著者
岡田 理香
出版者
工学院大学
雑誌
工学院大学共通課程研究論叢 (ISSN:09167706)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.49-62, 2008

J. R. R. トールキンの『ロード・オブ・ザ・リング』は、出版当初あまりよく売れない本だった。しかし年を経ていくうちに多くの人に読まれるようになり、今ではこの作品を知らない人はほとんどいない。今世紀の映画化によって、『ロード・オブ・ザ・リング』は世界中にその名を知らしめることとなった。 トールキンの作品は様々な要素を豊かに含んでいる。彼はミドルアースの歴史を作り、独自の言語を作り、登場人物たちの背景についても詳細に渡るまで書いた。さらにトールキンは伝説や神話、そして聖書などの要素を取り入れてこの作品を書き上げた。トールキン自身はこの作品にアレゴリーはないと述べているが、作者がカトリックの信者であったことから、作品の中に聖書的意味を見出すことは可能なものと思われる。例えば善と悪の戦い、登場人物の成長などが挙げられる。登場人物たちはそれぞれが役割を持ちながら、時折キリト的な性質に変わる。ガンダルフは戦いの後に蘇生して白のガンダルフへと生まれ変わり、フロドは他の人が負うことのできない重荷 --指輪-- を負ってモルドールへ向かう。アルゴルンはリーダーであり王でもある。サムはフロドの良き理解者であり、助け手でもある。また、最後に登場人物が別世界へ旅立つという点においては、著者が別世界The Kingdom of Heavenへ憧れていたことを示している。 トールキンはこの作品に、聖書に見られる人の賜物やキリストの姿、そして永遠の命を表わした。作品の中に深い意味を探ることは、作品を味わうという点でも、知識の幅を広げる点でも有益である。意味を知ることでより奥深い鑑賞ができ、それを共有することで、知恵も知識も深まっていくものと思われる。
著者
梅津 紀雄
出版者
工学院大学
雑誌
工学院大学共通課程研究論叢 (ISSN:09167706)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.17-33, 2008

1. ロシア・アヴァンギャルドと音楽との関係をどのように考えるべきか はじめに 20 世紀初頭から1930 年代初頭にかけての,ロシア革命前後の前衛的芸術運動,ロシア・アヴァンギャルドについてはその概要がすでに広く知られており,日本語の文献によっても,ある程度網羅的にその活動を把握することが可能である。しかしながら,それらの文献で音楽において語られることは非常に希である 。したがって,音楽に関心を抱くものがそれらの文献に目を通すならば,ロシア・アヴァンギャルドにおいて音楽は関わらなかったのか,それとも単に言及されていないだけなのか…という疑問が浮かぶであろう。 しかしながら,他方で,この領域(「ロシア・アヴァンギャルド音楽」)に関して日本語ではすでに安原雅之の労作があり ,その後に現れた新資料があるにせよ,基本的なことはすでに言い尽くされているようにも思われる。現在のところ,主要な例外は亀山−1996である。また,ロシア・アヴァンギャルド再発見の先鞭となった「パリ=モスクワ」展のカタログにおいては音楽を対象として一章が割り当てられていた(Paris-Moscou-1979)。これが英訳ないし邦訳されていたならば,今日の状況はまた違ったものになった可能性は大いにあり得る。他方,桑野隆の監訳により邦訳が進行中のコトヴィチ『ロシア・アヴァンギャルド事典』(Котович-2003)には,音楽関係の項目が相当数含まれており,同書が出版されれば,状況の大きな改善が期待できよう。安原−1987は,この領域の必読文献である。長木−1992にはそのエッセンスが収められている。安原−1994および安原−2006も併読をお勧めしたい。文献表には含めなかったが,野原泰子「ロシア・アヴァンギャルド」は簡潔に先行文献を要約している(http://www.geidai.ac.jp/labs/funazemi/terminology/russian_avant_garde.htm,最終閲覧日2008/07/04)。 以上の2 系統の文献から判断する限りにおいて,「ロシア・アヴァンギャルド音楽」については,以下の2 種類の立場があるように思われる。 a)音楽を専門としない研究者からみたロシア・アヴァンギャルドの(一部としての)音楽, b)音楽を専門とする研究者からみたロシアの前衛的な(アヴァンギャルド)音楽 このa)とb)の立場からは言及される対象に若干のずれが生じている。例えば,a)の立場からは,著名な作曲家であるプロコーフィエフやストラヴィーンスキイ,あるいはショスタコーヴィチは,通常,「ロシア・アヴァンギャルド音楽」としては言及されない(前2 者の場合には革命直後の時期に,ロシアにいなかった,という問題があるにせよ,それだけが問題なのではない)。 つまり,何が「アヴァンギャルド」か,という意識に,音楽の専門家とロシア・アヴァンギャルドの専門家とでズレがあるのである。ここで問題になるのは,どこに「前衛性」を見いだすか,ということにほかならない。
著者
野村 史織
出版者
工学院大学
雑誌
工学院大学共通課程研究論叢 (ISSN:09167706)
巻号頁・発行日
no.45, pp.37-51, 2007

メディアテクストの解釈については,テクストやテクストが記される場(文書)の質・文脈・制限についてだけでなく,テクストが生産・解釈・消費されていく過程など,多面的な要素が複合的に分析されるべきだといわれてきた。そこで,本稿は,「言説」に関する最近の新たな理論を論じ,メディア研究のテクスト分析へ新たな視点を提示することを目的とした。まず,本稿は,メディア研究の伝統的な手法である量的内容分析の利点と客観性などの問題点を提示し,多くのメディア研究が質的内容分析の手法を取り入れるようになった経緯を示した。次に,テクスト分析に関するこうした質的研究のアプローチや理論が,「言説」という概念に依拠していることを明示した。もともと言語学で生まれた「言説」という概念は,社会・政治・経済・文化的文脈において様々なテクストが生産・解釈されることを含め,発話と認識の多様で変動的な社会実践と意味を指している。この「言説」理論に関して,メディア研究に多くの影響を与えたフーコーの言説と権力・社会の議論,グラムシの文化ヘゲモニーの理論に焦点を当て,言説が政治的性質を有していること,そして,変動し多様な社会背景・権力関係と絡み合って,言説が形成・表象・解釈されること,また言説的実践を通じて,社会的文脈や権力関係が構築されたり,当然のものとして社会で「自然化」されたり,変化させられたりする過程への視座を提示した。最後に,こうした視点を取り入れたメディア研究のテクスト・言説分析の例として,批判的言説分析を紹介し,多様なメディアテクストを分析するための新たな視点を論じた。