著者
朴 銀姫 PIAO Yinji パク ギンヒ
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.309-319, 2008-09

本論は、植民地時代という極めて特殊な背景の中で書かれたテクスト-「光の中に」を取り上げ、「主体性」の追求や挫折、抵抗を読み解こうとするものである。結論から言えば、「主体性」とは「意志」と「行動」との反復的な分裂、結合の中に存在する矛盾状態・生成状態の様相に他ならないということになるであろう。まず、このテクストは、自分に与えられた名前の呼び方によって、また自分の使用言語によって、主体の主体性が変わっていく事態を明確に提示している。「名前」という出来事の外部と自己意志という内面の相互関係についての分析から、主体性の追求や挫折、抵抗の中で生きてきた植民地朝鮮人の時代像を把握することができた。また、言語や血統に関する集団的イデオロギーが時代の支配的価値として個々人を抑圧する状況の中、それに対する個人の実存的抵抗を描き出したという点で、このテクストは植民地朝鮮人作家による日本語文学の中で例外的な意義を持つ作品であると思われる。
著者
小笠原 春菜 オガサワラ ハルナ OGASAWARA Haruna
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.165-181, 2008-09

この論文は、ケイパビリティ・アプローチにおける自由と必要の関係について考察をするものである。具体的には、初めにA. センとM. ヌスバウムそれぞれのケイパビリティ・アプローチについて詳細に考察を行う。次にケイパビリティ・アプローチにおいて自由と必要に焦点を当てた先行研究を踏まえて、これまでの研究では見落とされていた点を明らかにする。検討の結果、センのケイパビリティ・アプローチでは自由概念と必要概念の区分が不明瞭であることが判明した。本論文では、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチにおける概念構築のための機能のリストアップの立場を参考にし、ケイパビリティ・アプローチにおいて自由と必要にずれが生じているケースが存在しうることを指摘している。
著者
中村 隆文
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.29-40, 2004-10-01

ヒュームは因果関係を批判し、さらに人格の同一性も虚構的なものとして批判したことから、その思想は、デカルト以来疑われることのなかった「明晰な私」さえも否定する懐疑主義としてみなされてきた。事実、彼はその著作『人間本性論』において、実体を主張する二元論が根拠のない通俗的な説であると明言し、その論駁を主な目的としている。だが、私は、そうした動機、およびその議論の方法が懐疑主義的なものであるとも、あるいは、結論としてヒュームが懐疑主義者であるとも解釈されないものであると考えている。しかし、だからといって、ヒューム思想の本質が実際には彼自身が否定した二元論に拠っているということでもない。経験論は通常、知覚の中断にも関わらず、時間的経過における主体の在り方は不変的で同一的であるような主体実在論的立場にある。ヒュームは人格の同一性を批判しているものの、ヒューム思想全般の理論的背景として、そのような主体実在論的な経験主義、あるいは彼が否定するところの、主体の実在性を認めるような二元論を採っているとする解釈も少なくない。この論文における目論見としては、人格の同一性分析におけるヒュームの反主体実在論的立場が、因果分析を可能にしているヒュームの経験論と理論的に矛盾しないことを示し、ヒューム思想というものが、二元論あるいは主体実在論とは異なる形で主体の拡がりを示していることを明らかにしてゆくことにある。ヒュームの『人間本性論』における因果分析、人格の同一性分析を通しつつこれらのことを検証し、二元論的主体をどのような意味において否定しているのか、そして、主体というものがどのような位置付けをされているのかを考察してゆきたい。
著者
菅原 憲二
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.A23-A38, 2001-02-01

京都御倉町は、現在中京区に属し、三条通に面し、烏丸通と室町通で東西に区切られた両側町である。祇園祭の際には、応仁の乱以前に楊雄山を出し、近世では神輿の轅町であったように、由緒を誇る下京南艮組の古町であった。豪商千切屋惣左衛門が根拠としていた町でもある。この町に町有文書があることは『明倫誌』や秋山國三 『公同沿革史・上巻』に掲載された史料によって、早くから知られていた。しかし、町有文書自体の所在は長い間不明であった。...
著者
辛 大基
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.81-94, 2005-09-30

李箱の代表作「終生記」は遺書として書かれた作品として知られている。この作品で問題視したい箇所は、序文に「十三篇の遺書」を書いてきた事実を明記していることであるが、そのため李箱の遺書は「終生記」だけではなく、他にも存在することが推測できる。ただしそれについてははっきりした資料が残っていないのが現実である。もう一つは「終生記」には芥川龍之介の遺書と自分の遺書を比較しながら、そこから離れて独自的な作品を書こうとする決心も表れているため、李箱独自のスタイルとともに芥川からの影響関係をも考えられるのである。したがって本論では、このような李箱の遺書をめぐって、作品の構造や内容を分析することによって「十三篇の遺書」を見つけ出すことを試み、また芥川の遺書と比較を試みるのと同時にそれを通じて改めて李箱の遺書の本意を考えてみたいと思う。
著者
菅家 和雄 カンケ カズオ KANKE Kazuo
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.63-77, 2008-09

近年多くの論文で相関係数が時変動しない仮定が棄却されている結果が示されている。このような中、従来より相関係数が時変動するモデルは数多く提案されているものの、強い制約条件が付加されている場合や推定しなければならないパラメーター数が多くなる等の問題点があった。Engle(2002)等はこのような問題点をある程度軽減したDynamicConditional Correlation (DCC)モデルを考案し、その後もDCC モデルを対象とした研究が徐々に増加している。一方でポートフォリオを考えた場合、市場を観察すると、しばしば個別要因リターンを打ち消す以上の大きな市場要因リターンが発生すると、非常に多くの資産が一斉に同方向へ変動し、個々の資産の変動の相関が高まる場面が見られる。そこで本稿ではDCC モデルに同方向へ変動する資産数を組み込み、東証業種別株価指数を用いて実証検証を行い、代表的なDCC モデルと比較したところ、対数尤度等において改善が見られた。
著者
丸 祐一
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.151-163, 2001-02-01

本稿の目的は、アメリカの法哲学者ロナルド・ドゥオーキンが提唱する憲法の読み方「道徳的読解(moralreading)」がどの様な考え方であるのかを明らかにすることである。ドゥオーキンは彼の一連の著作を通じて、法解釈には道徳的な考慮が不可欠であるという主張を繰り返している。その中でも、本稿で取り上げる「道徳的読解」という考え方は、その名称からしても、彼の主張を最も直裁に表していると言えよう。
著者
中村 隆文 ナカムラ タカフミ NAKAMURA Takafumi
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-17, 2008-09-24

現代哲学思想において「ヒューム主義(Humeanism)」というものは、反実在論(anti-realism)、あるいはそれに准ずるような、性質に関する「非.認知主義(non-cognitivism) 」として、一般的には主観主義に近い形で理解される傾向にある1。そのような傾向のもと、或る種の反実在主義者(そして、そのほとんどが非-認知主義者であり、たとえば、A.J. エアーのような表出論者やS. ブラックバーンのような投影論者たち)はヒュームの主張を好意的に取り上げる一方、或る種の実在論者たち(たとえば、J. マクダウェルのような認知主義者)はヒュームの主張それ自体を批判しながら反ヒューム主義を提唱するという対立の図式が出来上がっている。しかし、そもそもそうした反実在論vs. 実在論の対立が、あたかもヒューム思想を認めるかどうかであるように図式化されていることについて、私はそこに違和感を感じる。もちろん、その対立図式のもとで生み出された各種議論はそれぞれ重要な意味をもっているのであるが、そもそもヒューム思想がそのような二分法によって理解されるべきものであるかどうかについて、本論考全体を通じて考えてゆきたい。 本論考で紹介するヒューム主義的思考法とは、簡単にいってしまえば、通常は当たり前とされるような関係(いわゆる「分かっている」)を分析し、それが必然的なものではないこと(しかし、同時にそれが不可欠な形で採用されてしまっていること)を論じる手法である。そうした手法を通じて、我々が通常当たり前のように用いている「私」「われわれ」の概念を分析しながら、ヒューム主義というものが奥深く、かつ非常に哲学的な態度であることを論