著者
瀬川 裕司
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.354, pp.85-100, 2002-03

オーストリアではじめて映画が有料公開されたのは、1896年3月27日、ウィーン一区ケルントナー通り49番地でのことである。パリのグラン・カフェでリュミエール兄弟がシネマトグラフを発表したのは、前年の12月だった。三ヶ月後、兄弟は自社の上映装置とフィルムをもたせて、部下のウジェーヌ・デュポンをウィーンに派遣した。上映は午前10時から夜の8時までノンストップでおこなわれた。料金は50クロイツェル、映写されたのは「パリのコンコルド広場」「鉄道」「海」等の今日でもよく知られている短編である。デュポンらはウィーン到着後、フランス大使館や各種教育機関等で何度も試写をおこなった末に、ようやくその場所での上映許可を得たのだった。
著者
斎藤 英治
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.378, pp.39-54, 2004-01

1937年から38年にかけて、ハリウッドの最大手スタジオだったMGMは『三人の戦友』(Three Comrades)なるタイトルの小説の映画化に乗り出す。製作の指揮をとったのは当時のプロデューサーで、後に監督・脚本家として『三人の妻への手紙』(1949)『イヴの総て』(1950)などで名を馳せることになるジョゼフ・L・マンキーウィッツ。監督はかつて『第七天国』(1927)というサイレントの名作を撮っているフランク・ボザージ。ドイツ人作家エリッヒ・マリア・レマルクの小説の脚色という仕事は、作家のF・スコット・フィッツジェラルドに委ねられた。フィッツジェラルドは、生涯に三度にわたってハリウッドに滞在して脚色の仕事に関わった経験をもっているが-一度目は1927年、二度目は1931年で、それぞれ二ヶ月ほどの短期間のものだった。
著者
瀬川 裕司
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.322, pp.63-130, 1999-03

レーニ・リーフェンシュタールによる1934年ナチ党大会の記録映画『意志の勝利』は、その監督の名前に決定的な負の刻印を押した<呪われた映画>として名高い。その作品は今日でもドイツでは一般的上映を禁じられているが、他方ではその力強さ、抗しがたい魅力を指摘する声も絶えない、映画史上最大の問題作のひとつといえる。以下では私たちは、まずそれがどのように撮影・編集された映画であるかという検討から入ることにしよう。映画の全体は、以下のような20のシークエンスから構成されている。じっさいの党大会の行事は、ヒトラーがニュルンベルクに到着した9月4日から10日の閉幕まで、計七日間にわたっておこなわれたが、映画ではそれが五日として表現されている。
著者
瀬川 裕司
出版者
明治大学教養論集刊行会
雑誌
明治大学教養論集 (ISSN:03896005)
巻号頁・発行日
no.384, pp.93-111, 2004-03

ドイツ・アメリカ映画の歴史に偉大な足跡を残したエルンスト・ルーピチュは、1892年1月29日、ジーモン(ジムヒャ)およびアンナ・ルーピチュというユダヤ人夫妻の次男としてベルリンに生まれた。まだドイツに皇帝が君臨していた時代のことで、その皇帝、ヴィルヘルム二世が33歳の誕生日を迎えた二日後にエルンストはこの世に生を受けたのだった。当時のルーピチュ一家はロートリンガー・シュトラーセ82a番地に居を構えていたが、一年後にはシェーンハウザー・アレー183番地へに引っ越した。同じ年にベルリンに生まれた<ユダヤ系ドイツ人>として私たちが思い出さずにはいられないのは、ヴァルター・ベンヤミンであろう。ゴージャスな雰囲気のなかで展開される<洗練された喜劇>の監督としてハリウッドで成功を収めるルーピチュと、孤高の思想家として知られ、悲劇的な最期を迎えるペンヤミンとがまったくの同時代人であり、同じ都市で幼年期を過ごしているという事実には、多くの人々にとってむしろ意外に感じられる部分があるかもしれない。