1 0 0 0 禅と福祉

著者
池田 豊人
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.628-629, 1980
著者
Shakya Sudan
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1176-1180, 2006

Ma&ntilde;jusrikirti 著 <i>Aryama&ntilde;jusrinamasamgititika</i> (Tohoku 2534=<i>Tika</i>) は<i>Namasamgiti</i> (<i>NS</i>) を瑜伽タントラの立場から解説した最大の註釈書である. <i>NS</i>の第78偈に「法螺貝(dharmasankha)」という語がある. Ma&ntilde;jusrikirti はその語を説明するために,「法螺貝の三摩地 (<i>Tika</i>, 213a<sup>4</sup>-214a<sup>1</sup>=Dh-samadhi)」という「観法」を紹介している. それは以下の八項目に分けられる.<br>[1] 水輪の観想; Mam字所変の文殊を観想及び我慢 [2] Kham字所変の螺貝の観想 [3] マンダラを描く方法 [4] 供養 [5] 無量光仏としての我慢 [6] 収斂 [7] 拡散 [8] 観法の功徳<br>以上を検討した結果, 以下の二点に纏められる.<br>(1) 螺貝と音声を発生する器官である喉との類似性から, Ma&ntilde;jusrikirti が音声の発生の構造を Dh-samadhi の中で解釈していると推定される.<br>(2) <i>Tika</i> で「観法」として説かれている Dh-samadhi と殆ど同内容が, <i>Sadhanamala</i> (<i>SM</i>) に <i>Dh-sadhana</i>(<i>SM</i> No. 81) として収録されていることが判明した. この <i>Dh-sadhana</i> のチベット語訳 (Tohoku 3474) は, Grags pa rgyal mtshan 訳 <sup>*</sup> <i>sadhanasagara</i> のみに収録されており, 梵本・チベット語訳ともに著者名が伝えられていない. しかし, 内容上の類似及び <sup>*</sup> <i>Sadhanasagara</i> の翻訳年代から見て, <sup>*</sup> <i>Sadhanasagara</i> 編纂の時点で, <i>Tika</i> から Dh-samadhi の部分だけを抜き出し独立した儀軌として扱おうとする仕方があった可能性が強い.
著者
渡邊 寶陽
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1261-1269, 2013-03-25 (Released:2017-09-01)

「日蓮(1222〜82)は,どのように仏陀の存在を確信したのか?」について,日蓮の主著『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(『観心本尊抄』と略称)を中心に,考察する.日蓮は「仰ぐところは釈迦仏.信ずる法は法華経なり」(『孟蘭盆御書』)と,明確に久遠の仏陀釈尊への尊崇を基本とし,『法華経』への帰依を確言している.釈尊への帰依については,釈尊が(精神文化の基調である)主徳・師徳・親徳の三徳を総合的に統括していることを強調する.そのことは『一代五時図』『一代五時鶏図』などの図録に詳細に図示される.そのような総合的な見解に基づき,日蓮は,釈尊→天台大師→伝教大師という系譜において『法華経』を基幹とする仏教の展開がみられるとする.具体的には中国の天台大師撰述の『法華玄義』『法華文句』『摩詞止観』の三大部を尊重する.したがって,自己に仏界の内在を確信する依拠は『摩詞止観』に求められる.天台大師智〓は『摩詞止観』を厳しい行法として究める摩詞止観の行法を完成させたが,日蓮はその第五巻に説かれる一念三千の理論を末法衆生への基本として転換的に理解し,南無妙法蓮華経の唱題によって,凡夫自己の仏界が久遠釈尊の大慈悲によって顕現されるとする.それこそが,仏陀入滅後二千二百二十余年後の末法に『法華経』が「未来記の法華経」としてその真意を顕す重要な意義であることを,『観心本尊抄』に詳説する.すなわち,自己に内在する一念三千とは,凡夫自身の自己錬磨によって究明することでなく,凡夫自身に仏界を具有することは,既に久遠釈尊によって保証されるところであることが明らかにされるとする.それを自己に体得することは,南無妙法蓮華経の唱題受持によって顕現されるという唱題成仏の趣旨が明らかにされたとするのである.仏陀釈尊を仰ぎ見る当所に,凡夫自己の仏界内在を確信せよと日蓮は示しているのである.
著者
野呂 靖
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.614-620, 2018-03
著者
小林 久泰
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1078-1084, 2013-03-25 (Released:2017-09-01)

ティミラ眼病とは一体何なのか.この問題について,かつて金沢篤氏が極めて詳細な研究(金沢1987)を発表された.この金沢1987に対して二つの疑問を提示することができる.第一に,インド医学の伝統においてティミラ眼病と「華」は全く無関係であったと断言することは可能か.第二に,瞳の第四膜に到達した病素をティミラとみなす大地原訳を「明らかな誤訳」と呼ぶことは可能か.この二つの疑問を出発点として,本稿では以下のことを明らかにした.第一の疑問点に関して,『アシュタ・アンガ・フリダヤ・サンヒター』にカパ性のティミラ眼病患者に見えるものとして,ジャスミンの花やスイレンが挙げられていることを明らかにした.但し,それは『スシュルタ・サンヒター』の異なる文脈にある二つの文章を一緒にしたために起こった,いわば副産物に過ぎないことも指摘した.第二の疑問点に関しては,『バーヴァ・プラカーシャ』に大地原流の解釈を挙げるインドの伝統も存在することを指摘し,当該個所に関して,大地原訳を「明らかな誤訳」と言うことは困難であることを明らかにした.その一方で,金沢氏の主張を支持する記述が『スシュルタ・サンヒター』自体に見られることも指摘し,それがサートヤキの伝統に従ったものであることを明らかにした.最後に,ティミラを瞳の第一・第二膜の病気と捉える『アシュタ・アンガ』の伝統とは異なり,『スシュルタ・サンヒター』作者があえて瞳の最外膜である第四膜の解説の中でティミラを持ち出すのは,彼がこの語の原義である「暗闇」というニュアンスに力点を置いたからではないか,ということを指摘した.ティミラ眼病とは,最終的に完全失明,すなわち「暗闇」に到る恐ろしい病に他ならないのである.
著者
清水 俊史
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1158-1162, 2013-03-25

本稿は,有部と上座部との資料を検討し,阿羅漢の造業の問題について考察した.阿羅漢は,すべての煩悩を断っているのであるから悪心を起こさず,人殺しや盗みをして悪業をつくることはない.しかし,阿羅漢は善業をなすことがあるのだろうか.仮にもし,「人助け」や「社会貢献」を阿羅漢がなした場合,これらの行いは仏道修行とは無関係の世俗的な善業(すなわち福徳)であるから,輪廻しない阿羅漢にも来世の生存を生みだすという問題に陥ってしまう.このような「もはや輪廻しないはずの阿羅漢であっても,新たに業を積むのか」という問題が,有部および上座部の資料に現れている.この問題に対し両部派は,次のように全く異なる見解を示している.上座部は,阿羅漢になった者はもはや業をさらにつくることはないと解釈している.しかしこれは,仏道修行とは無関係の世俗的に「よい」とされる行為を,阿羅漢が全くなさないという意味ではない.そのような場合,阿羅漢には善心ではなく,阿羅漢のみに起こる唯作(kiriya)という特殊な無記心が起きており,その心がそのような世俗的な行為を成立させていると解釈する.一方の有部は,阿羅漢となった者も業をつくることがあると解釈している.すなわち,仏道修行とは無関係の世俗的に「よい」とされる行為をなす場合,阿羅漢にも三界繋有漏心が起こり,それらは善業になる.しかしこの阿羅漢の善業は,阿羅漢の最後生で異熟を受ければ済むもので,来世を導く能力はないものにしかならないと解釈されている.阿毘達磨の法相は一見無味乾燥としているが,このような具体的な問題にも回答しうるよう厳密に定義されていることがわかる.