅村飛脚をたて木曽殿信長へ随身あり、勝頼公へ逆心申され候と申来る、典厩・長坂長閑・跡部大炊三人は此事虚言なりと申され、かの飛脚をめしこめに仕り候へ共、次第に此儀つよる故
https://t.co/1Hn36IkcKa ※松山城攻め(軍鑑では永禄五年二月)で日向藤九郎(同一人物?)は死んだことになっています。 其後長坂源五郎(軍鑑ではなぜか義信事件で誅殺される)にとへば、源五郎は道理かな、山にはくさきが絶えぬと申、
「甲陽軍鑑品33」 https://t.co/ZfFQew0JUD 永禄七子年七月十五日の夜、燈籠御見物とありて太郎義信公・長坂源五郎・御乳母曾禰周防只両人御供申、飯富兵部少輔へ御座候て、 (中略) ※私が持っている訳本は御乳母をお守役と訳しています
「甲陽軍鑑品第五十八」 https://t.co/rGDSrnkhrH 勝頼公も明智十兵衛、当二月より逆心仕べきと申こす所に、長坂長閑分別に籌を以て調議にて申越と云て、明智とひとつにならざる故、武田勝頼公御滅亡なり。三月十一日より六月二日までは四月・五月小の月なる故、八十日めに信長父子御切腹なり。
該当部分が見つかりました 「甲陽軍鑑」 https://t.co/LLdQkEkJfo 【小山田備中が子、今の備中六左衛門】と申せし時の行義のごとく、男の道に自慢して頬(つら)にて人をきるやうにして分別なし https://t.co/1dQviCNXbY
「甲陽軍鑑」 https://t.co/MaEQ62P9DU 「武田三代軍記」 https://t.co/lTLxym25rV 「甲陽軍鑑」訳本を見ていて気がついた 穴山伊豆守(信友)(武田三代軍記では穴山左衛門大夫信行)を信玄の叔父(甲陽軍鑑では母方の伯父)としている 軍鑑だから誤記だと思うけど、穴山信友の父親は系図によっては異なる
「甲陽軍鑑」 https://t.co/OgMFUAlCrX 飯富兵部少輔三百騎の同心被官、弟飯富三郎兵衛に五十騎同心とありて預け下され、名字かへさせ山県三郎兵衛に成され事、兄の兵部御成敗のみきり丑の年より此如飯富兵部人数二百五十騎のこりたるを、百騎小曽殿へ預けられ、小曽をかへ板垣になさる、
「甲陽軍鑑品59」 https://t.co/rGDSrnkhrH https://t.co/2GkRWEC7NJ 扨又井伊万千代と云遠州先方衆侍の子なるが、万千代近年家康の御座をなをす、此万千代を兵部と名付大身に取立らるる、万千代同心に山県三郎兵衛衆・土屋惣蔵衆・原隼人衆・一條右衛門大夫殿衆を兵部同心に付らるる、
「甲陽軍鑑品59」 https://t.co/rGDSrnkhrH https://t.co/2GkRWEC7NJ 扨又井伊万千代と云遠州先方衆侍の子なるが、万千代近年家康の御座をなをす、此万千代を兵部と名付大身に取立らるる、万千代同心に山県三郎兵衛衆・土屋惣蔵衆・原隼人衆・一條右衛門大夫殿衆を兵部同心に付らるる、
「甲陽軍鑑品39」 https://t.co/C6s28DmwKC 去年味方が原の砌も(中略)極月廿四日より正月七日迄十四日の間罷在に、天下のぬし信長様々降参のうへ、我等被官秋山伯耆守をばむこ(婿)にして、それにことよせ末子の御坊と云ふ子を甲府迄差越候に、信玄方より破りて信長居城の六里近く迄やき詰
「甲陽軍鑑品53」 https://t.co/xLA99mJbvw 長篠合戦をくれの後は(中略)御譜代衆東美濃岩村の秋山伯耆まで亥の極月に取つめられ候へ共(中略)信長より岩村の城へ扱ひをいれ、秋山伯耆守伯母むこ(婿)なれば、たすくべきとありて、だしぬき伯耆・座光寺をからめとり機物(はたもの)にあげ(続く)
「甲陽軍鑑品39」 https://t.co/h5BY9JX5KP 一 天正元年癸酉三月十五日辰刻に、美濃国岩村へ取つめせめ給ふ(中略)其後岩村の城落て岩村地衆は降参申候(中略)さありて秋山伯耆くみ衆ともに岩村在番なり、土岐遠山の御仕置なされ、
秋山虎繁とおつやの方の記述について 「甲陽軍鑑品39」 https://t.co/W07A0r6B1R 一 信玄公癸酉二月中旬に御馬入(中略)酉の二月下旬に、信長伯母子美濃国岩村殿御家を信州伊奈秋山伯耆内方に織田掃部肝煎を以て祝言あり、但し是は信長こそ意は存せられ、うはげはしらざる様なれ共(続く)
メモ 竺英甫寅? 「乾徳山恵林寺雑本」 https://t.co/AbrHNGjGK1 起龕に能成寺竺英の名前が有りますが、 「甲陽軍鑑」 https://t.co/2hyUOUomHa 「天正玄公佛事法語 」 https://t.co/Dl2GARtbsT 起龕は説三和尚です「武田氏家臣団人名辞典」も同じです
@nobutoyo_tenkyu 「甲陽軍鑑品39」にありました https://t.co/C6s28DmwKC
真田信伊が黄八幡の旗を信玄公から貰う話です 「甲陽軍鑑」 https://t.co/AzZqShpFx9 「武田三代軍記」 https://t.co/X14tX3EGLJ
小宮山内膳が遠ざけられた理由 「甲陽軍鑑」 https://t.co/3lUh3O4cGv 「武田三代軍記」 https://t.co/45cWhKwXB3 「甲斐国志」 https://t.co/RsQewjH953 「絵本真田三代記」 https://t.co/BY6e3zHHNh 「三河物語」 https://t.co/kV9B4pqTKg 「三河後風土記」 https://t.co/aAeyB2d6wp
@sukemasa_ota (*- -)(*_ _)ペコリ 「甲陽軍鑑品40下 石水寺物語」で出典元?を見ました。 https://t.co/Ys4Rr95gcb 残りは赤井直正・長曾我部・来島・吉川元春・朝倉金吾・小早川隆景・浅井長政・松永久秀・徳川家康・正木大膳・蘆名盛氏・土岐為頼になるそうです。
(*- -)(*_ _)ペコリ https://t.co/XWIw6Z6NTGの133コマ目にあります。 「甲陽軍鑑品31」 弘治三年4月9日に上野みかじり(三日尻)において北武蔵・西上州侍十頭集まり、その勢2万ばかりの人数にて長野信濃守大将になり、やさしくも信玄公に楯をつき奉る。 https://t.co/nG4NiUE5sI
@haneko_tweet 以下の、『甲陽叢書』や『甲斐志料集成』では、"地形をつきあげ建て給ふにより" 以降が抜けていて、北条早雲の三略の話に飛ぶ。底本が違うのだろう。 『甲陽叢書』温故堂 明治26年6月 https://t.co/5QiDJs3fgd 『甲斐志料集成』昭和9年9月 https://t.co/jvL24dt2Er
落乱59巻の伝書犬のところに出てくる武将は,『甲陽軍鑑』の太田資正ですな。 『甲斐志料集成. 9 甲陽軍鑑』品第六より 右ページ左から六行目からのところ https://t.co/I5gbF3i6TT
永禄12年の小田原攻めのルートは「相模川を左にあてて、岡田・あつぎ・かね田・三田・つまたに陣取り給ひ」とあり、現在の相模川の西を通っている。 https://t.co/GcUbVKOCd2
今甲陽軍鑑を少しずつ読んでる私ですが、皆もぜひ読んでみよう! https://t.co/3oqVvvXMcP https://t.co/qUNrDyI8lW https://t.co/revrVV8Avq ただね、永順どこや!
『甲陽軍鑑』の「駿河今川氏真公馬のあか薬」云々のとこ。品第四十下。 左ページの左から6行目より。 https://t.co/P1n5qem8cL 左ページの左から5行目より。 https://t.co/sKPWG2gv8C 右ページ左から2行目より https://t.co/YFabzlMKaX
『甲陽軍鑑』品第33 巻10下 https://t.co/llkctnzj15 "永禄八年乙丑に天下を持、三好左京太夫分別ちがひ、家老の松永弾正意見に付、公方光源院殿義輝公をうち奉るなり、仮初にきくも、主君をうち奉るは いまはしき事なり、聞て耳をあらひ逆心を物がたりに申ては、其口をあらふべき儀なり、以上"
"此比(ゴロ)は公方を殊外慢(アナド)り奉り、盃を始めて公方へさし、茶をたべ残しては是を公方のましませなどと云、又公家近衛殿などをも、やい近衛などと、様々徒(イタヅラ)を仕り、異相をたて候間彼信長を倒なされ度と有其使也" https://t.co/UVFOPAJzrA
其ごとくある世間の体をも、ちがへひとむき一ツかたぎをこのむはかならず国持の非儀ならん但しよき大将の上には一ツやうなるもほめてこそあるらめ、三四十二或は三四七ツともいはんと信玄公御錠あり" https://t.co/PcHVgmK6gL こっちのほうが句読点が多くて読みやすそう。
https://t.co/u9Plikr1Gs https://t.co/fIWXfh3lIE これはさすがに無理があるな…(笑)
近代デジタルライブラリー - 甲斐志料集成. 9 https://t.co/8rzWE2ExG7 甲陽軍鑑あった…これで全部なのかな?

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