著者
釋 覺瑋
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.1303-1309, 2016
被引用文献数
1

臨済義玄(?-866)と仏光星雲(1927-)は生まれた時期こそ千年以上離れているものの,二人とも彼らが暮らしていた社会に対して禅の教えを創造的に適用した.それは,人々が自らの人間性を発見し,現状を超越することへの一助とするためである.この二人の禅師は,様々な迫害を乗り越えただけでなく,先達の教えを作り変えることによって,その時代の社会・政治的な環境に新たな価値を付与し,当時用いられていた一般的な言葉を創造的に使い,彼等の信仰をさらなる高みへと引き上げた.中国禅の流派を形成した菩提達磨(5-6世紀頃)は『二入四行論』の中で,すべての衆生に等しく備わっている「本性」が存在していること(理入)と,菩薩がいかに日常生活において法に従いつつ六波羅蜜の実践が可能かということ(行入の四つの修行の一つ)を強調している.臨済義玄がこうした教えを適用したのは,四万以上の仏教施設が破壊され,二十六万人以上の僧侶が還俗を余儀なくされた会昌の廃仏後(845年頃)という惨憺たる時期であった.このような大規模な破壊-経典や信仰上価値のあるものを含む-と周辺地域での抵抗運動が続く中で,義玄は菩提達磨の法による「行入」に倣い,彼に付き随う人々を激励した.人生に起こった出来事をそのまま受け入れ,「あるべき」理想の人生と「いまこの」現実の人生の間に存在する緊張から解放したのである.達磨の「理入」と同じく,義玄は仏性を表す道教の用語「無位の真人⊥すなわちシンプルで自然な人間に戻ることを提唱した.この溌刺としてダイナミックな「真人」は,何物にも執着しないが故に,仏教徒はこうした超越的な解放(解脱)の状態を望むべきであり,不運な状況がふりかかろうとも抵抗しない,というのである.仏光星雲は臨済禅の系統に列なる人であり,「人間の生活の中の仏教」という太虚(1890-1947)の教えに影響を受けている.太虚は,制度や教育,社会の改善を通じて,広く仏教を活性化するよう呼びかけた人である.台湾の人々が急激な経済成長に自らをあわせ,儒教的な原理と資本主義的民主主義とのバランスを取るのに苦心している中で,星雲は太虚の活動を人道主義的な仏教へと転換したのである.星雲は法に従いつつ葬式仏教や伝統仏教を近代化した.それは仏教徒が,成長を続ける台湾の経済に生産的な面で貢献しながら,文化的,教育的,慈善的,修養的活動を通して,社会から疎外されている人を癒し,人々の連帯意識を生み出すためである.彼は智慧とユーモアと慈悲をもって,現代社会の厳しさとめまぐるしい変動に対応するために,禅のもつ解放的な性格を強調した.星雲は弟子達に,自らが仏である(理入)ということを主張するように勧めた.彼は,人々が自信を回復し,世界は縁起(空)から成り立っていると認識させることで,心の平静を取り戻させた.この二人の禅師は,人々が暮らす状況を十分に意識したうえで,彼等が理解できる言葉を使って,人々の自らに対する信頼を回復させ,社会の安定と成長に貢献した.精彩を放つ禅仏教の精神は,社会の利益と復旧に巧みに使われたのである.
著者
柳 幹康
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.292-286, 2018-12
著者
西村 玲
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.101-104, 2004
著者
西村 玲
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度学仏教学研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.256-260, 2005-12
著者
堀田 和義
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.933-929, 2018

<p>Among the Indian religions, Hinduism and Buddhism treat earth, water, fire and wind as inanimate elements. However, in Jainism, these elements are treated as living entities. In the past, this Jain view of the elements was interpreted as showing that Jainism was animistic in outlook. Subsequently, however, many scholars have argued against this interpretation.</p><p>In this paper, I will first outline the existing scholarship that argues that Jainism is an animistic religion. Then, I will survey research critical of this view. Likewise, the view that Jainism must be old because it is animistic can also frequently be found. However, this view is based on the theory of the evolution of religion that has become the target of much criticism in recent years and therefore requires reexamination.</p><p>Next, I examine the counterargument by J. C. Jain. On the basis of the three points, I clarify the way in which his interpretation offers a valid counterargument to earlier scholarship.</p>
著者
松村 淳子
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1164-1172, 2010-03-25 (Released:2017-09-01)
被引用文献数
1

餓えた牝虎に自分の身体を与えた物語(投身餓虎,捨身飼虎)は,法隆寺の玉虫厨子に描かれていることでも知られるように,仏教の伝わった地域では広く知られ,数多くの文献資料が遺されている.しかしながら,パーリ語のジャータカ物語にはこの話は含まれず,南方上座仏教国にこの物語が存在することはほとんど知られていなかった.この物語がスリランカにも知られていたことは,法顕の短い記述(『高僧法顯傳』)によりわかるが,そのほかの資料についてはこれまでほとんどわかっていない.ところが,スリランカ仏教徒はパーリ・ジャータカに含まれないジャータカのいくつかを伝承しており,それが近年でも寺院の壁などに描かれている.本論文では同本生話の諸伝承を整理し,それとスリランカで知られる伝承の証拠を絵画および文献資料に求め,それらと北伝伝承との関係を明らかにしようと努めた.なかでも大正No.172経はこれまで具体的に研究されていないが,有名な金光明経の物語より古い,ガンダーラの伝承であることは明らかで,その訳者である法盛も,法顯同様ほぼ同時代にスリランカに旅したであろうことは,南北仏教伝承の交流の具体的事例として,非常に注目すべきことを指摘した.
著者
長尾 光恵
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.566-569, 2018

<p>In Huaigan's <i>Shijingtugunyilun</i> (釈浄土群疑論) stress is placed on the idea that followers of the Śrāvaka and Pratyekabuddha vehicles will obtain rebirth in the Pure Land and attain the Mahāyāna, the influence of Wönch'uk's idea of the five <i>gotra</i>s (五姓各別説), and the criticism offered again Ji's fundamental denial that Śrāvakas and Pretyelabuddhas are capable of rebirth in the Pure Land.</p>
著者
BARUA Titu Kumar
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.1289-1293, 2012

Tel-lonaniはバングラデシュのバルア仏教徒が結婚式当日に式前に家庭で行なう儀礼で,「頭に油を注ぐこと」を意味するチッタゴン方言に由来する.本論では,この儀礼の次第と,儀礼の随所に込められた象徴的な意味を取り上げた.まず僧侶に日取りを相談するのだが,バルアにとっては川の満潮時がめでたい時である.儀礼に際してはドゥルヴァ草やグアヴァなどを準備するが,それらには,「成就」や「繁栄」などの意味が込められている.Tel-lonani儀礼は新郎新婦それぞれの家で一連の儀式を5回行う.竹と布で仕切られた空間にカップルが座り,列席者が一人ずつ5回ドゥルヴァ草で二人の額に触れる.その後全員の手を添えて同じことをする.これらには,「一人から結び合いへ」,「調和」の意味があるとされる.二人が座る敷物は,一回の儀式が終わるごとに剥がして揺すられるが,浄化儀礼で二人の体から落ちた穢れがついたために敷物をきれいにすることを含意している.儀礼の終盤には,母親と親戚の女性が二人の頬と額にターメリックをつけ,それを自分のサリーの端で拭う.これには,子供に別れを告げることが象徴されている.そして最後には,マスタードの種と油が清水とともに二人の頭頂に塗られる.バルア仏教徒はマスタードは風邪の予防,清水は浄化と長寿をもたらすと信じている.このように,Tel-lonani礼は,主たる結婚式に臨む前に新郎新婦の心身を浄化するために行なわれるが,そこで用いられる物や種々の所作には,長寿,繁栄など,二人の新生活への願いが込められている.また,この儀礼には僧侶は参加せず家族や親族が関わるのだが,親子としての別れの後に,新たな家庭を築く二人を親族が今後も支えていくという,通過儀礼としての特徴が色濃く映し出されている.